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2011.07.15
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般若心経は弘法大師が中国から持ってきたのでしょうか

弘法大師は、般若心経を大変尊んでおられたことは、間違いないようです。般若心経を中国から日本に持って帰られたと考えてもいいでしょう。経文を持って帰ったからといって、弘法大師自身に、死なない命が分かっていたかどうか疑問です。
 弘法大師は、当時としては、恐らく日本に前例がないほどの、名僧であったでしょう。しかし彼は、イエスが死から建ったこと、死を破って復活した人間がいるということを、知らなかったようです。知っていたかもしれませんが、宗教的な形でしか知らなかったようです。
 弘法大師は、どうも仏教だけを勉強した人ではなかったようです。キリスト教をまじえたような思想を持って帰ったようです。いろは48文字という歌をつくつたといわれていますけれど、いろは歌の中には、イエスの復活を読み込んでいるのです。だから弘法大師の思想は、キリスト教と仏教が、入り交じったような思想です。般若心経のことは、はっきり説明していません。
 ついでに般若心経について説明しておきますと、五蘊とは人間の物心なのです。肉体的に生きているという気持ち、命は自分のものだという気持ち、自分が生きていると思っていること等が、五蘊なのです。
 五蘊とは、色受想行識の五つですが、人間の感覚は全部五蘊です。目で見ている花がきれいだと思います。目で見ている花は本物です。
 視覚神経は目の働きであって、間違いのない命です。それをどのように受け取るかは、皆様の視覚意識の問題です。受け止めている気持ちが間違っています。これが五蘊なのです。
 きれいだと思うからきれいだというのでは、だめです。なぜかと言いますと、目はきれいだと見ていながら、視覚意識はきれいだとかたづけているのです。かたづけ方が間違っている。意識が間違っているのです。これが迷いなのです。
 目は正しいものを見ていますけれど、受け止める意識が間違っているのです。脳細胞の働きが、肉の思いになっている。それがもうすでに死んでいるのです。
 皆様の常識、知識は、命は自分のものだと考えているのです。自分がこの世に生れてきたと考えているのです。
 生れるという言葉は、自動詞なのです。本人が意識する動詞なのです。生れるとか、歩くとか、走る、座る、寝るというのは、自動詞なのです。自分が寝ようと思えば寝る。歩こうと思えば歩くのです。ところが、人間は、生れるという言葉を使う資格がないのです。この世に自分で生れたいと思ったことがありません。だから、生れるという自動詞は使えないのです。
 人間が現世に生れてきたのは、「おのずから」の処置によって、生れさせられたのであって、生れたのではないのです。まずこれを考えて頂きたいのです。
 従って、肉体的に生きているとか、命は自分のものだと考えてしまいますと、考え方の土台が間違ってしまうのです。目で死なない命を見ていながら、それを受け止める心が間違っているために、五蘊になってしまうのです。
 般若心経はこれをいっているのです。無眼耳鼻舌身意、無色聾香味解法、無眼界乃至無意識界といっている。これは驚くべき哲学であって、般若心経に匹敵する哲学は、欧米社会にはありません。
 般若心経にあるような素晴らしく奥深い哲学は、欧米人には分からないようです。日本人はこれを、欧米社会へ教えてあげるべきなのです。欧米社会はもう行きづまっています。今の文明は、完全に行きづまっているのです。自滅するしか方法がないのです。
 大学で教えている学問は、皆間違っているのです。専門的な理屈は知っていますが、全体的なことは、何も知らないのです。
 専門的な学理学説は、この世に生きている間は役に立ちます。科学でも、経済学でも、人間がこの世に生活している間は役に立ちますけれど、命には何の関係もないのです。これが現代文明の間違いなのです。
 専門学という考えが、ユダヤ主義なのです。ユダヤ主義が、世界63億の人間をバカにしているのです。
 自分が生きている。命は自分のものだという考えを発明したのは、ユダヤ人です。ユダヤ人が発明した、五蘊という感覚が、世界中に広がっている。五蘊はユダヤ人が発明した考えだということを、お釈迦さんも知らなかったのです。
 お釈迦さんよりも2500年後に生れた私達には、お釈迦さんが知らなかったことが分かるのです。弘法大師が知らなかったことを、私達は知ることができるのです。
 私達が、お釈迦さん、弘法大師より偉いというのではありません。弘法大師の時代には、あれでよかったのです。
 今の時代は、人間文明が終息しょうとしている時代です。お釈迦さんや弘法大師よりも、多くのことを知っていて、当り前なのです。知らない人の方が、間違っているのです。
 皆様は、弘法大師以上に、親鸞上人以上に、道元禅師以上になって頂きたいのです。今は、西洋のことも、東洋のことも、自由に勉強することができます。なんでも発表することができるのです。
 そういう時代ですから、お釈迦さんが言わなかったことを、私達が言っても、決して不思議ではないのです。
 日蓮大聖人といいますと偉い人のように思えますが、私達の方がもっと多くのことを知っているのです。時代が遅くなればなるほど、知恵が広がるのは当り前のことです。弘法大師は、テレビを見たり、飛行機に乗ったことはなかったのです。日蓮上人は、電話をかけたり、車を運転したことがないのですから、私達の方が、日蓮上人よりも多くのことを知っていて、当り前なのです。
 今の時代に、お釈迦さんや親鸞上人を拝んでもしょうがないのです。このことをよくお考え頂きたいのです。日本の仏教はレベルが低過ぎるのです。弘法大師の考え方、日蓮上人の考え方では、間にあわないのです。
 五蘊の虜になっているのは、ただの人間です。五官の働きは、魂です。これに気づけばいいのです。魂の実物が、人間の格好で現われてきたものを、イエスというのです。お釈迦さんとイエスの関係を説明しますと、大変おもしろいのです。この両者の関係を本当に説明できる人はいないのです。
 お釈迦さんは明けの明星を見て、悟りを開いた。明けの明星が説明できる人が、日本の大学教授に一人もいないのです。
 そんな状態で、日本人はものを知らなさすぎるのです。なぜ物を知らないかといいますと、島国根性にとりつかれているからです。日本人は日本の常識ばかりを頭に詰め込んで、欧米人がどういうことを考えているか、イエス・キリストがどういう人物なのかを、知ろうとしないのです。
 だいたい日本人で、聖書をまともに読んでいる人はいないのです。キリスト教が一番悪いのです。キリスト教は聖書をまともに、読まないで、聖書で商売をしているのです。ローマ・カトリックも悪いしプロテスタントも悪いのです。キリスト教は宗教の中で一番悪いのです。
 本当に物を知るということは、西洋のことも、東洋のことも、何でも学ばなければならないのです。西洋人も東洋人も、美しいものは美しいと思うでしょう。楽しいことは楽しいと思うでしょう。
 世界中の人間は、砂糖をなめれば甘いと思います。63億の人間は、皆同じ命で生きているのです。同じ感覚で、同じように生きているのであって、命は全世界に一つしかないのです。
 それを、命は自分のものだと思っている。自分が生れたいと考えたことがないのに、自分が生れたと考えている。そういう考えをやめるのです。
 間違いを一つ一つ直していけばいいのです。五官の受け取り方をどうすればいいのか。目の働きをどのように受け取ればいいのか。これを勉強していけばいいのです。
 皆様の気持が間違っているのです。目や鼻は間違っていません。目や鼻には、生れる前の命がそのまま宿っているのです。これが霊魂です。
 ところが、常識が間違っているのです。物の見方、考え方、即ち世界観が間違っている。これを直したらいいのです。
 そこで新しい世界観をつくる必要があるのです。新しい物の考え方をつくるのです。イエスはそれを持っていたのです。イエスがなぜ死を破ったかということを勉強していけば、新しい考えになるのです。



どうすれば業(ごう)を果たすことができるのでしょうか

 私達がこの世に生れてきたことは、生れるだけの理由、因縁があったからなのです。生れてきたというは、過去から現在にきたのです。死んでいくというのは、現在から未来へ行くのです。
 人間の命は、過去と現在と未来の全体の本質を言うのです。個々の人間の経験としていえば、魂といえるのです。
 魂がこの世に来るには、理由があるにきまっているのです。そこで、現世にいる間に、命の全体を知ることができた人は、業が果てるのです。
 人間はこの世に生活するために生れてきたのではなくて、業を果たすために生れてきたのです。商売をするとか、会社へ行くとか、家庭を持つとか、色々の形がありますが、それは業を果たすための方法なのです。
 生命は魂のあり方の実質です。これがお分かりになれば、現在までの皆様の生き方ではない、もう一つの生き方が分かってくるのです。生きていることの中に、目に見える面と目に見えない面と、二つの命があります。肉体的な命と、霊的な命と、二つの命があるのです。肉体的な命がある間に、霊の命をつかまえるのです。
 今の考えでは、日本人は全部死んでしまいます。常識を信じているからです。
 命は借り物です。命が借り物だということは、命を貸した人がいるのです。その人をつまえればいいのです。それを神と言うとすれば、その神をつかまえれば、借りた命がもらえるのです。
 命をもらってしまえば、死なないことになるのです。借りたままの状態で放っておきますと、現世を去る時に、命を返さなければならないのです。そこで困るのです。
 命は自分のものではありません。天のものです。天が分かれば、命の本源が分かるのですから、天と自分が、よく話し合えば、永遠の命を与えられることは、充分にできるのです。常識にこだわらないで、心を開いてお考えになれば、あなたご自身の命の根本が、ひっくりかえるのです。
 人間は死なない命を自覚しなければならない責任があるのです。今のままでは、日本人は全部、死んでしまいます。死んでもかまわない、赤信号皆で渡れば怖くないという気持ちがありますが、これは非常に無責任な、霊魂のさばきを知らない人が言うことです。
 自我意識は、自分だけしか通用しないものです。
 人間の精神生活は個々別々であって、一人ひとりが自分の部屋に閉じこもっているのです。いわば刑務所の独房のようなものです。一人ひとりが孤立しているのです。人間は皆孤独です。孤独であることが、霊魂が審かれるための前提条件なのです。
 神と仏の関係を簡単に言っておきますと、仏というのは、自分自身の人生がほとけること、ほどけることです。人間が何のために生きているのか分からない。死んだらどうなるか分からないことを、ほどくのです。これが仏です。仏とは、人間が生きている姿を、はっきり認識することです。
 五蘊皆空、色即是空が、仏の入門なのです。神とは、日本の八百万の神ではありません。皆様の命の本店、天が神です。皆様は天の意志によって生れてきたのでありますし、天の意志によって命を預かっているのですから、天が分かれば死ななくなるのです。
 中国では、神を、上帝とか、天帝といいます。聖書の神はどうも日本人には分かりにくいのです。
 





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Last updated  2011.07.15 20:42:35
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