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6.失われた記憶(1)(あなた、誰……か)アシャは重い憂いを浮かべて、草の上に腰を降ろしている。憂えた表情がどれほど整った顔立ちに悩ましさを与えているか、それがどれほど女性の心を魅きつけるか、そんなことはよくわかっていることだが、今の彼にはそう言ったことは全て瑣末時、興味も湧かない。髪留めから一筋二筋ほつれ落ちた髪をうっとうしくかきあげる。光が跳ねて瞳の奥に眩い煌めきが差し込む、それに僅かに目を細めて溜め息をつく。 (誰に抱かれてるつもりだったんだろうな) あの瞬間は、さすがにアシャ自身だろうと思い込んでいたのだが。 (俺じゃ、なかった) では誰だ。 「…ふう」 決まっている。 ユーノがあれほどの想いを寄せている相手だ。 思わずもう一度深々と、胸の奥からのもやもやを溜め息に吐き出す。 「…それはないだろう……」 「…アシャ」 「……シートス」 近づいてきた気配に振り返ると、日焼けした精悍な肌に黒々と髭をたくわえたシートスが向かってきていた。 「様子は?」 「元気は元気ですが……どうもやはり、裂け目に落ちた時にどこかで頭を打ったんでしょうな、一時的な記憶喪失……それに…」 シートスは困ったように肩を竦めてみせた。 「自分を男だと思い込んでいるようです」 「……」 アシャはもう一度溜め息を重ねた。 何せ、目を覚ましたユーノが最初にアシャに投げつけたことばが、『放せ、変態!』。訳がわからずに戸惑うアシャに、続いて『男を襲ってどうする気だったんだ』と言い放った。 それからは、アシャに近づこうとしないし、近づけようともしない。見かねたシートスがとりあえずアシャについて改めての紹介をした後でも、ぷいとそっぽを向いてアシャの顔を見なかった。 「私もユカルもひやひやものですよ。今は右手が使えないからまだいいものの、ちょっと目を離すと、他の男連中に混じって着替えかねませんからな……何とかならないんですか?」 「俺が近づけないんだ」 アシャはうんざりしながら応じた。 「何ともしようがない」 「自分の名を星の剣士(ニスフェル)、野戦部隊(シーガリオン)の一員だと信じ切っているし…」 「それがまた問題なんだ」 このまま、ユーノに因果を含め、レスファート達の所へ連れ戻して、旅を続けることは不可能ではない。アシャのことばでは聞かなくとも、野戦部隊(シートス)隊長シートスからの命とあれば、野戦部隊(シーガリオン)の一員である星の剣士(ニスフェル)としては、聞かないわけにはいかないだろう。 だが、レスファートはレクスファの王子、人の心の像に精通している一人なのだ。自分でその能力の高さを意識しているかどうかはわからないが、ユーノの心像が以前と全く違うばかりか、自分の存在がそこにひとかけらもないとわかったら、どれほどの衝撃を受けるかは容易に想像がついた。 (せっかく元気になったレスファートが、また逆戻りするのは見たくないな) 姿形が愛らしいだけに、自分の拠り所を失って殻に閉じこもっていく光景は痛々しすぎる。 (どうする? いっそ、ユーノを野戦部隊(シーガリオン)に委ねるか) むしろその方がレスファートにとっても、そしておそらくはアシャがこれ以上ユーノに拒まれないためにもいい方法だろうが……。 「ユカル!」 ふいに朗々とした声が響いた。何かの急用か、ユカルの天幕(カサン)にユーノがいそいそと走っていく。 見つめているアシャの視線に気づいたように、ふっとユーノがこちらを振り向いた。だが、すぐに険しい表情で顔を背け、災厄から逃れようとするようにユカルの天幕(カサン)に飛び込む。 それはまるで、アシャの存在そのものが不快でしかないと語るようだ。 (何だ、それは) どれほどの想いで探し回ったと思っている。 どれほど眠れない夜を過ごしたと思っている。 見つけ出した瞬間の喜びを一気に突き落とされる傷み、しかもそれは今もどちらかというと警戒を深められ続けているとしか見えない。 (俺は) 「…前途多難ですな」 「……ああ」 (俺は) シートスのことばにアシャは唇を噛みしめ、俯く。 (俺が、何をしたって言うんだ) 子どもっぽい愚痴に胸がじくじくする。 (なぜなんだろう) ユーノは振り返って、天幕(カサン)の入り口の垂れ幕の合わせ目から外を覗き見た。 赤茶けた草の上に、尊敬すべき長、シートス・ツェイトスがいる。 そして、その側に、シートスがあれほど親しく話す相手としてはかなり不似合いな、きらびやかな男が居る。 黄金の髪を無造作に止めた飾り紐、風に吹かれ乱れる金の炎に囲まれた端麗な顔は女性的だ。眩く輝く双眸は紫水晶、しかも差し込む日差しに刻々と色を変え、表情を変え、飽きさせない。彫刻じみた整った容貌、けれど時折零れる笑顔が生き生きと温かく、綻ぶ唇が甘い果実を思わせる柔らかさで、同じ男なのにどきりとする。何かを悩むような表情、厳しく考え込む頬の鋭さも、見惚れるほど印象的だ。 アシャ・ラズーン。 なるほど、ラズーンの第一正統後継者というだけある。 だから、なのか。 (あの人の目を見返せない) 思い出してぼんやりする。 あの紫の目を見ていると、妙に心が乱れて切なくて、おかしな話だが、胸が苦しくなってくるのだ、恋いこがれる娘を目の前にしているように。 「馬鹿な!」 相手は男だぞ。 胸の中で叱咤する尻から、数日前のことを思い出してしまう。おぼろげな記憶から現実に引き戻された瞬間、抱き締められて口づけをされていた。惑うよりも先に、抵抗する気が失せて、ただただ心が寛いで。このままもっと引き寄せられてもいい、そんな甘さにうっとりして。 「くそっ!」 顔がみるみる熱くなって、急いで唇を手の甲で擦る。 (そんな趣味があったのか、ボクは) 確かに耳にしなくもない、同じ危機を凌いだ仲間が互いを求め合うようになる、そういう噂は耳にもする。 だが、アシャは初めて会った人間だ、並外れて女のように美しかろうが、とにもかくにも初めてで。 (初めてで、あんな) ぞわりと震えた体にうろたえる。 (あんなふうに) 唇を開かれて、触れた柔らかな感覚に意識が溶けて。 (何もかも、奪われたいと?) 「違う違う違うっ!」 「だから何だよ、星の剣士(ニスフェル)!」 「へ?」 ふいに響いた声にぎょっとして振り返ると、ユカルが敷物の毛皮の上で胡座を組み、冷たい目でこちらを見ている。 「いきなり、人の天幕(カサン)に飛び込んで来たと思ったら、妙な顔して返事もしない、あげくにおかしなこと口走りやがって!」 「あ、ああ……」 悪い、と慌てて謝った。 「何か用があったんじゃないのか」 「それだ。少し北の方でモスを見たよ」 「北の方って…おまえ、怪我もちゃんと直らないうちから!」 険しく眉を逆立てるユカルに苦笑する。 「怒るなよ、ユカル」 首を竦める。 「ちょっと暇だったから」 「暇だったからじゃないっ! 怒られるのは俺なんだぞ!」 「ユカルが? どうして?」 一瞬相手が勘弁してくれ、と言いたげな情けない顔になったのをきょとんと見返す。 「そ、そりゃ、い、いろいろと…いろいろとあるんだよ!」 「いろいろ?」 「いろいろ! それより、モスが居たのはどの辺りだ? 隊長に報告しておいた方がいいな」 「だろ」 「よし、ちょっと行こう。来いよ」 「え、あ、その」 立ち上がったユカルに促されて、ユーノは口ごもった。 隊長は今アシャと一緒だ。できるなら、顔を合わせたくない。 「何だ? 見た人間が報告するのが掟だぞ?」 訝しげなユカルに顔をしかめる。掟を持ち出されては、野戦部隊(シーガリオン)としては、背く訳にはいかない。 「そうだ、な」 「心配するな、俺もついてってやるよ」 「うん」 隊長に報告するのは初めてだったかな、お前、と見当外れな部分を心配してくれるユカルにすまなく思いながらついていくと、隊長の側にはもうアシャはいなかった。 (いない) 思わずきょろきょろしてしまう。 (どこに行った?) ほっとしたけれど、それはそれで何か淋しい。太陽の光さえ少し翳った気がしてくるのが不思議だ。 「なるほど…モスか」 「星の剣士(ニスフェル)」 「あ、はい。ジャントス・アレグノの遠征隊のようです。北の大岩を拠点としているような動きでした」 人数、装備などを確認したシートスが考え込んだ顔になる。 「わかった。斥候を送ってみよう。……ああ、ユカル、少し残れ。星の剣士(ニスフェル)は行っていい」 「はい」「わかりました」 引き止められたユカルを置いて、ユーノはシートスの側を離れた。 (あの人、どこへ行ったんだろう) 居ると居たたまれないのに、居ないとなると行方が気になる。 吊った右手を体に引きつけたまま、天幕(カサン)の間を擦り抜けて行く。あれだけの美貌、むさ苦しい野戦部隊(シーガリオン)の中ならすぐに見つかるだろうと高をくくっていたが、一通り回ってみても姿がない。 (どこかへ出かけたんだろうか) ふと浮かんだ考えに身を翻す。 確かにアシャは野戦部隊(シーガリオン)ではないのだから、ここに居続けなくてはならない理由はない。いつ旅立っていってもおかしくないはず、そう考えて不安になる。 (もう会えない?) 自分がアシャを探し回っているという自覚はない。ただなぜ急に居なくなってしまったのか、どこへ行ってしまったのか、それだけが気になって気になって、平原竜(タロ)置き場へ走る。確か、彼の馬もそこに繋いでいたはずだ。 (、いた!) 平原竜(タロ)の中に、アシャの金褐色の髪を見つけてほっとした。息を切らせながら、今さらのように、自分がかなり駆け回っていたのだと知った。額から流れてきた汗を急いで擦って、相手が栗毛の馬に荷物を積んでいるのに気づく。 (出ていく、んだ……) ラズーンの第一正統後継者であるはずの、この鮮やかな男は、なぜかずっとラズーンを離れて旅から旅を続けている。全国の視察をして回っているのだとも、地方の監視に向かっているのだとも、あるいはまた、全くに気まぐれだとも聞く。 その目的が不明で、今回も訪れた場所が、たまたま野戦部隊(シーガリオン)の野営場所だっただけのこと、そういうことなのだろうが、置いて行かれる、とふいに胸が淋しさで一杯になった。 思わず一歩足を踏み出す。距離はあったし、物音をたてたつもりはない、けれど、 「誰だ」 低く鋭い声で誰何されて、立ち止まった。くるりと振り返った瞳は殺気に満ちて猛々しい。だが、次の一瞬、胸を貫くようなその色が、豊かな水をたたえた湖を思わせる柔らかさに凪いで、思わず見惚れる。 (宝石が、果実に変わったみたいだ) 唇を寄せて味わいたい、と思った瞬間、自分の思考の危うさにひやりとする。 「…やあ」 「あ…」 |