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カテゴリ:小説
1999-2006年に書かれた11編の短編集。
●各短編のあらすじと感想 「拝啓ノストラダムス様」はノストラダムスの予言を信じていた高校生のユウが幼馴染のカスミが自殺未遂したときの薬の残りをもらう話。 コウの一人称。自殺未遂する少女、最後に花火というベタな構成。生きる理由がないことに向き合わないと本質的な解決になっていない。 「正義感モバイル」は落ちぶれて時間つぶしの番組のレポーターになった元アイドルの由美子が同じグループで唯一売れたのに自殺未遂した桐原恵理について街頭インタビューして引退する話。 大学生のレイの一人称。語り手を当事者でないいっちょかみの人物にするのはテーマを掘り下げることから逃げていて、桐原恵理が自殺未遂した理由も不明なまま。レイの心理を掘り下げるわけでもないのでレイを語り手にする必然性がなく、何を書きたいのか意味不明な短編になっている。 「砲丸ママ」はファンだった女子砲丸投げの森千夏ががんで死んだのをきっかけにして元砲丸投げ選手だったママがまた砲丸投げをやり始める話。 パパの一人称。森千夏は実在のアスリートだけれど、私は実在の人物をフィクションのネタにすることには批判的である。何かしらの業績を上げた人は伝記で充分面白い物語になるので、わざわざフィクションにする意味がない。 「電光セッカチ」はせっかちな旦那が嫌いになった妻が子供を連れてプチ家出したら旦那が反省したので温泉旅行でのんびりする話。 妻の一人称。ヤマなしオチなしのエッセイ風小説。作り物のエッセイ風小説を読むくらいなら本物のエッセイを読んだほうがまし。 「遅霜おりた朝」は生徒にボコボコにされた元教師のタクシー運転手の修二が夜中に不良のヒロとミーコを乗せたら、ミーコの母親が不倫して家族を捨てた挙句にがんで死んだので長野まで行きたいのだという話。 修二視点の三人称。死んだのはミーコの母親で彼氏のヒロの母親は関係ないだろうに、最後にヒロが「かあちゃん」と寝言を言うあたりはわざと臭い。 「石の女」は不妊の雅美が年賀状を送った友人の史子に龍之介が犬だと言いそびれたので、甥を一日だけ借りてごまかそうとするもののばれる話。 旦那の一人称。史子が連れてきた子供も借りものだったとか何かしら工夫の余地はあっただろうに、オチに特にひねりもない。でっていう。 「メグちゃん危機一髪」は同期の晴彦と新井がリストラ候補になって新井が左遷されたとき、新井は会社を無断欠勤してアザラシのメグちゃんを暗殺しようとする連中の動向を見届ける話。 晴彦視点の三人称。アザラシがどうなろうがどうでもいい。 「へなちょこ立志篇」はマケトシと呼ばれている16歳の勝利が明日香に振られてプチ家出することにして、リストラされてホームレスになった高橋が駅前に居座って会社に復讐する様子を見ていると謎のメモリーカードを渡される話。 勝利の一人称。へなちょこがVシネマみたいな体験をしたという程度の話で、結局は自分が何かをしたわけではなくて他人事にすぎないし、家出して何がしたいのか意味が分からない。 「望郷波止場」はテレビ局のディレクターのトモとレコード会社の林が音楽バラエティ番組で羽衣天女という演歌歌手を再デビューさせるために出演交渉したら、昔と今を比較して笑いものにする番組だとばれて出演拒否されそうになったので説得する話。 トモの一人称。トモが何をしたいのか意味不明な胸糞話。テレビ関係者は人間のくずしかいないと作者は主張したいのだろうか。 「ひとしずく」は妻の誕生日祝いにワインを買ったら、図々しい義弟がいきなりやってきてワインを飲んでしまう話。 ヘタレ夫の一人称。妻がなんでも許すことで無理やりいい話っぽくしているけれど、女性を都合のいい存在として扱う胸糞話である。「へなちょこ立志篇」の勝利と名前がかぶっているけれど、だからといって何か工夫があるわけでもない。 「みぞれ」は息子が脳梗塞の父がいる実家に帰って昔のカセットテープを聞く話。 息子の一人称。ヤマなしオチなしのエッセイ風小説。作り物のエッセイ風小説を読むくらいなら本物のエッセイを読んだほうがまし。 ●全体の感想 典型的なエンタメ小説の書き方で、一人称の短編はどれもナラトロジーの始末ができていなくて不自然な語りになっている。作者の癖なのかほとんどの短編がトラブルに直面した当事者ではなく第三者の視点から書く構図になっていて、そのせいで話が婉曲になってつまらなくなっている。探偵(主人公)と助手(語り手)の組み合わせは物語の基本的なパターンだけれど、物語の主人公と語り手の関係性が浅いと傍観者的な浅い物語にしかならないし、それなら三人称で主人公に焦点を当てて書いたほうがまし。 内容は誰かが死ぬことで話の山場を作る薄っぺらいお涙頂戴物か、何も起きないほっこり家族小説で、高校生くらいなら暇つぶしにはなるだろうけれど、大人が読む価値はない。こういうの書いたら感動するんでしょ的なネタを狙うスタイルとしてはこれはこれで完成されているやり方だけれど、表面上の感動を取り繕うことに何の意味があるのか。こないだ読んだ三浦しをんの『天国旅行』もそうだけれど、人の死に真摯に向き合わずにイイ話としてごまかして、他人事としかとらえていないあたりにエンタメ作家の思想の限界が見える。死んだ人についての反応を書くのでなく、その人が何を考えてどう生きたのかという姿を書くべきだろう。 「あたたかな涙が、頬を伝います。胸にグッとくる必読の一冊!!──生きているって、家族って素晴らしい!」といういかにもアホ向けな宣伝文句が帯に書いてあるけれど、虚無と絶望に向き合わない人ほど偽善的な感動に浸ってそれを他の人に押し付けようとするものである。人生や家族がそんなに素晴らしいならそもそも離婚する夫婦はいないし、自殺者なんか一人もいないはずである。人生の苦痛を見ないふりをして、無責任に人生を礼賛する態度は生きていることに苦痛を感じる人に対する共感のなさや無関心の現れである。1冊で400ページ以上あるけれど、くだらない短編をたくさん読むよりもまともな短編をひとつでも読むほうがまし。 ★★☆☆☆ みぞれ【電子書籍】[ 重松 清 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.12.07 01:50:55
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