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空のむかしばなし

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2008.04.17
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カテゴリ:Aviation History

 

横須賀へ空輸される紫電改

 横須賀空輸に向けて試運転中の紫電改(九州・大村基地)

「航空ファン」 1971年4月号

操縦席に座っているのは、志賀淑雄飛行長

 操縦席の志賀淑雄少佐(海兵62期)

「航空ファン」 1960年4月号

昭和55年6月26日付けの書簡 拝復:ご照会の件につき下記の通り回答いたします。

1.空輸の年月日・・・不詳 昭和20年10月上旬~中旬と記憶。

2.3機と記憶。

3.搭乗員:一番機・・・小生、二番機・・・小野正盛(甲飛9期)、三番機・・・下記のうちの誰か?駒場三郎(丙飛13期)・・・栃木県鹿沼市、原田秀夫(甲飛10期)・・・山口県防府市、塩野三平(甲飛7期)・・・長崎県佐世保市(塩野三平氏が参加したとすると塩野2番機、小野3番機)

4.戦斗301飛行隊の整備兵曹だった近藤若重氏外約10名の下士官整備員でした。

5.中佐であったことだけ記憶。輸送機長は タイロン・パワー少佐。N1K2-Jは3機(多くて4機)と推定します。

同80.11.29のハガキ

1.(空輸年月日)紫電改3機 大村→横須賀は20年9月末又は10月始 帰途京都で白のショートパンツでサイクリング中の女性を見た。

2.機数 3機

3.同Pilot・・・小野正盛(鹿児島県?)駒場三郎(栃木県鹿沼市)

4.整備のチーフ・・・?

5.米側の責任者・・・某中佐。機長はタイロン・パワー少佐。

横須賀への空輸を待つ紫電改、米軍のマークが痛ましい。

 最後の飛行を待つ紫電改 米軍のマークが痛々しい

「航空ファン」1960年4月号

原田秀夫(甲飛10期)からの書簡(55.9.10)

お便り戴きました 先ず順を追ってお知らせ致します.昭和二十年九月三十日でした。私が復員して一ヶ月余りの時突然電報が届きました 恐らく飛行長からのものだったと思います。(相生副長)“進駐軍の命に依り紫電改のテストを頼む”此んな電文だった様に思います。

直ちに返事を出しました. 日本に海軍に紫電が完成して以来ずっと乗り続けて来たプライドがその返事になったのでしょう

大村駅に着いたのは多分十月二日だったと思います.その後忘れもしませんが二週間以上来る日も来る日も雨又雨で飛行作業の出来る状態ではなかった.漸く十五日頃天候も平状になり我々パイロットは飛行長以下の四・五名米軍に呼ばれた.

当時は地方では全然外人(米軍)の姿は見当らなかったが大村空技しょうの門を入ると初めて日本は米軍に負けたのだと云う実感がした. 見渡すかぎり毛色の異なった者ばかり・・・ 我々は目指す指揮所に着いた.我々四、五名に対し米軍パイロット(青年士官)は二拾数名、 結局翌日からのテストについての飛行ルールの説明である. 通訳をとおして聞く処によると(一部であるが) ○飛行中の速度二○○ノット ○右旋回は禁止 ○高度二、○○○ ○飛行姿勢は水平飛行 ○大村湾上空の飛行中 船舶の上空は飛行禁止 ○佐世保~長崎以北以南禁止 ○離陸・着陸は支持に従う。

我々一機に対し後方に米軍戦斗機四機全弾装備し違反すれば撃墜するとの事.(我が方に装備なし)文面では表せない部分も多いが・・・・・・・・・・

翌日より天気回復で先ず私がイの一番にテスト飛行をやった. 全く戦々恐々であった然しテストを重ねるにつれて彼等の気持ちも判り気楽にやったと思う. 

厚木に空輸したときは小生は乗っていない 機数は先頭をダグラスが行き(多分飛行長が乗っていたと思う)次に紫電改三、四機(はっきり記憶なし) その次に米戦闘機一○余りで出発した 操縦者名は駒場兵曹、半田兵曹、小野兵曹だったと思う。

上記の乗機の機番は記憶なし 空輸年月日は昭和二十年十月二十日頃と思う.

小野正盛(甲飛9期)氏からの書簡(55.10.20)

私ごとき人間にわざ~~の御便り有難うございます (中略) 然し毎朝の念仏に先輩や戦友の冥福だけは忘れた事はありません 能書きはおきましてお尋ねのところのみ覚えて居る事を乱書してみます但し不確実です.

一、空輸月日 昭和20年10月15日

二、空輸機数 紫電改  3機

三、搭乗者氏名 一番機 志賀淑雄少佐、二番機 田中?上飛曹(千葉県出身)、三番機 小野正盛上飛曹

四、機番号 10月10日頃日の丸を☆マークに塗り変えと同時に隊番号もけされたようです(5機整備試飛行の後、3機空輸したように思います)

五、S16.10.1. 九期甲飛として土浦空へ入隊

   S18.10.30 戦斗機専修卒業

   S18。11.1. 零戦操縦士として支那比島台湾沖縄作戦に従軍

   S20.2.30.  紫電改搭乗員として従軍

   S20.9.30.)  命に依り

   S20.10.30.) 大村~横須賀間の紫電改空輸に従事.

不確実乍ら想い起こすまま書き綴ってみました 何かの参考になりますれば

 

田中利男氏(乙飛11期、S407)への電話インタビュー(82-2-20)

空輸時期? 大村で解散後、くにへ帰らず飛行隊長(光本卓雄氏?)の家が広島でそこに居候していた(ちょっとの間)、出身は千葉県 その後大村へ引き返したが、ちょうどグラマンの進駐時期だった。

空輸機数 3機(志賀、田中、小野)

一人でいる時(大村)、田中氏のいることがわかり、(上官が)誰か呼べということで、九州の人?を呼ぶ。小野氏(S701)をどういうわけか知っていて(彼は出水の出身)、S407が出水にいたことがある. 其の時小野氏の家が出水にあることを知り、思い出して呼んだ。横須賀へ空輸、その後母艦で運ぶ予定と聞いていた。

 

 

紫電改の計器板

                                          おまけ






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Last updated  2008.04.19 23:43:00
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