小説「夢幻~ゆめまぼろし~」 最終話「本能寺 後編」
最終話「本能寺 後編」 館の一番奥の部屋。 信長の心は、不思議と静かだった。 外は、血で血を洗う地獄絵図であるというのに、この一室だけは、静まり返っていた。 乱世という、地獄……。 信長は、その地獄を必死に生きてきた。 自分が手をかけて殺した人間はどれほどいるのか、命令を下して家臣に殺させた人間はどれほどいるのか、数え切れるものではない……。 乱世を長引かせるためではない、乱世を終わらせるために、必死に駆け抜けてきた。 しかし、それも終わる……。 信長は、部屋に火を放った。 信長が、刀に手をかけたそのとき、目の端で、炎と見紛う緋色の小袖と、ゆらりと揺れる女の長い髪を見た。「誰ぞっ?!」 ハッと、刀を構えてその方を振り返る。 信長は息を呑んだ。「……お濃?!」 火が立ち上り始める部屋の隅に、濃姫が立っていた。 眠るように息を引き取ったあの頃のまま、変わらず若く美しい濃姫の姿がそこにあった。「やっと気付いてくださったのですね、殿」「……お濃……いや、幻……?!」 信長は幾度も目を瞬いた。「いいえ、幻などではございませぬ」「幻では……ない?」 光秀の謀反にすら、是非に及ばすと、即座に命を絶つ覚悟をするほど冷静沈着な信長が、これには驚いた。頭の切れる人間は、現実目の前の出来事に即座に対処する頭脳を持っているが、死者が現れるなどと荒唐無稽な絵空事には、対処出来ないようである。 立ちすくんだまま動けない信長に、濃姫はゆっくり近づくと艶やかに微笑んだ。「殿はお忘れになったのですか? 濃はいつも、殿と共に居りますると申しましたのに」「いつも……わしの側に……?」「殿は、私の鼓の音を聞いてくださっていた」 信長は目を見開いた。「ずっと……? あれからずっと側に居たというのか?!」「……わたくしは、女に生まれてきたことで殿と出逢うことができました。しかし、その反面とても歯痒い思いをしました。女の身では、戦の場にいる殿をお助けすることも出来ない。しかし実体をなくした今なら、殿と共に戦の場に赴き、殿をお守りできると……」 信長のあまたの戦の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。 奇跡のように、命を救われたことが幾度となくあった。そのとき、いつも濃姫のことを思った。肩に、背中に、濃姫が乗せる温かい手の感触を感じることがあった……。 信長は、すべてを悟った。「……そなたが今、幻でなく見えるということは、わしの命はここで尽きるということじゃ」 濃姫がゆっくりと頷いた。 信長は、自嘲気味に言った。「……夢幻であったな、この世はすべて」 信長が好んで舞った敦盛が、すべてを物語っていた。 人生五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり……「いいえ、殿」 濃姫は、かつての射るような瞳で信長を見た。「殿が今まで、築き上げたこの時代は、夢幻などではございません。すべて……時の流れでございましょう。時は留まることを知りません。刻々と流れて行く……。殿は、尾張のうつけは、この乱世を沈め、天下統一の道をおつくりになった……。それは殿にしか成しえなかったことにございます」 乱世の時代に世に送り出されたひとりの素晴らしき天才。 天才というものは、天才であるがゆえに、凡人とは分かり合えないことが多すぎる。 乱世は鎮めた。信長の天から下された使命は果たされたのである。「のちの世は、次の誰かが、殿の作った道を広げ、美しく形作っていってくれるでしょう……」 濃姫は、信長の胸にそっと身を傾けた。 信長は、濃姫をしっかりと腕に抱いた。「この世の最期に、幻ではないそなたに逢えるとは……。わしは満足じゃ。ここで果てることに、一片の悔いもない」「いいえ、殿」 濃姫は、少女のような悪戯っぽい眼差しで信長を見上げた。「殿と私はいつでも共にあるのです」 共にある……とは? 信長は、濃姫の言葉の意味を量りかねた。「お濃……?」「これからはずっと、一緒に眠りましょう……」 濃姫は、着ていた小袖でそっと信長と自分を包むように覆った。 緋色の小袖は迫りくる炎の色にとけた……。 次の瞬間、襖を切り裂いて、敵がなだれ込んでくる。 風が入り込み、炎がさらに勢いを増して、敵は一瞬ひるんだが、声を荒げて叫んだ。「ここが最後の部屋じゃ!! 必ず、ここに信長の屍がある!! 探せ!! 探して首級取るのじゃ!!」 甲冑を着た何人もの敵が、炎の中に消えていったが、信長と濃姫は、すでにそこにはなかった……。 庭に、息絶えた峰が濃姫の懐剣を握りしめたまま微笑むような顔で死んでいた。 周りの屍とは対照的に、安らかな死に顔だった。 蘭丸も、体のあらゆるところに傷を負い、体中の血を流しつくしてしまったかのような無残な屍となって転がっていた。しかし、その顔は、峰と同じく安らかであった……。 尾張。とある農村。 見事に美しく咲き誇る藤の大木の他は、のどかな田畑が広がっていた。 子供たちが、藤の木の近くに集まっている。 そこへ、何人かの子供に引っ張ってこられた近所の古寺の和尚が歩いてくる。「和尚さま、和尚さま、人が倒れてるよ」 子供のひとりが藤の木を指して言った。 藤の木を抱えるようにして、白い寝巻き姿の武士が倒れている。「行き倒れかのぅ……」 和尚は、木の下に屈んで武士を見た。 それは紛れもなく、織田信長、そのひとである。 しかし、信長の顔から眉間の皺は消え、体からすべての毒が洗い流されたような清々しい顔つきであったため、例え生前この和尚が信長を拝顔したことがあったとしても、わからなかったであろう。無論、村の子供たちが、信長の顔を知るはずもない。 子供たちと和尚が藤の木の側にいるのを見て、畑仕事をしていた農民も、近づいてきた。「和尚さま、何かあったんだか?」「行き倒れのようじゃ。誰ぞ、名のあるお方のようじゃが、身分を示すものを何ひとつお持ちでないのでな。寺で供養して……」 そう言った和尚の目の前に、ひらひらと藤の花が舞い降りてきた。「おおそうじゃ、この藤の木の下に埋めて差し上げよう。さすれば、今の季節には毎年花が咲いて、御仁を弔ってくれるからの」 和尚はそういって、信長のために念仏を唱え始めた。 そう。この藤の木は、濃姫の生前、信長が濃姫のために枝を手折って贈り物をした思い出の藤である。濃姫が死んだとき、埋めてくれと願ったのもこの木の下であった。信長はその遺言を守り、この藤の木の下に濃姫は眠っている。信長は、濃姫をここへ葬り、この農村のすべての人間におふれを出した。「何人たりとも、この木を切り倒してはならぬ」と……。 農民は、その掟を守り、藤の木は切り倒されることなくずっと農村を見守ってきた。 毎年美しく咲き誇る藤の大木は、この小さな農村の守り神でもあった。 農民は、畑仕事をしている仲間に声を掛け、子供たちも一緒になって、藤の木の下に穴を掘った。 信長を埋葬し終えるのを見届けた和尚は、もう一度、藤の木の下で手を合わせた。「それにしても、何とも清々しいお顔をなさっていたものよ。まるで、この世の毒をすべて洗い流したかのような、神々しいお姿じゃ……」 信長は、乱世という地獄を、天下統一という信念に基づきひた走ってきた。 この世に奇跡という言葉があるなら、魂と魂が惹かれあい、時空を超えることも無きにしも非ず。 無垢で熱い魂が、惹かれあい、絡み合って、京から尾張へ飛んだ……。 己を神と言った信長は、死の瞬間、望んでいた神となったのだ。 この世の毒がすべて洗い流され、心から想ってやまない魂の半身と共に、この世とはかけ離れた世界でふたり、いつまでも安らかに眠っているのである……。 ……夢幻~ゆめまぼろし~ 最終話「本能寺」 完 いや~(^^; 長かった長かった。 これ、so-netブログで掲載していたのを、こちらに持ってきただけなのですが(多少の加筆訂正は行ってますが)、気まぐれなもんで、途中で飽きちゃってほったらかし……。 このたびやっと「本能寺」まで掲載し終えました。 辛抱強く最後までお読みくださったお方、ありがとうございます♪ 歴史上、一番人気のある武将といえば、やはりこの方!! 私の理想の男性でございます。 歴史上の人物なら、織田信長。 空想上の人物なら、レイモンド・チャンドラーの小説に登場するフィリップ・マーロウ。 テレビ画面の向こうにいる人物なら、水曜どうでしょうの「ミスター」こと、鈴井貴之氏。 これが「世界三大美女」ならぬ、「三大イイ男」!!(完全なる独断と偏見) イイ男というのは、どれだけ時代を経てもイイ男なんですねぇ(^^;