★小説「神々の追憶」★ 12
まずは玉泉洞だ。那覇からはそんなに遠くはなく、最初の取材にはちょうどいい。だが激戦地や戦没者への慰霊を、先にすますべきだったかもしれないと思った。「ねぇ、平和の礎を先にするべきだったわね。これじゃまるでただの観光客だわ」「親族に戦没者がいなければ、心から真摯にはなれないものですよ。地獄を見たものだけが、慰霊碑の前で頭をたれることができるんです。だから俺たちは沖縄の自然の美しさに感動してから、徐々にならしていきましょう」 加納の言葉に妙に説得されながら、徐々にならすといったことがよく理解できなかった。 確かに戦後生まれの若い者には、どんなに戦争の悲劇と真剣に向き合おうとしても体験がない分、心から真摯になるのは難しい。それを加納は言いたかったのだろう。 彼は若輩者なのに、妙に話すことは、社会人として先輩である上川よりも大人びていた。加納が言えば、何にでもうなずいてしまう。暗示のような言霊だった。 長い洞窟は神秘的で美しい。琉球王朝時代の衣裳をまとった美人と写真が撮りたかったが、それでは本当に観光客になってしまう。今回は諦めることにした。改めてバカンスで来ることにしようと、上川は自身を戒めた。 洞窟を見るのは初めてだった。所々がライトアップされているので、極彩色に輝いている。神秘的、神々しいというのはこんな景色をいうのだろう。秋吉洞など日本には有名な鍾乳洞がある。沖縄ではガマというと聞いたことがあった。二人は事前に取材許可をとって、ゆっくりと歩きながら写真を撮った。通路がしっかりと建設されているので、歩きやすい。足元が滴れてくる水で湿っていて、ここが南国だとは思えない。真夏ならこの湿度と清浄な空気が、心地よく感じるだろう。 遠くで学生たちの声がする。洞内なのでよく響く。修学旅行生だと思った。加納と二人で歩いていたが、ライトアップされている洞内の景色に見惚れていた冴子は、すっかり遅れてしまった。「ねぇさん」「え、何?加納くんなんて言ったの?」 突然先を歩いていた加納が叫んだように思った。聞いてみたが加納は応えない。冴子をおいてどんどんと奥に向かって走っていく。「加納くん、待って。何急いでるの?」冴子も必死に追いかけた。視線を追うと、加納の進行方向に美しい女が立って微笑んでいた。白く霞んでいる。近視気味の目をこすって、また確認する。いなくなった。「幽霊? まさか?」加納の姿も見失ってしまった。 先に気配を感じて加納の名を叫んだが誰も答えない。修学旅行生の声もほとんど聞こえなくなって、洞内は静謐に満たされていた。 照明が何度も消えかけ、一時暗くなった。まるでホラー映画だ。洞窟の中なら何が化けて出てきても、現実に思えるだろう。 かすかにうめき声がしている。少し先だ。もしかしたら修学旅行生たちに何かあったのだろうか。乱闘でも始まって、誰かが怪我をしたのだろうか。そうだとしたら、ジャーナリストとして一番にかけつけ、真実を知らなければならない。もう加納は先に行ったのだろうか。あの新人はいまだによくわからない。頭を振って、勇気を搾り出す。意を決して走っていくと、加納が腕を押さえている。「どうしたの、加納くん」すると加納は顔をそむけた。「加納くん、いったい何が起こったの?」 薄暗い中を両手を水平に出して、薄闇の先を確認しながら進んでいく。しかし今度はあっと言って、つまづいてしまった。ひどくヒザを打った。「イタタ」取材のために用意してきた、動きやすいサブリナパンツの膝下が、水のために濡れてしまった。それ以上に、思いっきり打撲した膝が痛い。疼痛というのはこのことだろうか。 加納を一瞬見失ってしまったが、薄暗い中照明がついて、視界にとらえることができた。「加納くん、よかった、そこにいたのね」加納は肩で息をしている。足元を凍りついたようにみつめていた。上川冴子にも状況がつかめない。いち早く察知することが、ジャーナリストとしての素養だというのに。加納の視線にそって、上川も視界を足元へと広げてみた。滴る地下水が鏡のようになって、天井を映している。静かすぎる湿った酸素が、冥界へと誘うようだ。 加納の足元で、男が死んでいた。大きな男だった。 上川の背後へとやってきていた、女子学生の悲鳴が警報のように響き渡った。 警察がやってきて、容疑者として二人は警察署に連れて行かれた。いつもは取材する記者だというのに、ひつこく事情聴取をうけた。悪夢のような第二日目となった。「君は東党新聞、東京本社社会部記者の上川冴子さんだね」「そうです」冴子が出した名刺が、机のうえにポツンとおかれている。刑事はそれを見ながらも、信じがたいといった顔をしていた。いくら疑うのが商売でも、いい加減にしてほしいと上川は思った。「じゃあ、それは後で確認させよう。わたしは沖縄県警の沖縄にしき署の金城です」 そういった男は、二十代半ばから三十才前半といった年齢だ。温暖な気候なので、東京のようなきちりとした背広の着こなしはしてなくて着くずしている。革靴も独り身なのか、古びているうえにくすんでいる。もしかしたらこの温暖な沖縄では革靴は無用の長物なので、粗末にされているのかもしれない。プライベートはサンダルでも履いているのだろうか。髪型もまったく流行ではない感じだ。 上司に叱られない程度に整髪しているといった雰囲気だ。 どう見ても都会の男よりイケてないが、どこかナイーブな感じだ。なんとなく安物もののコピー商品のスポーツシューズを履いている加納に似ていて、ドラマの刑事よりは親しみがあった。といって、観察しているどころではない。取り調べ室のような部屋で事情聴取をうけているのだから。 相手は刑事。若くても油断がならない。気をつけないとどんな言い掛りをつけられるかわからないと思った。被疑者にされないように、慎重に答えることにした。「・・・・・・・刺された男が現われたとき、どこにいましたか?」「被害者が殺されたところは見ていません。倒れているのをみつけただけです。発見する少し前に、うちの加納から四十メートルほど後を歩いていました。初めて来たので玉泉洞の美しさにみとれていて、遅れたんです。でも洞窟の中だし、どこにいたって訊かれても、取材対象ではなかったし」「被害者の男に会ったことは?」「暗くて顔もよくみてないんです。うちの加納が下を見ていたので、あたしも下を見て、動かない大きなヒトらしい物が倒れているって思っただけです。それ以外のことはわかりません」「日本人にしては大きいなって思いましたけど。足が長くて太かったような」「そう、パスポートによると被害者はアメリカ人だ。カリフォルニア在住のね」「へぇ、どうりで大きかったはずね。じゃあ、たぶん知らないわ」 冴子への質問は今はこれだけだった。詳細な身元は本人にきくよりも警視庁で照会したほうが正確で、妙な主観もはいらなくていい。たくさんの質問をすれば、それだけ相手によくも悪くも感情移入してしまう。捜査には余計なことだった。 同時に隣室で男の聴取も始まった。死体の側にいたのは、男の方だった。男は負傷していた加納だ。「オトコをみつけたときどこにいたのかね?」「どこというと、確か案内板があったところだと思います。そこを少し過ぎた辺りでした」「男以外に誰か、怪しい者をみなかったかね?」「最初は修学旅行に来たらしい高校生の何人かとすれ違っただけです」「君は被害者の男に会ったことがあるかね?」「いいえ」「傷は男にやられたんではないかね?」「違います。死んでいた被害者をみつけたとき、次の瞬間に停電しました。そうして視力を失ったときに誰かに刺されたんです。きっと逃げる殺人者でしょう。俺が前にいたので、ジャマだったんですよ」「君は洞内で何をしていたんだね?」「だからさっきも言ったように取材旅行だったので、許可を得て洞内を撮影していました」「あの男を殺すために、玉泉洞に行くことにしたんじゃないのか?」「仕事です。沖縄戦の戦跡をめぐるという特集のためにですが、うちの上川が初めてだったので、一応観光地は見ておこうということになりました」「ふーん、なるほどね」「あの男に会ったことはありません」 それだけで終わった。部屋を出されると、向こうの方でにぎやかな声がしていたので、修学旅行生だとわかった。彼らも事件現場にいたのだから、警察は事情を訊いていた。せっかくの旅行もだいなしだ。それよりも最近の若者たちなら、話のネタにするのだろう。 事情聴取を終えた上川だが、まだ婦警が側についていた。しばらく隣室で待機してほしいと言われた。「あー、お腹が痛くなりました。あの化粧室に行きたいんですけど」「いますぐ行きたいの?」「もう、ダメです」腹を押さえ、苦痛に歪んだ顔をした。生理痛を思い出し、演技をする。演劇部にでも入って、鍛えておけばよかった。ここまでやるとくせになるかもしれない。「うちは化粧室なんて上品なものないわよ」 婦警に付き添われていたが、外で待たせて一人だけトイレに飛び込んだ。実は仮病だ。トイレでしたい事は生理現象ではない。 婦警が入ってこないことを確かめた。さりげなく持ってきたバッグを出して、まずデジタルカメラを取り出した。次にパソコンだ。最新式の一番小さな機種だ。それに通信用モデムを差し込んだ。カメラのデジタル映像をパソコンに送る。メールを書き込んで、先に取り込んだ写真を添付した。(これは今日、玉泉洞内で起こった殺人事件の現場の写真です。現場にいたのは修学旅行生数人と、観光客数人です。被害者はカリフォルニア在住のアメリカ人。あとのことはお任せします。第一発見者の東京本社、社会部上川冴子) 観光客とは自分と加納のことだ。これ以上詳細に書くともしものときに、社に迷惑がかかるので控えた。まさか加納が犯人だとは思わないが、二人とも容疑者となっている可能性は否定できない。取り調べを受けながら、さんざん迷っていた。しかしこれはうちだけのスクープなのだから、ジャーナリストとして送らないわけにはいかないのだ。心のなかで仏と神に懺悔をしながら、メールを送信した。送信した後、念を入れて用を足した音を偽装した。最後に水を流して完了だ。 出てきた冴子を、婦警が不審な目で見ていたが、中でパソコンを使っていたことに気づかなかったようだ。きっと婦警はメカ音痴なのだろう。「遅かったですね」「あたし便秘ぎみで。でもすっきりしたわ」 そういって腹をさすった。