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空のむかしばなし

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2012.01.01
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新居大正浜へ
大正7年春、陸軍は第一次大戦(欧州大戦)の戦況およびシベリア出兵をひかえ、航空兵力の充実のため、パリの駐在武官を通じて、フランスより各種飛行機100台およびそれに伴う材料、制作機械等の購入を命じた。当時フランスはドイツを相手に戦争中であり、これらの注文には応じてくれないのではないかという日本側の危惧に反して、快くこれに応じてくれた。
 また飛行機ばかりあっても、それを操縦・運用するには総合的な教育体系が必要であり、欧州大戦で非常に進歩したこれら教育方法を有力な連合国一員である日本に伝授するための教官を派遣する話まで、好意的に提案してくれた。話はトントン拍子に進んで、最終的には、時のフランス首相クレマンソー(陸軍大臣も兼任)の裁断のもと、フランス側の派遣者の往復旅費および滞在中の給与は全てフランス政府が負担するという破格の扱いで、フランス航空団の日本派遣が実現することとなった
 日本側では、その団長として、大戦前からフランス航空部隊の組織編制の功労者であったフォール砲兵大佐を希望し、それが受け入れられ、大佐自らがその幅広い見識のもと派遣教官の人選に着手した。当初13名が予定されていた派遣員は、29名に、そして最終的には61名ものたすうにふえたが、その第一次49名は11月21日フランスのマルセーユを出港、上海経由で、大正8年1月12日に長崎に寄港、ついで1月14日に神戸に来着した。一行は直ちに東京に向かった。
 フランス航空団の教育課目は(1)飛行機操縦および空中戦闘法 (2)偵察写真、無線通信術 (3)空中射撃術 (4)爆撃術 (5)機関工術 (6)気球に関する教育 (7)機体製作術 (8)発動機製作術と多岐にわたった。それぞれの教習場所は、各務原(操縦)、下志津(空中偵察、観測)、新居町(空中射撃)、三方ヶ原(爆撃)、東京砲兵工敞(材料検査)、所沢(飛行機製作等)、熱田陸軍機器製造所(発動機製作)、追浜(飛行艇組立、操縦)などであった。
 各教習地は事前に協議されていたようで、フランス航空団の来日後すぐに予定地の視察に入っている。フォール大佐はじめ、井上少将、草刈中佐以下の一行18名は、1月22日早朝浜松駅に到着、まず浜名郡富塚村の陸軍演習場を実地踏査した。その後、舘山寺より軍用艇で弁天島に南下、浜名湖の視察、翌日には、各務ヶ原を実地踏査する。2日後の1月24日には、ルフェーブル少佐他4名が、同様に浜名湖および三方ヶ原を実地踏査し、即日帰京している。2月5日から8日にかけて、やはりフォール大佐以下5名は、高師ヶ原、富塚練兵場、熱田工廠、名古屋練兵場、各務ヶ原と練習場選定を精力的に急いだ。
 2月13日、赤羽少佐、倉片大尉、長尾中尉、およびペラン中尉、ビュアラン中尉の5名は、飛行根拠地となる富塚(新)練兵場再踏査を実施、翌日の弁天島付近および今切湾沖の視察は天候不良のために中止され、高師ヶ原の視察に赴いた。その後15日に鷲津駅に下車、浜名湖方面を彩度実査している。これにより、爆撃班は三方ヶ原(富塚)、射撃班は大正浜を選定することにほぼ決定したが、富塚練兵場は交通不便の地であり、浜名湖付近はまた気流がおもわしくないことが予想され、船の航行および漁業への影響も心配されていた。
 大正浜とは、もともと養魚場だったところであるが、大正時代に入って埋められたために、こう呼ばれていた。夏には、絶好の海水浴場であった。
 練習候補地が決まると、地元との借り受け交渉が開始され、3月に入って正式契約がかわされた。期間は4月1日から8月30日まで、これはその後に、演習の都合によって9月20日まで延長されることになる。
 自動車が通行可能なように道路を改修、事務および講義に用いられる建物の完成を急ぎ、格納庫の地ならし、軍用電話および警察電話の仮設・延長、また飛行訓練を見学の観客にに対応するため、大正浜には役場の出張所、新居警察分署の分遣所、また臨時駅前巡査派出所の設置、観客のために旅館は改修を急ぎ、出張店も構えられ、新居町はしだいに活況を呈していった。

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Last updated  2012.01.03 09:25:41
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