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カテゴリ:奇跡講座【テキストについて独り言】
恐れを認識する真の意味について考えるほどに、なんとか、字面のみで納得しようとする自分がおります。
頭脳において、愛こそが世界の実相であるから、愛ある想念以外は表面的には怖れていると知覚してはいても、助けを求める懇請なのだ と、愛を求める呼びかけとして攻撃を知覚しなければならない ということから、正直、しんどいです.... 字面のみでブログとしての文章は書けることは書けますが、それなりに書くだけ書いても読む方々にとってももちろん私にとっても意味がないので、ここは、日数を開けてもちょぼちょぼ行きます。 さあ、今日、愛の面にかけていたベールとしての恐れを消え去れるように、イエスに助けてもらいましょう! 本日は「テキスト 聖霊のカリキュラム 聖霊による判断(その3)」について 以下のテキストからの引用です。 ----------------------------------- テキスト 聖霊のカリキュラム 聖霊による判断(その3) 9.恐れとは、あなた自身に深い損失の感覚があることを示す徴候である。 もしあなたが、それを他人の中に知覚する度にその損失を埋めることを学ぶなら、恐れの根本的原因は取り除かれる。 そのようにして、あなたは、恐れが自分の中に存在しないことを自分自身に教える。 それを取り除く為の手段はあなた自身の中にある。そしてあなたは、この手段を与えることによって、この事実を実証したことになる。 恐れと愛だけが、あなたが抱くことのできる感情である。 その内の一つは否定から作り出されたので、偽りである。そして否定は、否定されているものの存在を信じることで成り立っている。 恐れとは、それが根底に隠している信念の明確な肯定であり、恐れをそのように正しく解釈することで、あなたは恐れを無用にし、それにより、恐れの有用性という知覚を崩しているのである。 まったく効力のない防衛は、自ずと廃棄される。 もしあなたが、恐れが隠蔽しているものを引き上げて、はっきりと紛れもなく優勢にするなら、恐れは意味をもたなくなる。 そうしてあなたは、恐れが愛を隠蔽する力を否定したことになる。愛を隠蔽することだけが恐れの目的であった。 あなたが愛の面にかけていたベールは、消え去ったのである。 (T-12.Ⅰ.9:1-11 P299) ----------------------------------- 恐れを感じるとき、心理的には何らかの過去の深い損失感がよみがえると言えば、わかりやすいかもしれない。 たとえば、小さな子どもの頃に、お母さんから欲しかった愛され方とは異なるものに対して、その当時、愛を失ったとして解釈されたとき もしくは、テストや運動でイイ成績がとれたとき、お父さんから褒めて欲しかった形とはまったく異なることによって傷ついたとき などなど 愛を求めた結果としての、満たされなかった深い損失の感覚が示されると思います。 だからこそ 二度と同じことがあわないようにと恐れにまみれながら攻撃態勢となってしまうことから 恐れを他人の中に知覚する度に、その損失を埋めることを学ぶことで、恐れの有用性という幻想を、もしくは、役立っているように見える形の根本的な目的に意味をもたせなくすることが可能となる道を 私たちは、歩むことができると言えるのです! 大いなる神様 父よ 恐れをどのようにして正しく解釈するのかを教えてください 恐れが隠蔽しているものを引き上げて、はっきりと紛れもなく優勢にすることで、恐れには何の意味もないことを体験させてください 恐れのベールを消し去ることで、あなたの愛に満たさせてください アーメン この日記を読む方々に、誰もが「無垢」で、神のひとり子キリストであるという真実がもたらす「永遠のやすらぎ」が訪れますように。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.08.18 16:01:21
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