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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2008.06.06
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カテゴリ:歴史
六月六日は沖縄戦にて自決された大田実中将の電文が発せられた日でした。

狼魔人日記
日本とアジア諸国の関わりを沖縄在住の視点で綴る。より引用させていただきます。

注:読みやすさを考え,原文漢字カタカナ混じり文を平仮名に直し,句読点を付加した。 これを筆者が更に読みやすく書き直した(とのことです)。

◆海軍沖縄特別根拠地隊司令官
大田実少将(自決後中将に昇進)海軍次官宛電文
昭和20年6月6日付け

「沖縄県民かく戦えり!」

「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを!」

沖縄県民の実情に関して、報告は本来県知事より報告すべき事だが、県には既に通信力はなく、第三十二軍指令部(牛島中将の最高司令部)も通信余力がない。
県知事の依頼を受けたわけではないが、沖縄の現状を見過ごすに忍びないので、私大田司令官が知事に代わってご緊急に報告する。
敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、県民を顧みる余裕は殆どなかった。
しかし、私の知る限り県民は青壮年の全てを防衛召集に捧げた。
残りの老幼婦女子は、相次ぐ砲爆撃で家屋と全財産を焼き出され、軍の作戦の邪魔にならない小防空壕に避難、しかも爆撃、風雨に晒される窮乏生活にあまんじた。
しかも若い婦人は率先して軍に協力し、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、斬り込み隊をを申し出る者すらあった。

所詮、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致され毒牙にかかってしまうと、親子生き別れになり娘を軍営門に捨てる親もいる。
看護婦に至っては、軍移動に際し、衛生兵は既に出発した後なのに、身寄りのない重傷者を助けて、その行動は真面目で一時の感情で動いているとは思われない。
更に軍の作戦大転換があり遠隔の住民地区が指定されると、輸送力がないのにもかかわらず、夜間、雨の中を自給自足しながら移動するものもいた。

要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫して物資節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦闘末期には沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。
食料は六月一杯を支えるだけしかないという。

沖縄県民はこのように戦った。
沖縄県民に対して後世になっても特別の配慮をお願いする。

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

昭和20(1945)年6月6日夜、沖縄の海軍陸戦隊司令官大田実少将は、
    海軍次官あてに次のように打電しました。 (文中の□□は、不明部分です。)

電報の誤植と思われる部分を訂正した電文を掲載します。(狼魔人日記ブログ主さん)

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ
通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県
知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ
之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シ
テハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県
民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲
爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支
ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノ□□ニ中風雨ニ曝サレツツ乏
シキ生活ニ甘ンジアリタリ而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦
烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ所詮敵来リ
ナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セ
ラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ
助ケテ□□真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ
指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ是ヲ要ス
ルニ陸海軍□□沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セ
ラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人ト
シテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ
本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン糧食六月一杯
ヲ支フルノミナリト謂フ沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
                          引用以上

 県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを。この電文を打たれて後、一週間後の十三日に自決されたのであった。
 
 その思いはどう伝わったのであろうか。

 当時十二歳の今上陛下はその電文を読まれるはずはなかったであろうが、皇太子になられた昭和五十年、沖縄海洋博ご臨席のため沖縄を始めてご訪問になられた。革新団体の反対運動が起こったおり、『石くらい投げられてもよい。そうしたことに恐れず、県民の中にはいっていきたい。』と心情をおのべになった。

初のご訪沖の折、『ひめゆりの塔』で火炎瓶事件が起こった。

「皇太子殿下は秘伝かと少し後に下がり、すぐさま御説明役の源ゆり子さん(元、ひめゆり部隊、ひめゆり同窓会長)の安否を確認されました。
 事件のために『ひめゆりの塔』の拝礼は続行できなくなり、両陛下は次の予定地に向かわれるためお車にお乗りになりました。ところが、殿下はすぐまた出てこられたのです。そして侍従を呼んで何かおっしゃっている。なにをおっしゃったかというと、源さんには気の毒なことになった。折角の説明が聞けなかったけれども、今日のところは難しいだろうから、後日また説明をしてもらいたいとおっしゃったというのです。私は全く驚いてしまいました。あのような突然のことに見舞われた直後とは思われない、全く泰然自若とした御態度でした」 (鈴木菊雄氏)

その後のご参拝も心底深いお気持ちがひしひし感じられるものであったと伺います。
 
(私はこの時、新聞の写真を見て、カメラマンはなぜに犯人から皇太子をお守りしないのか、写真撮影より大切だろうと、情けなく思ったのを思い出します。)

 陛下の沖縄に対するお気持ちは実に深いものがあります。この火炎瓶事件に対しても、『それをあるがままに受け取るべきだと思う』とお話になられたり、琉歌を独学で御学びになり鎮魂の歌を琉歌でお読みになったり、沖縄に対する記述をもっと教科書に載せられないかとご質問になったり、実にご熱心であられます。

 政府も、0歳児を戦死者として扱うなど、また、軍命令がなくても自決された方々に遺族年金を出したり、少ないが、できる限りの対応をしたといえまいか。

 広島、長崎の原爆や、空襲などによってなくなった被害者は、軍人軍属ならぬ一般市民は、何ら保障はないわけですから。
それに比べて。不十分であるには代わりはないですが。

 考えも及ばぬ悲惨な戦いに命を落とされた沖縄県民、軍人に心からの哀悼の意を表したい。







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Last updated  2008.06.07 01:05:58
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