通潤橋~熊本県上益城郡山都町~
さて、通潤橋の核心部分に潜入してみたいと思う。この通潤橋を語るのに忘れてはいけないこと、それは…。「農民のために造られた稀な橋である」ということ。これをキーワードにまとめてみたい。時は江戸時代、このあたりは緑川という大きな川のほとりなのに、全く稲作に適していなかった土地だったのだ。確かに河川は存在するのだが、白糸大地(緑川とその支流に囲まれるように位置する)を中心とした高台から見た緑川水系は、まさに崖下に存在していたのだ。そのため、大きな川のほとりにいながら、田んぼはわずかに8反歩、干ばつにでもなれば、飲み水にも窮するほどだった。この惨状を打破すべく立ち上がったのが、この地・矢部郷の惣庄屋・布田保之助(ふた やすのすけ)である。天樋の管が上に向いていても、一定の高さまで持ち上がる連結管の原理を見抜いた保之助は、まず五老ヶ滝川に石橋を架け、その上に水管を通し、浜町高台(ここは笹原川の上流にあたる)から、白糸大地へつなぐ、そして両サイドに水だめを作り、勢いよく水が流れるように計画。しかし、木製の水管は、その水圧に耐えることができずに失敗。次は3尺石に1尺の穴をあけ、それをいくつもつなぐことを考えた。問題は連結箇所。水漏れという問題が立ちはだかった。そんな時村人から「漆喰」の技術があることを保之助は耳にする。コンクリートのない時代の土蔵の壁材を連結の材料にするが、それでも上手くいかなかった。やっとその問題を解決したのが「八斗漆喰」という、より強固な接着力と耐久性を持った漆喰だった。松脂、赤土、川砂、貝灰などを配合、さらに塩や卵白を加えて、当時の技術では最高に近い漆喰を使い、ようやく成功する。 写真中央の四角い石が、管に使われた。驚くことに、今の水道のパッキンのように、松板で5か所ほど挟みこんで、衝撃対策までしていたという…。さて橋本体のほうだが、肥後の国には岩永三五郎という眼鏡橋のスペシャリストや通潤橋の工事にも携わった丈八、宇一、甚平らの尽力で、1年8カ月の工期で、1854年7月29日に完成した。さらに驚くことにこの通潤橋にも、熊本城の石垣の技法が応用されているというのだ。なるほど…これが九州に多く石橋が残っている秘訣なのか…。昔の職人さんの頭脳と腕に感銘を受けながら、通潤橋を渡った。 石垣も美しい…。この日(1月3日)は、残念ながら道の駅の「通潤橋の資料館」はお休みだった。というわけで、売店で売っていた「通潤橋にかけた夢」という小冊子を買って読んだ。漫画入りでおいらにもわかりやすい、お買い得商品だったよ…。 布田保之助の像 通潤橋の寸法ふぅ~~、文系が苦手なおいらには疲れるわい…。