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カテゴリ:時事
もう一度改めて、元の日記を見なおしますと、
(↑Re:大人びた寂しさ(2004年11月05日 15時15分)から続き) 『自分ひとりが先に大人になってしまったようで、とても寂しい。みんな子供っぽくて、自分が話すことをちゃんと理解してくれていない。』 『小さい頃から妙に臆病で繊細で、周囲の反応をうかがいすぎる傾向があった。 最近は特に友達の言動などが気にかかるらしく、「私は必要とされていない」「私は嫌われているかもしれない」「私なんていなくてもいいんだ」と感じるらしい。家に帰ってくるなり泣き崩れて、私がなだめてもなかなかおさまらないこともある。 学校での何ということもない経験でも、今の我が子にとっては時に「針のむしろ」になり、苦しくて仕方がないのだ。』 『「死にたい」「もう生きていたくない」と口にするようになった』 うまく合わない気がする。リアリティーがわからない。 大人になる、ということが、何の意味もないことになっているかのよう。 いったい、生きていることの基盤をどこにおいてるのだろう?と思う。 どっか、ファンタジーなんじゃないかと思う。 (子供から見れば、大人もファンタジーや別の生き物だったり。) で、死ぬことのほんとのことは知らないから、どうも子供世界の言葉を吸い込んでしゃべっているみたいでもある。 親に言ったり、一緒の方向に帰る同級生にも聞いたりするのは、そういう言葉をふつうに使えているわけで、でもいいかげんでなくてけっこう本気。 (気持ちの内容としては、 変化が淋しいと言うのはそれまでがうまくいっていたことの裏返しなのか、 それまでが気を使ってきたのに、いいかげん限界を感じたのか、 ・・・・気持ちの内容は、この子個人の問題のように思うし、わからなくてもいいかな ) 世界は心象 表現から想像する形容としては(強さや深さの程度は別にして)、 子供は、子供の世界としてこの世を見ていて、大人というのは別の生き物になるに等しいかっこうかも。 だから、子供社会と合わなくなると、自分の居場所がなくなって、消えたくなる→死にたい、のかも。 子供が迷信を信じやすいようなものか。 神隠しや狐憑きとかで象徴されたことが、死にたいという表現になったりしたのかも。 するとそれは、センチメンタル表現だが。 表現 そういう表現が、貧しくなってるのかな。「+思考」と「おもいやり」の陰になって。 言葉・表現環境が問題なんだろうなと思う。 考えることを禁じたり、こう考えろとは言えないから、『死にたい』と言われた場合に大人が黙らずに会話に付き合うことで、言語環境を豊かにするべきかな。 そういえば、何年も前、同級生が子連れで旅行でやってきて、その子が最近死ぬのが怖いなんて変わったことを言う、とかその親(奥さん)は言っていた。 田舎に住んでると、死亡広告チラシが毎日のように入っていて、ときどき葬式も見かけるし、死を考えるのは当たり前だ、と言っておいた。昔の子はよくそんなことを考えたりしたという話もしたし。 翌年また来たときは、そんなことを怖がったなんて話は忘れたかのようにしていた。 考える仲間・同類がいるというだけで、一人で考え詰めなくても済むんじゃないだろうか。 他愛ない面はあって、ただ驚かされている必要もないのかも。 ----------------- もうひとつ、大人だって愚痴として「死にたい」ということは気楽に口にするはず。 ‘自分が周囲のことを考えて適応してきたのに、その結果、自分が大人びて周囲と合わなくなって、全く報われない。生きてくのがバカらしくなったよー’ という感じが一番近かったりして。 それを不機嫌そうにではなく言うから、本気に取ってしまうとか。 (でもだとしたら、『自分もそう思ってる』と言った同級生はどうなのか、となるんだけど) 形 その心理――適応していた環境から浮き上がって、居場所がない感覚――は、ホームシックになって狂いそうだとか、新しい土地で一人でやっていけるだろうかとか、人格剥離とか、洗脳とか、に通ずるのかなと思ったりする。 自分の人間の形というか、そのない空虚さを「透明な存在」というんだろうと以前から思っていたけど。 「佐世保小6HP殺人」私的総目次 子供問題私的目次 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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