日常会話において普通名詞と固有名詞の区別がついていない子
塾講師という仕事に就き10年以上が経つ。その間、大勢の生徒たちと会話をし、そして大勢の子の作文を添削してきた。そうした中で、一部でしか通用しない言葉を、所構わず使用する子が増えてきたように感じている。「空気が読めない」という言葉があるが、日常会話や作文においても、場の空気を読んだり、今いる状況を把握することができず、特定集団でしか通じない言葉を外部で使用してしまう子がいるのである。原因の一つに、「ボキャブラリー」の貧困さがある。 先日、生徒たちの作文を添削してる際に、聞き慣れない言葉を発見した。どうやら、その言葉は、その中学のあるクラス担任の先生が作った言葉のようだ。確かに日本人なら、単語から大体の意味は推測できるのであるが、しかしどこでも通用する普通名詞というわけでは決してなく、その中学のそのクラス内にいる生徒内でしか伝わらない固有名詞であった。ところが、その生徒は、その単語を平気で作文で使用してしまっているのだ。 少々話が分かりにくいので、1つ例を挙げる。例えば、塾業界で言えば「映像授業」。これは普通名詞である。一方、代ゼミTVネット、ウイングネット、サテライト、東進衛生予備校、サテライン、アピレク、ブロードバンド予備校、アットウィルなどはもう固有名詞である。映像授業という言葉は、誰でもその意味を理解することは可能だが、アピレクとなると知っている者にしか話は通じない。そのため、塾業界とは全く関わりのない旧友と会話している場面で、「うちの塾も、今年から映像授業を始めてみるんだ」という会話はOKであるが、「うちの塾ね、今年からアピレクを始めるんだ。」は絶対にしてはいけない会話である。聞いている友人は何のことだかサッパリ理解できないはずだ。 もう1つ例を挙げる。今年、ある塾から転塾してきた子がいた。その塾にはAシステムという時間がある。(←実際は、横文字のもっと長い名前である)その転塾してきた子に補習していた時のこと。私が今までのテスト勉強の様子を聞くと、「試験前は学校のワークで勉強した後、Aシステムで復習して・・・云々」と話し出した。私は塾業界にいるものなので、そのシステムの内容が分かるのであるが、普通ならその言葉を聞いてもさっぱり意味が取れない。 ところが、こうした一部の空間・場・社会集団でしか通用しない言葉を、何の配慮もなくいつでもどこでも構わず使用する中学生というのは大変多い。概して、国語力に問題を抱えている子ばかりだ。 「今日、学校の○○という時間に、だれだれ君が」のように、○○のあとに「という」のような単語を挟み込めば、固有名詞の違和感は薄くなり、若干だが普通名詞化していく。聞いている側の違和感も緩和される。しかし、「今日、学校の○○の時間に」と、その学校内でしか通用しない○○という言葉をいきなり使ってくる子がいる。本人には、全く悪気はない。なぜなら、本人にはその言葉が固有名詞なのか、どこでも通用する普通名詞なのかの区別が付いていないからだ。要は、自分が知っているどの単語が日本中どこでも通用し、どの単語が一部の地域でしか通用しないのかの判断が付いていないのである。原因はボキャブラリーの貧困。読書量や会話量が少ないため、「この単語は一般的にどこでも通用する」「この単語は、おそらく○○先生が独自に考えた言葉だな。」などの区別が付かない。結果的に、マクドナルドでしか通用しない言葉をロッテリアやモスバーガーで使用するという失礼な態度を取ることがある。(もちろん、写メやパケ放題など、固有名詞が一般化した例もある。また、ローラーコースターという普通名詞より、後楽園遊園地のジェットコースターという固有名詞の方が有名になり、後者がむしろ普通名詞化していった例もある。ホチキス、セロテープ、蛍光ペンなども同様で、固有名詞が普通名詞化した。) これが「会話における空気の読めない子」である。作文においても同様で、作文冒頭に、「先日、体育のチーム反省の時間に・・・」という文章があったのを見て驚いた。「チーム反省」とは、日本人であれば意味は十分に読みとれることは確かであるが、どう考えても一般的な名詞ではない。面接や作文で使える単語ではない。「チーム反省という、チーム毎に分かれて反省点を箇条書きで書き出す時間があるのですが、」と一言説明を加えれば良いのだが、そうした配慮ができない。これは中学時代に直しておきたい部分である。先日の授業は、そんな話を10分ほどしていた。