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2010.01.04
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カテゴリ:歴史と文化
 安政の大獄に連座して、不遇の身の上にあった慶喜を歴史に再登場させたのは、島津久光の推挙だった。勅使を護衛して江戸に入った久光が、どうして慶喜を政治の舞台に登場させたのかは分かっていない。薩摩藩は将軍後継争いの一橋派であり、慶喜の才を認識していたのかもしれない。いずれにしても、文久の幕政改革がなければ、歴史に埋没していたはずの慶喜が政治の表舞台に登場して、幕末史は白熱化してくる。
 慶喜には、もともと政敵が多かった。譜代大名で構成される幕閣は、水戸徳川家を尊王攘夷運動の拠点であるとして、警戒していた。水戸藩の浪士たちは、大老井伊直弼を暗殺さえも実行している。その水戸からやってきて、将軍後見職に就任したのだから、江戸城で疎外されたのも無理はない。将軍周辺からは、実権を奪われることへの警戒もあったので、江戸城の執務は針のむしろだったろう。慶喜が才能を発揮できたのが、京都の地だったのは自然の道理になる。
 水戸出身の慶喜は元来尊攘派であり、朝廷の下に幕府があることをわきまえていた。朝廷から評価されたのも、その一点にある。しかし、騒乱の京都に乗り込んだ慶喜を待っていたのは、倒幕を狙う過激な尊攘派だった。長州と薩摩が危険な存在であることは認識していても、薩長を威嚇できるだけの武力を幕府は保持していない。となれば、朝廷の力を借りて、長州と薩摩の勢力拡大を抑えるしかなかった。公家たちは表面上幕府に従っていても、本音では討幕を狙う薩長の考えに動かされていく。
 徳川一族の中で軍略の才を持っていたのは、初代の家康と慶喜くらいしかいないのも事実だろう。将軍職は儀礼や行事が多く、政務を握っていたのは老中になる。将軍は独裁者であるよりも、人形であるほうが御しやすい。そこで、温和な家茂が後継者に選ばれたのだが、このとき慶喜が将軍に選ばれていたならば、幕末の歴史は大きく変動していたはずである。幕末の動乱において、ほとんどなすすべを知らなかった家茂を将軍に仕立て上げてしまった幕府首脳部の判断力の誤りは大きい。
 慶喜の軍略を見せつけたのが禁門の変になる。八一八の政変と池田屋事件に誘発された長州は京都を囲み、京都御所に押し寄せた。そもそも、長州兵が全く抵抗を受けずに、京都近辺に布陣したというのも不可解な出来事になる。さらに、御所の戦いにおいて、敗北寸前の幕府軍を救ったのが西郷隆盛率いる薩摩軍というのも歴史の皮肉になる。
 薩摩と長州が手を握れば、倒幕が可能であることを予感した坂本竜馬の才覚が歴史の流れを変えてしまう。毛利家の弱体化を狙った第一次長州征伐は、西郷隆盛の軍略で和睦に終わり、長州藩は存続することになった。薩長同盟が成立すると、幕府は軍事的に対抗できなくなる。結局、詰めの段階で慶喜は天下の形勢を見誤っている。自らの限界を察知した慶喜が、将軍職就任を拒否し続けたのは、本音だったかもしれない。
 鳥羽伏見の激戦の最中に、将軍慶喜が大阪城から脱出したことで、幕府軍は総崩れを演じて終わる。慶喜が朝廷への徹底抗戦を避け、戦わずに江戸城を明け渡したことで、徳川幕府は終焉した。これも慶喜の戦略と考えると、その功績は大きい。徹底抗戦を叫ぶ武断派を抑圧して、無用な犠牲者の数を減らすことができた武将は、歴史的に見ても少ない。幕府の武断派に暗殺される覚悟がないと、なかなかこういう決断はできない。慶喜は弱腰の将軍ではなかった。





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Last updated  2010.01.09 19:22:25
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