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2012年05月10日
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カテゴリ:旅日記(中国)
<4日目> '11/9/20(火)くもり

2日目、3日目とありがたい事に天気予報は外れて
日中は晴れ間も出てた。
昨日の夜は雨が降ったけど、今朝は雨は上がった。

けど、どんより蒸し暑い。
4日目ともなると、さすがに疲れも出てきて、
昼の新幹線の時間まで宿でまったりしていたいけど、
怠け心にムチ打って、宿に荷物を預けて外へ出た。

あまりゆっくりしてる時間もないけど、
行けるところまで頑張ろう。



駅を通過する時、台風の影響で電車が遅れてるとアナウンスが入ってた。
昨日とかも、四国の方では電車が止まってるとか何度も言ってたな~。


まずは岡山駅前から路面電車に乗って、1駅。
降りたのは、西川緑道公園駅。
疲れてたから、なるべく歩きたくなかったんだよ・・・(笑)


           岡山・西川緑道

これが西川用水。
今の用水自体は昭和に入ってから、全長16kmに及ぶ農業用水として
整えられたものだが、古くから流れていたものらしく、
平安時代には灌漑だったと推定されており、江戸時代には水堀の役目を果たしていた。

岡山城の堀の中で最も西に位置する二十日堀よりさらに西に位置するため、
一般的に紹介される岡山城域よりももう一つ、
天然の堀を外側に抱えていたことになる。

二十日堀は、小早川秀秋がその名の通り20日で築いたとされる堀。
今は埋め立てられて堀はもうないが、現在の柳川筋がこれにあたる。

金吾(小早川秀秋)の墓もこの岡山市内にあるんだけど、
行くかどうかは、まあ時間によりけりかな。


ここから歩いて少ししたところが、今日最初のお目当てで~す。
その手前に、こんな民家があった。

          岡山・西川緑道付近のおうち

向唐破風ふう民家(笑)。
面白すきる泣き笑い
嫌いじゃないよ、こーゆーの。

その先が光珍寺(場所はこちら)。


          岡山・光珍寺


外観はこんなだけど、ちゃんとしたお寺です。
屋上に寺っぽいのが載ってるでしょ?
このお寺は、こーゆー↓お寺なんです。

          
       岡山・光珍寺2
   

とゆー訳で、朝から墓参りです。
あまりここの詳しい訪問記を書いてる人はいなくて、
ある人は中にある内線を使って事務局へ行ったとか何とか言っておられた。

ので、そのつもりで中へ入ってみたら、入ってすぐのところに
こう書いてあった。

        岡山・光珍寺3

あ・・・直接行っていいんだ。
たぶん、近年の戦国ブームでここを訪れる人が増えたんだろうな。
じゃあ、遠慮なくエレベーターで3階へ。


3階で降りると、ホールの真ん中には本堂スペースがあって、
その脇に宇喜多コーナーがあった。

        岡山・光珍寺4


畳敷きか・・・
山靴を脱がなきゃならんな。

近寄ってみると、想像とは少し・・・いえ、だいぶ違った光景が広がっていた。

        岡山・光珍寺12

 
ちょっとちょっと~!!
気になるものが山ほどあるけど、まずは、なおくんのお参りを・・・

         岡山・光珍寺7

こちらが宇喜多直家公のお位牌です。
左奥のは、たぶん興家のじゃないかと思うんだけど・・・


光珍寺に置いてあった資料には、色々書いてあるんだけど、
長すぎて全文は引用できない雫

ひとまず、光珍寺の縁起について要訳すると、

 『奈良時代・天平年間(749)に創建された備前48ヶ寺の第二寺。
  昔は岡山寺といって、現在の岡山城が建つ岡山にあった。その地を柴津岡山と
  いっていたので岡山寺と名付けた。

  寛弘年中(1004~1013)、恵心僧都(えしんそうず。「往生要集」の編者)が
  この地にやってきた時、しばらく岡山寺に滞在して本佛の首を中に入れ込んだ
  弥陀尊と観世音勢至の像を作り、天台宗に改めた。

  「吉備津之神宮、藤井久任、柴津国の弥陀堂の前に来たりて、火定に入し」
  「元享釈書」第17巻に記されているのは、当寺のことである。

  天正の初め、宇喜多和泉守直家が岡山に城を築くことになったので、岡山寺は
  初め古京町のあたりへ、さらに中山下へ移され、直家の父・興家の位牌所となった。
  その際、興家の戒名「露月光珍居士」から岡山寺の名を光珍寺に改めた。

  直家が小身の頃から、秀家との2代にわたって様々な庇護を受けたが、関ヶ原で
  宇喜多家が改易された後、小早川秀秋が入国するにあたって、秀秋は
  宇喜多家ゆかりの事などを嫌ったので、元の「岡山寺」に改称したいと
  申し出たところ、秀秋から池田光政の代に至るまでは、書状にも「岡山寺」と
  書いてくれた。

  しかし、「光珍寺」の呼称が人口に膾炙していたため、慶長5年には光珍寺・岡山寺
  両方の寺号を名乗るように仰せつけられた。

  本堂は昔は大きかったが、230年の間に3度移転し、本来大きな阿弥陀堂を
  小さく造るのには不都合があり、元禄年中からは客殿に本尊を置き、本堂に愛染を
  置いた。
  弥陀三尊は恵心僧都の作、愛染明王は弘法大師の作である。』


こんな感じになるのかな~。
『』内の2行目からは、寛政年間(1789~1801)に編纂された
「吉備温古秘録巻之三十 佛刹四 縁起光珍寺略縁起」からの引用を大ざっぱに
訳したものなので、ちょっと違ってるところもあるかもしれませんが雫  


毎日私の長いブログを読んで下さっている方でも、
長すぎてもはや誰も覚えてないと思うけど(笑)、
上の文中にある藤井久任さんは「撫川城(1)」で一度出演してるんですよ。

あちこちで色んな人が顔を出すから、パズルみたいで面白いね音符

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最終更新日  2012年05月10日 21時32分05秒
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