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仮構と現実がつながるメカニズム12
祈り 終わった後の気持。そしてなんでここまで引いてしまったのかということ。 象徴みたいなものに首を突っ込み、なぜ今までなくて今回なのかという不可知に入り込み、今はどっか鎮魂の祈りに似た気分。 冥福を祈る――というのでなく鎮魂――加害者も家族も遺族も、それらみんな。 さらにいうと、ほんとはそれを想像して見ている者の、一般の人間の集合意識への鎮魂と言うほうが正しい。 中学よりほんの少し年下にずれているので、彼らは一種の象徴であり、今は特殊な気のする、明日のふつうとなる気もする、全体意識の象徴。 その全体への鎮魂の気持に似たものを、加害者びいきの文に見えたりもする。 その一人一人がそんな気持とは限らないのだけど、いろんな人の意見は全体のバランスへの自分なりの反応として出てくると思うから、僕はそう見える。 事実認識が何であれ、いろいろな意見はその人なりにほんものであればそれでいいと思う。 いろんな立場がそれぞれそれなりに生かせればいいだろうと思う。 盆というのは体感の暑さ――暑さへの不適応感――が過ぎて涼しくなりかけで行われる。 その時期になって、墓前に手を合わせる習慣になっているのは、農閑期なだけだろうか。 夏の暑さを過ぎて、正気を取り戻すという感覚に支えられていたんじゃないだろうか。 ―――仮構と現実がつながるメカニズム終了――― 目次へ 総目次 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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