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武蔵野航海記

武蔵野航海記

朱舜水

日本の朱子学者たちは何とかして朱子学を日本に定着させて、その権威で日本の社会を徳川将軍中心に安定させたいと考えていました。

徳川の将軍を正統化させるには、徳川を征夷大将軍に任じた天皇の正統性を証明しなければなりません。

ちょうどそのときに彼らに都合の良い事件が起きました。

1644年にチャイナの明が潰れたのです。

李自成というボスに率いられた農民反乱軍が明を倒したのですが、満州族がこの農民反乱軍を壊滅させ、チャイナで王朝を開いたのです。

満州の部族長だったアイシンギョロ・ヌルハチが満州を統一し、さらにチャイナや周辺諸国を平定したのです。

なお満州人が建てた清の領土は従来のチャイナの部分であり、モンゴル・満州・ウイグル・チベットは清に含まれていません。

お互いに独立している国で清の皇帝である満州人が、その国の王も兼ねているというだけの関係です。

チベットはダライラマを元首とする独立国で満州人の皇帝はチベットの保護者という関係でした。

家康存命中のチャイナは明帝国の末期で、夷狄である満州族の攻撃で気息奄々の状態でした。

そして夷狄に対して劣勢だったからこそ、文明である中華と夷狄との区別にうるさい朱子学が盛んだったのです。

ところがその明が滅亡してしまい、チャイナを聖人君子の国と崇め自国を夷狄として卑下していた日本の朱子学徒は、大ショックを受けました。

明の滅亡後、チャイナでは朱子学徒が中心になって夷狄たる満州人への抵抗運動が各地で起こりました。

そのなかの一人に鄭成功がいます。

彼の父親は海賊で母親が日本人なので日本でも有名で、「国姓爺合戦」という歌舞伎の主人公にもなりました。

彼は配下の海賊達を動員して満州軍に対して抵抗運動を続けました。

そのために滅亡した明の亡命政権から、明王朝の苗字である「朱」を与えられたのです。国姓爺とは皇帝の一族の苗字を持った男という意味です。

この鄭成功が徳川幕府に対して救援要請の手紙をよこします。

そのなかに「明が畜類の国になってしまった」という一節があります。

チャイナの道徳を守らない異民族は人間ではなく動物(畜類)なのです。

聖人君子の国が畜生の国になってしまったわけです。

当時明から多数が日本に亡命してきましたが、中でも朱舜水(しゅしゅんすい 1600年~1682年)は、多くの日本人に影響を与えました。

彼も日本の援助によって明を再興しようとしたのであって単なる亡命者ではありませんでした。

日本に来ては援助を要請し、断られてはチャイナに戻るということを六回繰り返しています。

彼は鄭成功の海賊ゲリラ部隊にも参加しています。

彼が最終的に日本に永住したのは1659年でそのとき60歳でした。

舜水は明朝の為に大いに戦い満身創痍という感じで日本にやってきました。

それまで書物でしか朱子学に接していなかった日本人にとって、正統な王朝を守るためにすべてを捧げた朱子学徒の実物を見て大いに感銘を受けました。

戦国時代の日本人の戦いはいわば損得勘定で、抽象的な正義の為に戦う者はまれでした。

節に殉じるという行為がなかったわけではありません。

太閤秀吉が死に、その子秀頼が徳川家康に圧迫されていた時、秀吉恩顧の大名である福島正則はなんとかして秀頼を守ろうと努力しました。

しかしその福島正則も大阪の陣のときは徳川方につき豊臣家を攻撃しています。

世の流れが徳川将軍に向っている時はあえてそれには逆らわないのです。

豊臣家も徳川家も自然の一部であり、それぞれが無欲に自分の位置を知るべきだと考えたのです。

これは明恵上人の「あるべきようは」の教えそのままです。

しかし豊臣家は無欲に自分を見つめることをせず、かつて徳川家康は豊臣家に臣従していたという事実だけにしがみついていました。

この態度を福島正則初め多くの日本人は「自然に反しており」正しくないと考えたのです。

ところが日本人の目の前に現れた朱舜水は全然違った思想の持ち主でした。

舜水とて満州人がチャイナを平定してしまったことは既定の事実で、明を再興することが不可能なのは分っていました。

しかし正統に殉じるというのが彼の思想であり生き方なのです。

彼にとっては他人の動向など関係がないのです。彼が正統と信じている明を再興する以外のことは考えられないのです。

「百万人といえども我行かん」という態度です。

なお舜水が明を再興しようとしたのは明がチャイナの皇帝として正統であると思ったからであって、明という王朝が何百年と続いていたからという理由ではありません。

この日本人とは全然違い、一つの思想に殉じるという態度に多くの日本人が痺れました。

そして一つの思想の持つ力の大きさに目をみはったのです。

朱舜水は、彼に心酔する日本人の奔走で長崎奉行により日本での永住権を認められます。

ちょうどその頃、徳川御三家の一つ水戸藩の殿様だった水戸光圀が家臣を長崎に派遣して、適当なチャイニーズを招聘しようとしました。

どうも歴史上には運命的な出会いというのがあるようです。

なにも運命的な出会いをするのは男と女だけではありません。

水戸光圀と朱舜水も運命的に出会ったようです。

二人が出会った時、水戸光圀は37歳、朱舜水は64歳でした。

以後舜水が死ぬまでの17年間、光圀は舜水を師としました。

この光圀が大日本史の編纂を企てました。日本の正統な支配者は天皇であることをこの書物で証明しようとしたのです。

徳川御三家の当主が徳川将軍を否定しようと考えるわけがありません。

徳川の支配を正統化するには天皇を正統な支配者だとしなければならないと考えたからでした。

在野の朱子学徒であった山崎闇斎の弟子と朱舜水の弟子が編集をしました。

そして60年以上の歳月と莫大な費用をかけて大日本史が出来上がりました。

この大日本史編纂の過程で水戸藩は尊王思想の中心となり、幕末明治維新の思想的震源地になって行きます。

このように朱舜水は、水戸光圀を通じて幕末の日本に強烈な影響を与えたのです。

この舜水が日本に来て楠正成を発見しました。

それまでは楠正成は合戦が上手い人だとは思われていましたが、朱子学の思想を体現した人だとは考えられていませんでした。

それが本場から来た大先生に褒められたために、楠正成は一躍朱子学のスターになってしまったのです。

一方は明王朝のため、一方は南朝の天皇のために勝ち目のない戦いをしたことでは両者は同じです。

舜水は正成を儒教精神を体現した人物として絶賛しました。

日本には昔から朱舜水のような朱子学の精神を体現した楠正成という人物がいたということが分かり、日本人の朱子学徒は大いに喜びました。

また日本に亡命してきたチャイニーズの朱子学徒は、畜生に占領されたチャイナはもはや儒教の行われている所だとは認めませんでした。

そして最後には、儒教が行われている国は日本だけであると日本人は考えるようになったのです。

その証拠に日本には昔から楠正成のような人物がいたではないかというわけです。

儒教が行われているのは日本だけだという考え方から、日本にあるものはすべて儒教の教えに合致していると考える様になりました。

天皇と幕府が並存している状態も正しいと考えたわけです。

以後、天皇と幕府の並存状態が正しいとするのが日本の朱子学の主流になって行きます。

しかし本場の朱子学には朝幕並存などという考えはありません。

天は地上を道徳的に治めるために天子を任命し政治を行わせるのです。

その天子を飾り物にして家来が政治を行うというのは本場の儒教から見たらとんでもないことです。

これ以後、日本の朱子学はこの矛盾を何とか合理的に説明しようとします。

その結果、儒教ではなく儒教もどきになっていきます。


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