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三角猫の巣窟

三角猫の巣窟

純文学とは何か


芥川賞の季節になると普段小説を読まない人が純文学に興味を持つものの、純文学とは何なのかわからないという人が大勢いるらしいことに気づく。中学や高校の国語で漱石やら芥川やらの小説を読んで純文学に触れているはずだけれど、それでも純文学が何なのかわからないというのはそれだけ純文学は読まれていないということなのだろう。
私も純文学とは何なのかと普段小説を読まない人に聞かれることがあって、説明が面倒くさい。本来ならば純文学誌を出している出版社や純文学作家が「純文学というのはこういうものだよ」と積極的に情報提供するべきなのに、出版社の公式ウェブサイト見ても情報は載ってない。又吉直樹が「火花」で芥川賞をとって純文学を初めて読んで、純文学はよくわからないけどこれから楽しみたいという若い人もいると思うので、純文学とは何なのか、純文学のどこが面白いのかをなるべくわかりやすくまとめておくことにする。

●純文学とエンタメ小説と中間小説の違い

◆純文学(literary fiction)とは何か
純文学というのは芸術表現としての文学である。純文学は平安時代からの随筆、日記の系譜の延長にあって、それが明治時代にフランスの自然主義を取り込んだことによって自然主義私小説となり、娯楽を目的とする大衆文学との区別として純文学としてカテゴライズされた。リアリズムの手法を確立したあとも新しい小説の形式やテーマを模索しつづけ、シュールリアリズム、心理主義、プロレタリア文学、ポストモダニズム、マジックリアリズムなど、世界中に様々な流派がある。ストーリーは小説において最も重要な部分というわけではなく、登場人物の心理や思考や表現手法が重要となる。
純文学は作者の個人的な思想や体験を反映して、あらゆるテーマを取り上げ、言葉を注意深く使っている。大学の文学部で研究対象になり、知識人が教養として読み書きするハイブロウな文学の系譜だけれど、現代では純文学も芥川賞を中心とした売り上げ重視の商業主義になり、純文学から中間小説やエンタメ小説へ転向する作家も多く、教養としての純文学の存在意義はなくなりつつある。

◆エンタメ小説、大衆小説(genre fiction)とは何か
江戸時代にはエンタメ小説の原型となる草双紙というものがあって、昔話、怪談、軍記物など、様々なジャンルの物語を書いてきた。挿絵つきの物語で、小説の原型であると同時に漫画の原型ともいえるかもしれない。
エンタメ業界も大正時代に欧米の小説の影響を受け、江戸川乱歩らのエンタメ作家たちは純文学とは別路線で娯楽としての探偵小説や空想科学小説を提供するようになる。大正時代に円本ブームが起きて、本の値段が安くなり、エンタメ小説は庶民の娯楽として定着する。
ミステリー、ホラー、SF、ファンタジー、時代小説、恋愛小説、ジュブナイル、ハーレクイン、ボーイズラブ、ライトノベルなどと作品のジャンルが明確で、読者の好みに合わせて小説が書かれている。基本的に作者の個人的な思想は反映されておらず、政治色、宗教色は薄く、娯楽としての物語の面白さに特化している。ストーリーが一番重要で描写テクニックはそれほど重視されていないので、素人の小説投稿系サイトでも人気がある。物語を特徴付けるために人物設定が誇張されていて、起承転結のプロットがはっきりしている。

◆中間小説、ノンジャンル(mainstream fiction, slipstream fiction)
基本的には読者を楽しませるためのストーリー重視の娯楽で何でもテーマになるけれど、哲学に軽く触れたりもするし、ジャンル小説の要素もあるし、純文学的なテクニックを使ったりもする。曖昧な結末で読者が物語の解釈に迷ったりすることはなく、純文学とエンタメ小説の中間っぽくて、エンタメ小説よりも描写技術がしっかりしていて読みやすいので様々な年代の読者の読書の入り口となる。エンタメ小説ならそのジャンルならどの作家でも読むというジャンル自体が好きな読者層がいるけれど、中間小説はジャンル分けができなくて読者層が想定できないので売りにくい反面、その作家へのファンがつく。
例:村上春樹、筒井康隆、ポール・オースターなど。

◆純文学とエンタメ小説の違いと見分け方
・作者の感動を物語として書いたのが純文学。読者が作者の知識レベルに合わせて作者の表現意図を読み解かないといけないので、読者によって解釈が異なり、評価も様々。作者の死後に再評価されることもある。
・読者が感動する物語を書いたのがエンタメ小説。作者が読者の理解力に合わせてわかりやすく書くので、読者は予備知識を必要としない。プロットがはっきりしていてそのぶん解釈の多様性はない。
・犯人は××、オチは××、とプロットをネタバレしたら面白さがなくなるのがエンタメ小説、ネタバレしても各読者が自分で解釈する面白さが残るのが純文学と考えるとエンタメ小説と純文学を見分けやすい。

●純文学の楽しみ方
純文学といっても、純文学の中にもさらなるカテゴライズがあり、それが純文学の理解を一層難しくしている。基本的には技巧的なモダニズム小説と前衛的なポストモダニズム小説の違いを理解することで、純文学がどういうものか理解しやすくなる。

◆モダニズム小説の楽しみ方
モダニズム小説はいわば作家の経験と知識と技術の集大成で、素人目に見てもこれはすごい、素人ではまねできない、と思えるような芸術的な見所がある。よく練られていて整合性のあるプロット、体験を過不足なく記述する観察眼、迫真の心理描写、独自の言葉遣いや比喩や文章構成のテクニック、解釈の多様性など、あらゆる点で作家の個性的な才能がむき出しになっている。歴史、宗教、哲学や文学理論等に裏打ちされた小説なので、読む側にも理解するために相応の知識が必要となる。「何を表現しているのか」と「どう表現しているのか」の二点に気をつけて読むと作品の良し悪しがわかるものの、技巧の良し悪しは読書量が少ない人にはわかりにくい。

◆ポストモダニズム小説の楽しみ方
モダニズムと反対の特徴をもつものがポスト・モダニズムと呼ばれて、1980年ごろに流行した。プロットの矛盾、無意味な文章の羅列、脱線、模倣、パロディ、図の挿入などを積極的に取り入れていて、いわばじゃんけんで中指を立てたりして暗黙の約束事を破ってびっくりさせるようなわけがわからないくだらない小説で、予想を裏切るような理解できなさを楽しむのである。
普通の読書に飽きた人にとっては面白いという珍味、ゲテモノ食いの類で、読書経験が乏しい初心者が読むようなものではないので、ポストモダニズム小説が面白いという人がいても真に受けてはいけない。しかし純文学の新人賞や芥川賞では既視感のあるモダニズム小説よりも意味不明なポストモダニズムが新しそうだともてはやされる傾向があり、純文学はつまらないという悪評の原因となっている。

<予備知識としての純文学のジャンル>
もっと詳しく知りたいという人のために、純文学のジャンルと楽しみ方を紹介しておく。これは○○主義の小説だなというのが事前にわかるだけでも自分の好みと合わないはずれを引く可能性は少なくなるし、自分の好みと合う小説を見つけやすくなる。恋愛小説や冒険小説が好きな人はロマン主義小説を好きになるかもしれないし、SFのような見たことのない世界観が好きだという人はシュールリアリズムを好きになるかもしれないし、ファンタジーが好きな人はマジックリアリズムも好きになるかも知れない。プロットが練られたモダニズム小説が好きな人にとってはプロットが回収されなかったり脱線したりするポストモダニズム小説はつまらないかもしれないし、波乱万丈なロマン主義の小説が面白い人にとっては、事実をそのまま書く自然主義の小説はつまらないかもしれない。

◆古典小説(~19世紀後半頃)のジャンル
・古典主義(⇔ロマン主義):古代ギリシャ・古代ローマ的芸術を模範にした厳格な形式がある芸術志向なり→古臭い雰囲気を楽しむなり。
・バロック文学(⇔古典主義):生と死、現実と幻想、偽りと真実など対立するものが混淆して想像的で感情的なのだッ!→混沌を楽しむのだッ!
・ロマン主義(⇔古典主義):個人の不安や苦悩に焦点を当てちゃう→主人公の波乱万丈の人生を楽しんじゃう。
・教養小説:主人公の内面が成長して自己形成する様子を書く小説ですよ→主人公の成長を楽しむのですよ。
・心理小説(⇔写実主義):登場人物の心理の動きを観察・分析した小説である→心理の変遷を楽しむのである。
・写実主義(=リアリズム)(⇔心理小説):登場人物を外面から観察してリアルに書く小説→リアルな物語を楽しむ。
・自然主義(写実主義の一派):自然の事実を観察して、事実を書くために美化を否定するのよ→ありのーままのー姿を楽しむのよー。
・反自然主義:白樺派(人間を肯定した理想派)、新現実派(白樺派のボンボンは空想的すぎるからもっと現実を見ようよ派)、余裕派(人生に余裕をもとうよ派)→ありのーままのー状態よりも理想や余裕がある感じを楽しむのよー。
・象徴主義(=サンボリズム)(⇔自然主義):事物を忠実に書かないで特別な印象や感覚を探求したポヨ→象徴の印象を楽しむポヨ。
・高踏派(⇔ロマン主義):厳格な形式で異国趣味で古典的な主題を書くざます→古臭くて厳格な雰囲気を楽しむざます。
・耽美主義:思想や道徳よりもとにかく美を最優先death。゚✧ً⋆*:✼.。✿.。→美しさに耽溺して楽しむdeath。゚✧ً⋆*:✼.。✿.。。
・観念小説:日清戦争後の資本主義社会の暗黒面の観念を問題提起したよ→陰鬱になって楽しみなよ。

◆近代小説(20世紀~第二次世界大戦前頃まで)のジャンル
・モダニズム(⇔ポストモダン):矛盾がなく簡潔で秩序があって独創的で普遍的な小説だもん→洗練された技法を楽しむんだもん。
・失われた世代:第一次大戦に遭遇して従来の価値観に懐疑的になった世代の作家たちだぜ→失われた世代の作家たちのやさぐれ具合を楽しむんだぜ。
・プロレタリア文学:個人主義的な文学を否定して社会主義思想と結びついた文学だぁよ→労働者に同情して社会正義の理想を楽しむだぁよ。
・新感覚派:私小説リアリズムを否定して近代の現実を感覚的に捉えました→近代的な雰囲気を楽しみました。
・シュールリアリズム:現実離れしてるけどリアル( ͡° ͜ʖ ͡° )な小説ッス→現実離れしたリアル( ͡° ͜ʖ ͡° )具合を楽しむッス。
・ハーレム・ルネサンス:アメリカの黒人文学だYo→黒人の文化を楽しむんだYo、メーン。
・不条理小説:人間の不条理な運命を書く……!→不条理に悶々として絶望を楽しむ……!

◆現代小説(第二次世界大戦後~)のジャンル
・戦後派:戦争に行った作家による戦争文学サー→戦争の様子を楽しむサーイエッサー!
・マジックリアリズム:猫「日常と非日常が融合したリアリズムだからね」→猫「魔法にかけられたような感じを楽しむんだからね」
・ビートジェネレーション:酒とドラッグをやってノリノリのビートな小説なのさウェーイ→酒とドラッグをやってノリノリで楽しむのさウェーイ。
・ヌーヴォー・ロマン:『[(実験)的/な]小説』→実験+具合÷を=楽しむ。
・ポストモダン(⇔モダニズム):反近代小説的で、無秩序、矛盾、模倣を肯定する小説(笑)→矛盾を楽しむ(笑)。

●純文学は役に立つのか?
しばしば文学は役に立たないと豪語する人が現れる。「俺は小説なんか読んだことないけど、出世したし、結婚して子供もいるし、家も建てたし、貯金もウン千万ある。文学が教養扱いされているけど、小説を読んでも社会では何の役にも立たない」というような態度は会社経営者などの金と地位がある人に多い。純文学は役に立つのだと反論しておきたい。

◆純文学は人間を理解するのに役立つ
エンタメ小説がわかりやすい娯楽を提供するのに対して、純文学の目的は娯楽ではない。作者は物語を通じて自分の世界の認識を書いて、読者は読書によって自分とは違う他人の人生を理解する。
同時代の日本に生きる他人を理解するということに加えて、今の我々とは別の時代、別の国、別の言葉、別の文化を生きた人を理解する。つまりは有史から様々な困難を生き抜いてきた人間の可能性、多様性を理解するということだ。そこには生死の処世術が詰まっている。それゆえ人類が存続する限り、古典文学は人類の思想の歴史として不滅の価値が残り続けるのである。
読者は当然ながら読書をしなくても現実世界からも他人や社会を理解しようとするけれども、それだけでは身の回りの物事しか理解できないし、自分が直接体験していない過去や、仮定の社会状況で起こりうる可能性を理解することはできない。現代の作家は読者にとって金を出して読む価値があるものを提供しないといけないわけで、マイナーな職業を取材したり、心理描写をしたりして、読者の知らない世界や、読者の知らない人間の一面への理解を促すのである。読書が共感の感覚をもたらすということは、読者が他者を理解したということだ。
近年の研究で読書は共感力を高めることが明らかになりつつあり、架空の出来事の記述を読んだ時と、その出来事が実際に自分の身に起こった場合とで、脳の同じ部位が反応するのだそうな。小説は役に立たないという人は人間や社会を理解することは金儲けや出世の役に立たないと言っているに等しいし、他人への共感能力が乏しいのはサイコパスの特徴である。社会的に成功した人で読書を重視する人と軽視する人が両方いるけれど、後者は利己的に他人を踏み台にしてきたサイコパスの可能性がある。他人のことや社会問題などは考えずに利己的に目の前の仕事だけやってたほうが出世するだろうし、金を稼いで欲しいものを買って自分ひとりだけは幸せになるだろう。しかしそういう人は会社では結果を出して出世する反面、他人を理解しないということは家族や友人たちをも理解しないということにつながり、裕福な家庭で問題児が育ったり、会社を辞めたら元部下から相手にされなくなったり、熟年離婚したり、金では解決できないところで問題が起きる。文学は役に立たないという人は、その言葉によって拝金主義的で視野が狭い共感能力のなさを曝け出しているのである。そういう人が他人を理解するために文学はあるのだ。

◆純文学は認識を相対化するのに役立つ
我々はよくもわるくも自分ひとりの意識しかもっていない(神の声が聞こえるというアレな人は別として)。自分で経験したことは正しいのだ、自分はこの生き方で問題なかったのだから変える必要はないのだと、井戸の中の蛙のような狭い世界観を絶対化しがちなのである。しかし他の人は世界を違うように捉えている。純文学を読むことで他人が見た世界を追体験して、自分の認識を相対化することができる。そうすると自分の欠点や間違いに気づいて改善したり、自分が他の人と違う独自の長所を持っていることを再発見したりできるようになる。
世界中が近代化・欧米化して国の文化の差異が小さくなり、独自の神話や民話が忘れられて、どの国でもコンクリのビルに住んでスマホを使ってジャンクフードを食べて、選挙だのストだのと経済中心の似たような生活をするようになると、純文学の担う役割も乏しくなってくる。しかしまだ純文学の役割が終わったというわけではない。
男女の差異や考え方の違いはいつの時代にも魅力的な謎として残るし、親子の年代間の差異もいつの時代でもある。スマホやネットとかの科学技術よって社会は急激に変化していて、現在と過去の相対化も常に行われている。あるいは派遣労働者や個人投資家やフリーランスといった新しく生まれた職業の差異もある。自分と違う年齢、性別、立場の人間の物の見方、考え方を知ることで、より複雑で広い世界を認識できるようになるのだ。

◆純文学は文化を保存をするのに役立つ
その時代に流行った言葉や廃れた言葉、当時の庶民の生活の様子や芸術の流行などが小説の中に保存されているがゆえに、我々は自分で直接見ることのできない過去の人間の様子を推測でき、過去の人間の思考を知ることができる。
日常に価値はないと思っているのは我々が現代の価値観でしか物事を見れないからだ。1000年前の平安時代の日常を書けば時代小説として価値があるように、我々が現在生きている日常生活も1000年後にはプレミアがつく日常になるかもしれない。純文学が現代の平凡な日常を書くことの価値はそこにある。誇張が多いエンタメ小説では日本の文化の記録としては価値が乏しい。
HDDやフラッシュメモリなどの記録媒体が普及して安くなったことで、日常を動画で残しておけるようになり、文学が果たしてきた役割を肩代わりされてしまった部分もある。しかし人間の思想が最も的確にあらわされるのは言葉によってであり、これは映像では完全な代替とはならない。
文化の保存というのは大げさではないかと思われるかもしれない。しかしアマゾン奥地の少数民族など、書き言葉がない民族では言語の話者がいなくなると同時にその民族の思想そのものが消えてしまう。我々日本人は当然のように日本語を使っているけれども、日本語というのは世界の中ではローカルな言語でしかない。カナモジカイが日本語をカタカナの横書きにしようとしたり、志賀直哉が戦後に公用語をフランス語にしようと言い出したり、今我々が使っている日本語がなくなりかねない危機は今までもあった。テレビが普及して田舎の子供が標準語で話すようになって方言はなくなりつつあるけれど、標準語自体がなくなることだってありうる。ビジネス公用語を英語にする会社もあるし、全部英語で授業する大学もあるし、労働力不足解消に移民を入れようという動きもあるし、大国の中の少数民族の言語が同化政策や公用語に侵食されて消えていったように、今後日本がアメリカや中国といった大国に飲み込まれて同化政策がとられたら日本語と日本文化が消えることだってありうる。日本語を使い続け、日本で起きた出来事を日本語で書き残し、後世の人が日本語で読めることで、日本語や日本文化は変化しながらも断絶せずに存在することができている。
ちなみに韓国では漢字教育を廃止してしまったせいで、ハングルしか読み書きできない現代の韓国人は漢字で書かれた昔の韓国の歴史を理解できないらしく、漢字教育を受けなかった世代で文化の断絶が起きているらしいよ。

◆純文学は文章で表現するのに役立つ
これはすぐには実感しにくいかもしれないけれども、我々が現在話し言葉で文章を書けるようになったのは先人の言文一致の努力のおかげなのだ。人称の使い方、ですます調の堅苦しくて単調な文体からの脱却など、作家の地道な努力の積み重ねによって現代の自由な文章表現が成り立っている。シュールリアリズムが言語の意味を破壊したことも、作品単体としては意味不明でも長期的には言語表現の発展につながっている。
しかしいくら自由に表現できるからといって、他人にわかるような文章を書くのは難しい。自由気ままに文法や論理を無視して文章を書いたところで他人には理解できない。純文学では言葉に気を使って論理的に小説を組み立てていて、表現の自由さと意味のわかりやすさを両立しているので、純文学を読むことで論理的に文章を理解して、論理的に文章を書けるようになる。Amazonのレビューを見ても、面白かっただのつまらなかっただのといった小学生の作文以下の曖昧な感想しか書けず、どこがどう面白いのかを具体的に説明できない残念な大人たちが大勢いる。そういう人たちこそもっと純文学を読むべきなのだ。

●結局純文学は面白いの?役に立つの?
純文学というジャンルは読み方を知っていれば面白いし、社会の役にも立つと私は思っている。しかし純文学ならば全部面白いというわけでもなく、個々の作品の良し悪しがある。それに純文学はエンタメ小説のようなわかりやすい面白さはなく、読者によって評価は異なるので、どの小説がどう面白いのかは自分で読んで判断するしかない。
芥川賞などの現代の日本の純文学はあまり読む価値はなく、あるいは読むにしても優先度をさげて後回しにしてもいいと私は思っている。文学理論や言語学や哲学の教養がなく、文学者として作家論や作品論も書けないような似非作家が純文学の上辺を真似ただけの似非純文学を量産しているのが日本の純文学業界の実情ではなかろうか。賞レースの選評にしても、作品を読まずに選考したり、根拠のない主観的な印象批評だったり、作品の出来とは関係なく作家との個人的な因縁であの作家は認めないと作品をけなしたり、誤読を訂正しなかったりして、選考委員が作品をきちんと批評できているとは言いがたい。純文学の面白さを知りたいという人は芥川賞のような話題優先の賞にとびつかず、日本の古典文学や、世界の古典文学や、世界の優れた現代文学を読むべきである。読書をするうちに偶然自分が直面している問題を主題にした小説にはまったり、前に読んであまり面白くなかった小説が歳をとってから面白く感じるようになったりして、思想や感情などを認識できる範囲が広がっていく。そうして読者は文学を手がかりにして現実世界への認識を広げていって、認識の開拓者となる。数冊読んでちょっと認識を開拓した程度ではすぐに役立つわけでもないものの、心の中に庭ができる程度でも一息つく余裕ができる。さらに開拓地を広げるとアイデアが出てくる畑になったり、人が集まる広場になったり、思想を守る堅固な砦になったりする。この開拓と冒険が面白いし、開拓した領土は貧乏人でも所有できる財宝になるので、真の文学者は貧乏でも動じないのである。当然文学だけを見て現実をまったく見ないというのでは意味がないけれど、経験だけでは補えない部分を文学を通じて疑似体験して、自分ならこの状況ならこうするだろうと考えて想像力や共感力を鍛えることで、VUCAの時代といわれて変化が激しい現代にいろいろな人と共感して協力して多様性を取り入れつつよりよく生きるために役に立つのではないかと私は思うのである。

2017/12/15更新 三角猫
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(=‘ω‘ =)ウニャー


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