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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2008.07.07
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カテゴリ:人物
北海道にお住まいになる出口吉孝先生はわたしが尊敬申し上げる憂国の士であります。先生が書かれた「源田実論」。ご存知の通り、源田サーカスで有名な零戦のり。戦後は国会議員としても活躍されました。しかし、出口先生の源田論。厳しき論であります。しかし、この国を振り返る意味で是非考証しなければならない人物。

 私個人は政治家として戦っていた源田氏に尊敬の念を持っていたのでしたが。
 特攻も、その精神の気高さに心洗われ、涙して遺書を読み、いかなる国のどの兵士よりも尊く高貴な存在であると確信していた。たとえ特攻がならずして、生を与えられたものも、その分において最善をつくし、国のために奉仕するのが、同志への誓いであったろうと思う。鶴田浩二しかり。

 当時、ご英霊が批判され「犬死」としてさげすまれるのに我慢がならなかったし、その世情を打破するために私ども学生の日々があった。身を捨てて日本とアジアの星となられた方々に絶大なる尊敬感謝の思いをいだきつつ。特攻は日本精神の結晶であると感じていた。

 大西瀧次郎の「特攻の英霊に申す。」の遺書があれば、それで特攻英霊は救われたと思った。裏切り卑怯未練なものがでようと一人の真実を見る目を持つ方に、陛下に、理解していただけるならばそれで兵士は満足であったろうと、今でも思う。

 たとえ無念の思いで死を賜った将兵の御霊も、大西瀧次郎一人の従容とした死の受け入れに涙をもって応えたのではなかったろうか。宇垣纏第五航空艦隊指令長官は自らを特攻の兵士として最後の特攻をなした。武士である。非常なる命令を出しておいて自分が生き延びるわけに行かぬと。一人特攻に出ようとするも部下十一機が列を成す。部下は命令違反とされてもついていくと主張して聞かぬ。玉音放送のときのこと。

 出口氏の論はこの感情を踏まえた上でしかもその上位に立ち、武人として国家の藩屏として立つべき人材の心構えを問う貴重なる論と判断し、掲載させて頂きました。

特別寄稿 国家の藩屏の頽廃  源田 実(前編)  出口 吉孝氏

大東亜戦争は日本海軍のハワイ真珠湾奇襲で始まったが、ハワイの米太平洋艦隊を壊滅させた帝国海軍空母部隊は、一人の航空参謀の影響力から、別名「源田艦隊」と言われた。末期の特攻作戦を含む日本海軍の海航空戦を今次大戦全期にわたって指導したその男の名、源田実である。
 源田は明治三十八年(一九〇四)広島生まれ。海軍兵学校を二三六名中十七番で卒業し、海軍中尉のとき航空に転科して戦闘機を専修する。アクロバット飛行を得意とし、「源田サーカス」とマスコミに報じられるほど飛行技術に秀でていた。昭和十二年海軍大学校を首席で卒業。瀬島と同様、恩賜の長剣を拝領し、将来を約束された源田は、緒戦のハワイ作戦の第一航空艦隊司令官南雲中将の下で作戦参謀を務める。同司令官が砲術出身であったため、作戦の実質的采配は源田が振るったという。大敗したミッドウエー海戦では実務上の責任者であったが、その五ヵ月後の昭和十七年十一月に大本営海軍軍令部の航空担当参謀に栄転、以後昭和二十年五月に松山三四三航空隊司令に転出するまで、大戦の全期にわたって海航空戦の作戦立案・指導に当たり、戦闘機出身ながら、攻撃兵力増強主義により大西瀧次郎らと戦闘機無用論を主張するなど帝国海軍の航空第一人者と目される。
 その実態は、昭和十九年十月台湾沖航空戦において戦果大虚報という隠蔽工作をなした海軍側の張本人である。源田は戦果確認のため実践部隊の司令・参謀を東京に招致して自ら聞き取りを行っており、虚報戦果を認識していたのだ。また断末魔に突入しつつあった昭和十九年以降は、航空担当参謀として、軍令部第二部長の黒島亀人と相計り、戦局挽回のための航空特攻戦術採用の推進に主導的役割を果たす。 

 戦争末期の昭和二十年、軍令部参謀の権限により松山に三四三航空隊を再編成し、自ら司令に就任する。制空権を敵に奪われた敗色濃い本土防空戦のため、源田の顔で集めた新鋭戦闘機「紫電改」と生き残った数少ない歴戦の古強者をもって戦った三四三空は、戦争末期の日本海軍最精鋭にして最強の戦闘機隊といわれた。源田は「百七十機の敵機を撃墜、我が方の搭乗員七四名戦死」と自著「海軍航空隊始末記戦闘編」(昭和三十七年、文芸春秋刊)で赫々たる成果を自慢しているが、それも疑わしい数字であった。生出寿著「航空作戦参謀源田実」(徳間書店)に《昭和二十年に第三航空艦隊参謀であった角田求士中佐(兵学校五十五期)はあるとき松山基地に行き戦果を確かめるために、搭乗員たちに質問した。しかし明らかな証拠を説明するものは少なく、「撃墜数は信用できない」と思ったという》とある通り、当時は確かめる方法がなかったし、公の発表と実数との乖離は戦場の常ではあるが、真相は戦後五十八年を経過して判明した。平成五年、日系三世のヘンリー境田著『源田の剣第三四三海軍航空隊・米軍が見た「紫電改」戦闘機隊』という六百頁になる大著が出版され、米軍記録が明らかにされたのだ。日本側搭乗員戦死八八名,殉職二一名。対三四三空の戦闘による米軍喪失はわずか三十八機であった。

 源田実は戦死を逃れ、また自決することもなく、昭和二十九年、創隊間もない自衛隊に旧軍大佐枠の一人として入隊し、航空幕僚長、空将まで出世する。その厚顔無恥ぶりは陸の瀬島龍三と双璧をなすが、特に航空特攻戦術採用の実質的創始者であるにもかかわらず、その件に関しては言を左右にしたり無関心を装ったりと、おぞましいことこの上ない。自衛隊退官後は参議院議員を四期務め、自民党国防部会で自衛隊次期戦闘機(ロッキード)決定に深く関与した。
 戦後日本の復興とは、瀬島や源田をはじめとする破廉恥な輩が深くかかわり、また多くの日本人がそれに無自覚なままに築いたものであった。

特攻生みの親にされた大西滝次郎
 今次大戦の特徴の一つは昭和十九年秋以降の戦局悪化に伴い、世界戦史上類例無比の十死零生の体当たりを、帝国陸海軍ともに常用戦術として採用したことである。その始まりは、昭和十九年十月の比島決戦、捷号作戦のレイテ攻防戦で、第一航空艦隊長官・大西滝次郎中将が、関行男大尉以下二十五名を「神風特別攻撃隊」として「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と命名し、大和隊に突撃を命じた十月二十一日とされている。そのことから大西中将が特攻の生みの親とされてきたが、これもまた事実の捏造によるものなのだ。

 この稿では、戦後社会の表舞台で跳んだり跳ねたりしても特攻のかかわりには一切口を拭っていた源田の醜悪な姿を、戦中戦後の事実をもって明らかにする。

 大西中将に特攻の責任を押し付けるのに一役買った著作が占領末期の昭和二十六年に出版された。中島正・猪口力平著「神風特別攻撃隊」(日本出版協同)である。占領下で特攻の記録物が珍しいこともあり、当時は力作と評価が高かった。筆者も小学六年生当時,何日もかけて熟読し、神風特攻の真相かくなりしかと感激した記憶がある。

 しかし、源田のお茶坊主と言われ、戦後は源田の部下として自衛隊に勤務した元中佐の中島が執筆したこの本は、軍令部部長・中沢佑(たすく)中将や源田を含む軍令部の責任を回避するために歴史的事実を改竄した、悪質なものであった。戦争末期といえども帝国海軍の戦史に関わることと登場人物の多さから言って、これら事実の改竄は、海軍軍令部及び海軍省の幹部たちによる共同謀議と疑わざるを得ない。

 中島はまず、《ここに、特別攻撃隊の指導者側として神風特攻隊の創始者大西中将の先任参謀であった猪口と、また特別攻撃の実施者側として最初の特別攻撃隊を編制した航空隊の飛行長であった中島が、資料の散逸喪失しないうちにと、とりあえずその代弁に務め、まず史実の編修を試みたものである》と、大西が特攻の創始者であることを強調する。

 捷号作戦において比島航空戦の指揮を取るために第一航空艦隊長官に任命された大西中将は、十月十七日空路マニラに着任。翌日傘下の二〇一航空隊本部に幹部を招集した。

《長官は皆の顔をずっと一わたり睨むように見わたしていたが、おもむろに口を切った。「一航艦としては、是非とも栗田部隊のレイテ突入を成功させねばならぬが、そのためには敵機動部隊を叩いて、空母の甲板を使えないようにする必要があると思う。(中略)それには、零戦に二五〇キロの爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが…、どんなものだろう。」玉井副長(著者注 戦後仏教に帰依、出家して特攻の供養に努めた)の胸には、その瞬間ピーンと響くものがあった。「これだ!」そう思ったそうである。(中略)居並ぶ我々は、玉井中佐を凝視しながら、むしろこの攻撃を自身実行するものとして、或る感動に浸っていたのである。》

 ピーンと響いたという玉井、攻撃を自分自身実行すると感動に浸った中島も含めて、この会議に参画した幹部に特攻で戦死した者なし。

 《そこで私は玉井副長に「これは特別なことだから、隊に名前をつけて貰おうじゃないか!」と二人で考えた。その時ふと思いついて「神風隊というのはどうだろう?」と言った。すると玉井副長は言下に「それはいい、これで神風を起こさなければならんなあ!」と賛成した》
 体当たり攻撃という非常の戦術が比島決戦の切羽詰った状況の中、現地のやむを得ない選択として大西中将が発案したとして、その作戦を彼らが現地で「神風」と命名したと言うのだ。ここでも虚偽がでっち上げられた。事実は生出寿著「花形参謀源田実」(平成二年徳間書店刊)及び公刊戦史叢書「大東亜戦争海軍捷号作戦(二)」に詳しい。

 源田は昭和十九年十月十三日、台湾沖航空戦の二日前に、次の電報を起案した。「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊など)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」。この電報は敷島隊が戦果を挙げた翌日の十月二十六日、軍令部第一部長・中沢少将から、比島の第一航空艦隊長官・大西中将宛に発信された。

 大西中将は十月九日に東京を発ったが、台湾沖航空戦の為台湾で足止めされ、比島に着いたのは十七日である。この電報は大西の移動中に起案され、敷島隊成功を確認の上で発信されたものだ。つまり航空特攻は、大西が比島に出発する以前に、海軍の最高方針として、「神風」という名前とともに決定していたのである。

 海軍の特攻兵器の中でも、人間魚雷「回天」とロケット滑空人間爆弾「桜花」は、破壊力及びその非情性において、双璧であった。桜花は、兵隊上がりの古参偵察搭乗員である大田正一少尉(終戦時中尉)が考案したもので秘匿名「○」も考案者の大田の一字を取ったといわれている。一介の少尉が多忙を極める海軍航空技術廠にポンチ絵程度の図面を付けて持ち込んだ構想をもとに、わずか二ヶ月後の昭和十九年八月には軍令部から航空本部に試作命令が出され、続いて半月後には量産命令が出されるという素早い進捗からも、特攻兵器の開発採用に軍令部の積極的意志があり、特にロケット滑空機は、航空の第一人者を自認する軍令部航空主務参謀・源田実の強力な支持があったと考えられる。

 (前編終わり)

 





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Last updated  2008.07.07 16:55:44
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