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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2008.07.07
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カテゴリ:人物
試作命令から二ヶ月後の昭和十九年十月一日、桜花専門部隊である第七二一航空隊が、岡本基春大佐を司令として百里浜基地で編制された。比島で大西長官が神風特別攻撃隊を編制する二十日前であった。七二一航空隊のような新部隊の編成は天皇の裁可を必要とする天皇大権に属する軍令事項である以上、体当たり攻撃が軍令部総長以下、海軍中央の組織としての決定であったことを示している。つまり特攻の本当の生みの親は大西瀧次郎ではなく、黒島、源田をはじめとする軍令部であり、特攻出撃することのない、海軍省に住み着く城狐社鼠どもであったのだ。

 桜花の考案者である大田正一の消息について奇怪な話がある。大田は終戦三日後の八月十八日、茨城県神ノ池基地より突如、整備済みだった連絡用の零式艦上戦闘機に飛び乗り鹿島灘沖合に飛び立って行方不明となり、訓練中の公務死として処理され、戸籍からも抹消された。遺書もあったことなので、桜花開発の責任を感じての突入自爆だと誰もが信じた。しかし大田は死に切れず、漁船の近くに不時着水して救助され、仮名で無国籍のまま結婚して子どもをもうけたことが明らかになったのだ。

《大田は松島あたりに不時着水して部隊解放後の神ノ池基地に現れたこと、戸籍がないまま偽名の生活を始めたこと、かつての戦友から寸借を重ねたこと、生きていながらの遺族手当受給は違法だと指摘されて姿を消したこと(中略)太田の足取りを追って久しい歴史学者の秦郁彦氏に教示を仰いだ。(中略)前年(平成六年)の十二月八日、開戦と同じ日にがんで死去したと言う。何時ごろか無籍のまま家庭を持ったが、最後の最後まで、桜花の発明を悔やんでいたと言う。発明が採用になった裏の経緯については一切明かさずに死去したらしい。》(内藤初穂著『桜花』中央文庫)
享年八十二歳。天寿をこれまた全うせり。
 桜花の唯一の実戦部隊七二一空の司令・岡本大佐は終戦から三年経過した昭和二十三年七月十三日、盆の初日に鉄道自殺で命を絶つ。死の理由は遺書がないので不明だが、戦犯容疑をかけられていたと言う話もある。同様に、なぜここまでして大田が身を隠そうとしたのかについて、生出寿氏は『一筆啓上 瀬島中佐殿』(徳間文庫)で、太田正一と源田実の関係を指摘して厳しく批判している。

《なぜ身を隠したのか、「戦争犯罪には時効がない」ことを源田実大佐から聞かされ脅されていたとしか考えられない。源田は特攻決定のキーマンであったにもかかわらず、居留守、約束不履行などあらゆる術策を弄して誰の取材からも逃げおおせた。大西瀧次郎中将が終戦時に切腹し果てたのを奇貨として特攻創始者の責任を兄貴分の大西に負わせ、沈黙によって自分を安全圏に置いた。だが大田がしゃべったら全貌が明らかになる。》

 日本を占領した連合国軍総司令部は、全土隅々まで本格的に戦犯摘発に乗り出したが、各級戦犯裁判の訴追に「人道に対する罪」という罪状が使われた。回天桜花は非人道的兵器と言う認識で、それを推進・採用した軍令部幕僚は戦犯訴追を恐れたのである。その当時の事情を、自らも陸軍少年飛行兵として特攻基地に配属された作家の神坂次郎が、『特攻隊員たちの鎮魂歌」(PHP研究所)で説明している。

《敗戦以来、元飛行兵のひとりとしてひたすら蒐め続けてきた資料だが、特攻の人々の遺書、写真と言うものは、きわめて少ない。原因は、敗戦直後、特攻基地周辺に流れたデマである。
「アメリカを苦しめた特攻隊員とかかわりがあったものは皆処断される」

 そんな風説が渦巻き、その一種の恐慌状態のなかで隊員たちが託し、残していった遺書の多くが焼却されてしまったのである。今残されている遺品は、その混乱と黒津波のように上陸した進駐軍やGHQの恐怖の中で遺族や隊員を愛惜する人々が密かに匿し、肌で暖めるように抱き続けてきた貴重な記録である》 
 大西中将が「統率の外道」と嘆いた特攻戦術を、陸海軍の常用戦術として敗戦のその日まで戦法に採用せざるを得なくなったのは、破断界に瀕した戦局にあった。しかし緒戦の半年は破竹の勢いであった帝国海軍が、ミッドウエーに始まる作戦の失敗の連続から断末魔に追い詰められたのは、果たして軍事力の強大な差だけであったのか。
否、帷幄の臣、国家の藩屏たるべき統帥部軍事官僚の犯罪的懈怠という人禍が、日米軍事力の差以上の敗北を招いたのである。
 自らの責任で作り出した戦局悪化打開のために、特攻に出る事のない軍令部の参謀が考えついた戦術が、特攻であった。この許しがたい悖徳性を自覚しているが故に、源田実らはその発案の責任を大西中将に押し付け、あるいは「至誠尽忠の青年将校の発起」などと国民の目を晦まして来たのだ。
 かくして昭和十九年十月の捷号作戦から昭和二十年八月十五日の終戦まで特攻作戦は続けられ、歴名の日まで耐えたる春秋に富む特攻隊員=前途有為なる、至誠純忠なる青少年四千名、空に海に千早ぶる鬼神と化して散華せり。
 軍令部第一部長だった中沢佑元中将は、戦後三十二年目の昭和五十二年七月、水交会で講演した。そのとき妹尾作太男氏(海兵七十四期、防衛庁幹部学校研究部員)が、海軍中央が海軍戦術として体当たり攻撃を公式に採用していった経緯を質問したが、口を濁すばかりで答えようとしなかった。その妹尾氏が訳したデニス・ウォーナー著「ドキュメント神風」(昭和五十七年、時事通信社刊)の「訳者あとがき」より引用

《いかに大西提督が海軍航空隊の元締的人物であったにせよ、あれだけの大組織の海軍に於いて、彼一人の考えから、前例のない航空特攻作戦の採用に踏み切れるものでない。必ずや海軍中央部からの指示なり、慫慂があったに相違ないことは、その経緯を少し仔細にたどってみれば、容易に察せられるところである。
 大西提督は前線の部隊指揮官として、彼自身が「これは統率の外道だ」と嘆いたものを実施せざるを得ない立場に立たされ、血涙の思いで愛する部下を〈十死零生〉の特攻に送り出した。戦い敗れるや、彼は一言の弁明もせず、責任を取って割腹、介錯を断り、まる半日苦悶のすえ、息を引き取り散華した部下の後を追った》
 大西中将は「特攻隊の英霊に日す。善く戦ひたり。深謝巣」で書き出す遺書を残して自決した。特攻の実施について「わが声価は、棺を覆って定まらず、百年の後、知己またなからん」と海軍の批判を一身に引き受けて死んだ。
 生き残った源田実について生出氏は、前掲書でさらに手厳しい批判をしている。
 《(特攻慰霊祭に参加したのは)源田実が数回、それも参議院議員のときだけ〈昭和六十一年六月退陣〉。その後は一度も参加していない。選挙目当てと判る行動と言わざるを得ない。(中略)源田の腰巾着だった中島正はフィリピン出特攻運用のオーソリティになり、(中略)神雷部隊でも昭和二十年四月初めから主任として(中略)作戦指導をしたが、慰霊祭に一度も参加したことがないだけでなく、金銭も出さなかった》
 支那事変から海軍の戦闘機搭乗員として今時大戦の全期間を第一戦で戦い、特攻隊員にも命じられたが、奇跡的に生き残った角田和男元中尉は、上官だった中島についてこう記している。
《ちょうどそこへ、始めて見る大尉が難しい顔をして前にたった。「飛行長、いくら何でも桟橋にぶつかるのは残念です。空船でもよいですから、せめて輸送船に目標を変更してください」と頼んでいる。傍らで聞いていると、この人の隊は、今日薄昏タクロバン{筆者注、レイテ島の米軍物資揚陸地}の桟橋に体当たりを命ぜられたらしかった。間髪を入れず中島飛行長の怒声が飛んだ「文句を言うんじゃない。特攻の目的は成果にあるんじゃない。死ぬことにあるんだ」睨みつけられた大尉はしおしおと帰っていった。》(「修羅の翼」平成元年、今日の話題者刊)
大西長官から特攻の話を始めて聞かされたとき「自分自身出撃する感動に浸」り、「特攻の目的は死ぬことに有り」と部下に怒声を発して追い返した中島は、源田の悪行の隠蔽の論功か、戦後自衛隊に入隊して第一航空団司令(浜松)空将補(旧軍の少将相当)まで昇りつめ、悠々自適の老後を送る。
 軍令部第一部長の組織上の責任者であった中沢佑少将は、海軍省廃止の昭和二十年十一月一日、部下の反対を押し切り、海軍中将に進級退官する。先人に悲鳴に倒れるもの三百余万人、国家を破滅に陥れた大本営の将官が、お手盛りで進級したのだ。この人倫に悖る人間が国家の藩屏として君臨していたのが、残念ながら偽らざる日本の姿であった。
 海軍兵学校出で、源田実の自衛隊時代の部下である妹尾作太男氏は、生出寿著「源田実」の解説で源田を厳しく批判した。
 《源田が航空幕僚長として時期主力戦闘機を、グラマン、ロッキードの二種のうちから選定しなければならなくなった時、彼は「もしそれロッキードを採用するならば、航空自衛隊は平時にして壊滅するであろう(したがってグラマンを採用すべきである)」と、国防会議において堂々所信を表明していた。
 にもかかわらず、しばらくすると、平然としてロッキードを採用した、源田の変節と無責任ぶりには、筆者も当時、防衛庁に勤務していたので、ただただ唖然とするばかりであった》
 源田はあの田中角栄のロッキード事件に深くかかわっていたのである。さらに生出寿著「淵田美津雄中佐の生涯」(徳間書店)より引用する。
《昭和四十三年七月七日に第八回参議院議員選挙があった。元海軍大佐、空将、航空幕僚長の源田実は、昭和三十七年(一九六二)七月一日の参議院全国区に、自民党公認で立候補して初当選し、再び立候補していた。昭和三十四年、空幕長の源田実は、時期戦闘機を選定する第三次調査団の団長として渡米し、既に内定していたグラマンF一一Fを捨て、ロッキードF一〇四Cを次期戦闘機とすべきであると結論を出した。
 国防会議はそれを理由にして、ロッキードF一〇四Cを次期戦闘機に決定した。減だがグラマンをやめロッキードにしたことについて、旧海軍航空隊の後輩角田求士中佐(源田の三期下の兵学校五十五期)は源田に質問した。「グラマンをやめてロッキードにした理由はどういうことですか」「理由など別にないよ」源田はそっけなく答えた。
 より多い政治献金を必要とする自民党の実力者たちの指示に従ったということらしかった。それによって自民党の公認と資金援助を受け、昭和三十七年の参議院選に立候補した様である。
 源田が四回めに七五歳十ヵ月で立候補した昭和五十五年(一九八〇)六月二十二日、参議院選のとき、高年齢と人気低下などのため、第一次公認をはずされた。よほど腹に据えかねたのであろう、事務所の中で、「公認しないなら、グラマン・ロッキードのウラをバラしてやるぞ」といきまいた。
 応援に来ていた兵学校七十八期の大岡次郎は「やはりグラマン・ロッキード事件には裏取引があったのか」と思った》
 そして源田は自民党の第二次公認を受け参議院四期目の当選を果たす。
 まさに万卒の白骨の上に君臨し、その遺族のなみだを尻目にして、一身の栄達を計り、今生において虚偽と悖徳の限りを尽くした源田実は、平成元年、八月十五日の終戦記念日に八十五歳で死す。実に終戦から四十四年であった。
 かくなるうえは地獄の獄卒、牛頭馬頭に成敗を託さん。
 
山口吉孝氏 一九四〇年樺太庁豊原生まれ。法政大学卒。第一一戦車大隊士魂協力会会長。札幌発言者塾幹事、(株)ノルデンケミカル顧問。。著書に「北海道よ」(北海道新聞社刊)など。






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Last updated  2008.07.07 17:04:38
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