御生骨or御肉牙 誰の話が事実かなを考える2
これを読まれると、どこかで読んだ記憶がと思われるでしょう。下にリンクを張りましたが垂井会館開所式での話。また、日目上人勤行会でも似た話をしています。そして、会員がこぞってはじめて聞く重大指導(御生骨)に云々とかあったはずです。たしか淺井昭衛もはじめて詳しく話すみたいなことを言っていたと思うのですが、過去の日目上人勤行会の記事を調べたら、面白いネタが有るかも知れませんね。これも、たまたま整理していた物をみて、気がついたわけです。やはり魔性の御仏智なのかな?(笑)平成12年12月10日、東北代表者会議【「御生骨」のこと】 さて、きょうは、ここで大事なことを話しておきたい。 今まで私はあえて口にしなかったが、いま広布の最終段階を迎えて、時を感ずるゆえに、本日の東北代表者会議において云っておきます。 それは、大石寺に七百年来伝わってきた秘宝「御生骨」のことであります。 【羅什三蔵の故事】 仏法には、凡夫の思慮の及ばぬ不思議がある。 その一例を挙げます。 皆さんは羅什三蔵のことをよく知ってますね。昨年の合宿のときにも少し話しました。インドから中国に渡った人で、釈尊の教典を梵語(古代インド語)から漢語に正しく翻訳をした、ただ一人の人であります。 釈尊の仏法が中国・日本へと流布するとき、教典の翻訳がどれほど重大な意味を持つか。その重要性は計り知れません。 そうでしょう。釈尊の教典というのは、記憶力抜群の阿難尊者が、釈尊の説法のすべてを「如是我聞」(是くの如きを我れ聞きき)として書き留め、これを結集したものです。すべて梵語で書かれており、釈尊の心がそのまま表われている。ところが、それを中国の言葉に翻訳するとき、梵語に通じてない者、あるいは仏法の道理に通じてない者が翻訳すれば、みな間違ってしまう。 そして多くの訳経の中で、どれが正しく、どれが間違っているかは一般の人にはわからない。わからないまま、もし間違った教典を受持・読誦したら、功徳はない。大聖人様は「得道もあるべからず」とまで仰せられている。だから正しく翻訳することに、中国・日本の人々の成仏・得道がかかっている。それほど大事なことなのです。 この重大使命を担って出現した人が、この羅什三蔵だったのです。 さて、羅什三蔵が中国における多くの訳経を見るに、皆ことごとく釈尊の意に追っている。そこで羅什は、自分の訳しか経だけが仏意に叶うものであることを、何とかして人々にわからせたいと、一つの現証を示したのです。【舌焼けず】このことについて、大聖人は撰時抄にかく仰せられている。 「羅什三蔵の云く、我れ漢土の一切経を見るに、皆梵語のごとくならず。いかでか此の事を顕わすべき、但一つの大願あり。身を不浄になして妻を帯すべし、舌計り清浄になして仏法に妄語せじ、我れ死せば必ず焼くべし、焼かん時、舌焼くるならば我が経をすてよと、常に高座にして説かせ給いしなり。上一人より下万民にいたるまで願して云く、願わくは羅什三蔵より後に死せんと。終に死し給いて後焼きたてまつりしかば、不浄の身は皆灰となりぬ、御舌計り火中に青蓮華生いて其の上にあり、五色の光明を放ちて夜は昼のごとく、昼は日輪の御光をうばい給いき。さてこそ一切の訳人の経々は軽くなりて、羅什三蔵の訳し給へる経々、殊に法華経は漢土にはやすやすとひろまり候いしか」と。 文意はこういうことです。 ――羅什三蔵の云く、自分が中国の一切経を見るに、みな梵語のごとくに翻訳されていない。どうしてこのことを人々に知らせるべきか、ここにただ一つの大願がある。それは、自分は僧侶でありながら妻を持ってしまった――ちなみにこれは、羅什三蔵がだらしなかったのではない。外護している国王が、羅什三蔵のあまりの聡明さに感嘆し、ぜひその血筋を残したいと、強引に妻をめとらせたのです。それでも羅什はこれを恥じたのです。――ただし舌ばかりは清浄にして、仏法において妄語したことがない。ゆえに自分が死んだら必ず火葬にせよ。身を焼いた時、もし自分の舌が焼けたならば我が経を捨てよと、常に高座において説いていた。これを聞いて、時の国主を始め万民にいたるまで゛願わくば羅什三蔵の後に死に、そのことを見届けたい゛と願ったという。ついに羅什三蔵は亡くなった。遺言通りに遺体を火葬に付したところ、不浄の身はことごとく灰となった。しかし舌ばかりは、火中に青蓮華が生いてその上にあり、五色の光明を放って夜は昼のごとく、昼は日輪の光さえも奪うほどであった。この大垣証を見て、それまでの一切の訳者の経々は軽くなり、羅仕三蔵の翻訳した経々、ことに法華経は中国にやすやすと広まったのである――と。 このゆえに、中国の天台大師も、目本の伝教大師も、そして末法の御本仏日蓮大聖人も、羅什三蔵の「法華経」を用いておられるのです。 この「舌焼けず」という不思議な現証が、いかに重いものであるかを言えば、日本の伝教大師が法相宗と法論をしたとき――法相宗というのは玄奘三蔵および慈恵という有名な訳経家がインドから伝えた宗ですが――この法相宗を破折するのに、伝教大師はこう云い切っている。 「羅什三蔵は舌焼けず、玄奘・慈恵は舌焼けぬ」と。 この現証を挙げたことで、相手は平伏しているのです。「舌焼けず」ということがいかに重い大現証であったか、よくわかりますね。 火中で舌が焼けずに光を放つなどということは、常識では考えられない。しかし誰人も否定できない眼前の事実だったから、人々はこれを信じたのです。 【「御生骨」の大現証】 そしてもう一つ、日蓮大聖人の仏法には重大な現証がある。それが先ほど申した「御生骨」であります。 これは大聖人様が、三大秘法は必ず広宣流布することの証明として、留め置かれたもので、富士大石寺に七百年来伝わる秘宝であります。歴代の貫首上人は、御宝蔵において御開扉のおり、この謂れをずーっと説き伝えてこられた。すなわち戒壇の大御本尊は秘仏にてましまし、御生骨は秘宝にてまします。 この御生骨は「御肉付きの御歯」とも、あるいは「御肉牙」とも、大石寺では古来から云われております。 どういうことかというと、御入滅近き大聖人様が武州池上にましますとき、御歯が一本脱け落ち給うた。大聖人はこの御歯を日興上人に授けられ、おそばに侍る日目上人にこれを護持せしめ給うた。 このとき大聖人様はこう仰せられた。 「我が仏法は最勝深秘の大法にして、末法万年の闇を照らすこと必定なり。広宣流布は疑いなきゆえに、その証明とせよ」と。 この御歯には、脱け落ちたとき少し御肉がついていた。不思議なことに、その御肉が年々増えている、増殖しているのです。だから「御生骨」――生きている御歯と申し上げるのです。 そして広宣流布の時には、御肉が歯の全休を覆い、光を放つと、云い伝えられております。 【日寛上人の仰せ】 この「御生骨」については、日寛上人も言及しておられる。すなわち「大石寺即事」と題する漢詩の中で、戒壇の大御本尊を挙げられたのち、御生骨のことを「宗祖手ずから伝う金色の歯」 と仰せられている。宗祖大聖人が御白身の手でこれを日興上人・日目上人にお伝えになったと。「金色の歯」とは仏様の歯という意味です。さらに「倶に当院に安んじ、荒極を利す」と。「倶に」とは、戒壇の大御本尊と御生骨のこと。この秘仏・秘宝いま大石寺にましまし、荒板すなわち末法の三毒強盛の荒凡夫を利益するのである――こう日寛上人は仰せられているのです。【日ぽう*上人の仰せ】(※王扁に奉) 大石寺ではこの御生骨を、七百年来、外に宣伝するなどということはなかった。ただ御宝蔵の中において御開扉のおり、信心強き人々にこの大事を述べ、いよいよ信心を増さしめたのであります。 私の手元に、第三十七世・日ぽう上人の御宝蔵・説法本がありますが、その中で御生骨について次のような御説法がある。日ぽう上人は大聖人御入滅後五百年ごろの貫首上人です。「御生骨、是れは御肉づきの御歯とも云い、宗祖大聖人より当山の開基日興上人ヘ一期の弘法残る処なく御付嘱これあり、血脈付注の証拠として、御歯に少し肉の付きたるをぬきて賜わりしなり。それより御肉次第に増え、五百年来の事ゆえ、此の頃にてはあらまし御肉と成り、御歯は少し見ゆるなり。金言に云く、広宣流布の時光明を放つべしとなり。信心の人々拝見の上、疑いを晴らし信心を増すべし。但し代替りの虫払でなければ開帳なし」と。このように、歴代上人は代替わり法要のときに、目の当たりにこの拝観を許し給うたのであります。【゛法は生きている゛】 何と不思議なことか、これは厳たる事実であります。凡慮を絶するとはこのことですね。まさしく大聖人様の仏力の所作、広宣流布の証明として、お残し下されたのであります。 この事実を拝するとき、身震いする思いで感ずることは、一日蓮大聖人の仏法は生きている」ということです。 だから、御本尊を強く信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、必ず宿命が変わり功徳が出てくる。そして臨終には成仏の相を現ずる。また広宣流布が絶対であるという事も、深く深く確信できるのであります。 私はこの御生骨を、第六十五世・日淳上人の御代替わりのとき、拝観させて頂いた。日淳上人は顕正会がまだ「妙信講」と称していたとき、その結成を正式に認承して下さった貫首上人ですが、この御方の代替わり法要のおり、私は目の当りに拝観させて頂いた。昭和三十一年の四月でした。そのとき、もう御歯の全体を御肉が包んでいるごとくに見えたこと、今でも目に焼きついております。 このことから、広宣流布の近きことを、私は強く強く確信をしているのであります。 私はこれまで、広宣流布の近いこと、そして今が最終段階であることを、たびたび云い切ってまいりました。その確信の根底には、いままであえて口にしなかったが、白分か眼前に拝見したこの不思議なる御生骨のことが、常にあったのであります。参照1参照2参照3にほんブログ村「自灯明・法灯明」「願わくはこの功徳を以って普く一切に及ぼし、 我らと衆生とともに仏道を成ぜんことを」