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sakaimo0629

sakaimo0629

2004.04.05
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カテゴリ:カテゴリ未分類
母に学んだ「商人道」
兄が教えた「人の道」


伊藤雅俊が物心ついた時、家業は煮豆屋だった。今の武蔵小山商店街
(東京・目黒区) である。煮豆屋という業種は既に姿を消したが、
近いものを挙げれば、作り売りの惣菜店になろうか。

前夜遅くまで掛かって仕込みをし、朝早く起き出して、煮豆をはじめ
各種のおかず類を作る。労をいとっていたのでは成り立たない小さな
商いである。少量の商品でも売り切ることのできる日はそう多くない。
売れ残った商品を、少年の伊藤は悲しい思いで見つめた。それは自家
での晩のおかずになる。

“箱入り娘”が
商売に執念


両親はこの店を開く前、短い間だが、東京・渋谷の店に奉公した。
商売を習い覚えるためである。父親は結婚前、証券会社に勤めていた。
株屋と呼ばれていた時代である。株屋から小売業に商売替えしたのは、
恐らく母ゆきの強い働き掛けによったのではないか。

母ゆきは東京・神田にあった大きな乾物問屋、吉川商店の娘である。
「商売さえしていれば、何とか食っていける」という人生哲学の持ち主
だった。勤め人の安定感に信頼を置いていなかった。昭和の初めには
珍しい考え方ではなかったろう。

当時、後に百貨店に衣替えする呉服の伊勢丹が近くにあり、創業家の
小菅家のお嬢さんと仲良しだった。家には、まだ個人宅にほとんど
普及していなかった電話が引かれていた。裕福な家庭だった。
電話交換手相手にいたずらをして、たしなめられた逸話がある。その
実家が父親の病死が原因で没落する。伊藤の母が商売にこだわり、
ひたむきに取り組んだ背景には、「何とか家を再興したい」という強い
思いがあったのではないか。伊藤はそう考えている。

そんな思いを込めて、商売の道に入ることを夫に説いたと想像できる。
商家の娘とは言え、商売を手伝っていたわけではない。改めて夫婦で
仕事を習うことにしたのだろう。

店には両親と伊藤の他に、もう一人“奉公人”がいた。伊藤は父親を
「旦那さん」と呼ぶその人を奉公人だと思っていた。それが13歳年上
の異父兄、譲である。小学校も高学年になって、伊藤は兄であると
知った。

母ゆきと兄譲が、伊藤の人生と商売の原点と言っていい。母親を敬慕
するのは普通のことだが、伊藤のそれは並外れている。母の教えと兄の
生き方を、全く揺らぐことなく一生の道しるべにした伊藤のような人生
は、世の中にそうたくさんは例があるまい。

ゆきは商売上手だった。才覚にあふれた人だったようだ。「店前に水を
まく時は、自分の店の前だけまかず、両隣の前にもまきなさい。そう
すると店構えが大きく見える」と伊藤に教えた。

商売が軌道に乗ってくれば、扱う品も増えてくる。作って売るだけでなく、
仕入れて売るものが多くなり、煮豆屋から漬物屋に変化したということ
であるらしい。煮豆屋と漬物屋の違いは分かり難いが、要するに商売が
広がったのだろう。お茶や海苔も扱い始めた。

お茶や海苔は収穫期に1年分の仕入れをすると、安く手に入る。最初の
内は販売力も資金力もないから、近くの大きな同業店から少しずつ
分けてもらうしかない。当然利益は上がらないし、情けなくもある。
伊藤はゆきが頭を下げて分けてもらう様子を覚えている。

さして時が経たぬ内に、茶箱で仕入れるようになった。海苔も1年分
仕入れ始めた。支店を自由が丘と大岡山に2軒開き、1店は譲が任される
ようになった。伊藤はこの間、大いに店を手伝ったわけではない。たまに
御用聞きや配達を受け持った程度らしい。しかし、ゆきが商売上手である
ことを、ちゃんと見抜いて観察していたようだ。

背中を見て学び
頑固一徹に守る


新しい店を出したりするのに、まとまった資金がいる。銀行は小さな
小売店など見向きもしなかった時代である。ゆきは弟の元に何回か借金に
出向いた。その際、必ず伊藤を伴った。小さな子供でも用向きは分かった。
嫌で嫌でしょうがなかった。後にイトーヨーカ堂が実質的な無借金経営を
続けたのは、この時の経験から生まれた、伊藤の「借金嫌い」による部分
もある。

この伊藤にとっての叔父、吉川敏夫は元々足袋屋に奉公していたが、
洋品店をやりたくて「羊華堂洋品店」を開いていた。なかなか進取の気性
に富んだ人で、日本で最初のボランタリーチェーンを組織した。動くショー
ウインドウを作って、おまわりさんが出て整理するほど人を集めたことも
ある。

終戦後、「羊華堂」の一店を譲が暖簾分けしてもらったのが、「イトー
ヨーカ堂」の名前の由来である。

商売がうまく回ると、父親が道楽に走り出した。よくある話だ。夫婦喧嘩
はしょっちゅう。父親は夜になると、ふらっと出掛けてしまう。元々、
商売の方はゆきに任せっきりで、大きくしたのはゆきと譲の二人だった。
結局、両親は別れることになった。

伊藤はゆきと譲に、今も限りない同情と感謝の気持ちを抱く。譲は奉公人
の扱いで働いていた。伊藤にすれば、暖簾分けの仕方も納得できなかった。
喘息持ちで咳き込みながら働く姿をよく見ていた。家計の苦しい中から、
伊藤を専門学校に通わせてくれた。羊華堂の年商が1億円になり、これから
という時に44歳で亡くなった。涙がこぼれるほどの同情心を覚えている。

ゆきをないがしろにした父を許さなかった。二人が別れた後、一切行き来
せず、葬儀にも出なかった。二人を敬慕する気持ちが深いのは、こんな
いきさつがあるためだが、伊藤の柔和な表情の裏にある強情さ、意志の強さ
を思い知る。

伊藤がゆきに心服するのは、その才覚ゆえではない。商人としての心構え、
商売に取り組むひたむきさ、骨惜しみしない姿勢に対してである。伊藤は
それを「背中で教えてくれた」と表現し、「商人の業を見た」と言う。

今に続く基本
三つの「ない」


伊藤がゆきに教えられ、今も商売の基本とするのは三つの「ない」である。
「お客様は来てくださらないもの」
「お取引先は売ってくださらないもの」
「銀行は貸してくださらないもの」

もちろん今では、イトーヨーカ堂の店舗は客を集め、問屋も銀行も競って
取引を求める。しかし、その状態が続く保証はどこにもない。状況は明日
変わるかもしれない。だから三つの「ない」を前提に、すべてを考える。

その時、商人が頼れるもの、立つべき基盤は何か。それはお金でも物でも
なく、信用である。伊藤が信用を失いかねない行いに対して、自分にも
社員にも極めて厳格なのは、そこが商人の根本と考えるからである。
例えば、伊藤は創業以来、取引先に対する支払いを遅らせたことは一度も
ない。社員には取引先から接待を受けるのを厳に禁ずる。

どんなに売り上げや利益が増えても、この基本哲学が揺らぐことはない。
その厳格さと持続性が、伊藤の商人としての際立った特徴だろう。自分が
商人であると規定し、そのためには教えられたことを守り抜くのだと素直に
考える。そうした精神の働きがいかにして可能なのか、不思議にさえ映る。

ゆきの骨惜しみしない姿にも、伊藤は大きな影響を受けたに違いない。
「骨惜しみ」という言葉自体、死語になりつつある観があるが、骨惜しみ
しないのは商人の基本動作と言ってもいいものである。個人的な感想を差し
挟めば、「モノが売れない」と言いながら、仕入れを他人任せにして手を
抜いている商店のいかに多いことか。

ゆきは北千住の店が繁盛し、店員が増えてきた時、厳格にしつけた。当時、
伊藤の家族は店の奥に住み、店員の多くも住み込みだった。ゆきは一室に
陣取り、朝の挨拶、食後の挨拶をさせ、気付いた点は注意した。店の中央に
銭湯の番台のような形でレジがあり、そこに座って店員の接客態度に目を
光らせる。イトーヨーカ堂のしっけが厳しいのは業界では有名である。
ゆきが残したものは今も脈々と生き続けている。

勝てば勝つほどに
抱く「恐れ」


譲は「報われることが少なかった」と、伊藤は思っている。それにもかか
わらず決して腐ったり、投げ出したりせず、真撃に人生を送った。「辛い
のが分かっていてもそちらを選び、真っ直ぐに生きた人」である。

譲がある時、「店を開いたばかりの時は、売り上げを神棚に供えて拝む。
ところが軌道に乗ると、書き入れ時の盆暮れしか店に顔を出さなくなる。
そんな店主が多い。開店時の真剣な気持ちをいつまでも忘れないことだ」
と伊藤を諭した。洋品店では実際、そんな経営者が多かった。伊藤はこの
言葉を片時も忘れず、自らを戒めてきた。

伊藤は譲を「商売の師」と言うが、それは商売の技術を教えられたことでは
ない。商人としてのあり方、もっと言えば人の道を教えられたのである。

伊藤の商売の原点を探ってゆくと、ゆきと譲に行き当たる。ゆきと譲から
受け継いだのは、「地道に、誠実に」という「商人道」と呼んでもいい
古風な思想に見える。一つ断っておくが、伊藤は勉強家で経営書もよく
読んでいるし、現代の経営技術にも通じている。小売業が常に変化に対応
していなければならないことも、よく承知している。それでも、20歳で
小売りの世界に入ってから約60年を経た今日まで、哲学はピクリとも
揺るがなかった。

イトーヨーカ堂は現在、小売業界の勝者と言っていい。勝ち残った要因は、
この哲学以外に見出せない。伊藤は「針の穴を通り抜けるような幸運に、
幾度となく恵まれた。自分は運が良かった」と語る。実感かもしれないが、
謙遜でもあろう。幸運で数年はもっても、60年はもたない。

伊藤が印象深い一言を語った。「経営者は恐れを知らなくてはいけないので
はないか」という言葉である。人間にも企業にも、自分の力ではどうしよう
もないことが起こる。人は病気にもなればけがもする。企業も天災で致命的
な打撃を受けるかもしれない。それはいつ来るか分からない。人も企業もそ
の意味では、小さな存在である。

伊藤に勝者の驕りなどない。60年間「恐れ」を持ち続けてきたし、勝てば
勝つほど「恐れ」を強く抱くのである。
(文中敬称略)

日経ベンチャー2003年11月号より

次は、
伊藤雅俊 イトーヨーカ堂名誉会長
「商人とは、経営者とは」第3回です





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最終更新日  2004.04.07 01:38:20
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