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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月05日
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カテゴリ:城(中国)
音符どんな時も~、どんな時も~、
僕が僕らしくある~ために~、
好きなものは好きと~、言える気持ち
抱きしめてたい~
音符音符
(ば~いマッキー)

言い訳も前回済ませたし、
私らしくマイペースに行きま~す。



前回の6月27日の攻防に間に合ったかはわからないものの、
弘中隆兼が東西条の拠点・槌山城に入ったのは天文12年の7月と
『大内氏実録』は伝える。

小早川領に回せるほど東西条に兵が詰めてなかったかもな。
月山富田城からはとにかく帰るのに精一杯だったろうし。

あ、前回、大内義隆が山口に帰還したのが6月25日と書きましたが、
わたくしの読み違いでした。
5月25日が正しい日付なので、お詫びして訂正いたしますm(_ _)m

大内家ではそこから10日前後くらいで態勢立て直しの協議をしたものと思われます。
対応には急を要したので、近くにいる毛利家にとりあえずの救援を
依頼したかもしれない。

頭崎城攻めのピーク時には最高責任者が杉隆宣に代わる場面もあったようだけど、
義隆の代ではおおむね弘中君が東西条およびその周辺を
取り仕切っていたと思われる。

軍事面では、「東西条バトル編(10)」でも少し書いたように、
大内教弘の代あたりから陶家がちょいちょい芸備に顔を出す。



前回紹介した大内家から元就あての書状は、
天文12年(1543)7月9日付けで出されたもの。
だから、7月上旬には安芸戦線の補強が整ったといえるのかな。

ちなみに書状は大内家重臣の連名によるもので、
差出人は弘中君、青景隆著(あおかげ・たかあきら)、陶隆満の3名。

青景隆著は長門の国人で、青景城(山口県美祢市)城主の一族。
庶家の出らしいが本家をもしのぐほどだったという。
「大内殿有名衆」の中では国衆として記載がある。
この時期からしばらくの間、備後戦線を任される。

陶隆満は、陶氏の一族に間違いはないんだけど、
陶氏の系図は宗家の分しかはっきりしたことはわからない。
ので、隆房とどういう関係かは不明。
でも、「大内殿有名衆」の中では小座敷衆として名前があり、
大内義隆の次代では奉行人にまでなる。

陶隆満も青景隆著とともにこの後の備後戦線の感状などに多く顔を出すので、
同じく備後戦線を任されたものと思われる。


で、同じ7月に大内・毛利軍が神辺城を攻めたともいうんだけど、
これホントかなあ・・・

ただ、『新裁軍記』には「この時大内家の旧約を変せざるは毛利家ばかりなり、
元就公御智略をもって備後・安芸の国人次第に大内方に引き成され」とある。

「毛利家ばかりなり」はさすがにオーバーだと思うけど泣き笑い
それ以前からタッグを組んで安芸を任されていた弘中君とともに、
元就が地道に勢力の回復を図っていったのだろう。
ただし、山名理興はなびかなかったけど。


天文12年のものと思われる10月18日付け毛利隆元(元就の子)の書状からは、
備後の国人・高須氏と「気をつけようね」って連絡を取り合ってる様子が
うかがわれる。
この時、隆元は

「石見に行っちゃってたから、
会えなくてごめんねしょんぼり


って言ってるので、芸備のみならず石見方面へも
精力的にパトロールやら引き抜きやらに出向いてたのかもしれない。
あるいは、月山富田城の戦い後、尼子方では石見銀山の奪回をはじめ
まず石見あたりから回復を図ったようだから、
応援に行ってたのかもな。


11月23日には、義隆から伊予の国人へ

「尼子晴久が芸備へ来るってウワサがあるんだけど!
ぜ~ったいに油断しないでね!!」


てな書状を出しているので、当然芸備の国人衆へも同じ書状がいってるだろうし、
当時の緊迫した様子が伝わってくる気がしませんか?
(雰囲気を出したいなら、義隆にオネエ言葉を使わせるなって?うっしっし



ここまでの間に、尼子方では石見だけでなく、備後の城も落としていた。
翌天文13年(1544)の3月には弘中君が備後へ出陣し、
元就も備後田総で尼子方と戦ったという。


尼子晴久が本気出してきたのが、天文13年の7月。
新宮党の尼子国久・誠久(さねひさ)親子を総大将に遠征軍として派遣し、
尼子軍は三吉氏の比叡尾(ひえび)山城(現・三次市)へ迫った。

この遠征は、何かと目ざわりな元就を今度こそつぶしちゃおうと
晴久が吉田郡山城攻めを企画したものともいわれる。

毛利家では三吉氏に応援部隊を出したものの、ちょっと派手に負けてしまった。
が、三吉さんちが頑張ったので尼子軍は撤退。
これを機に毛利さんと三吉さんは親密度を増したので、
途中経過はどうであれ、何事も結果オーライグッド
毛利さんちには嬉しいオマケがついてきた。


まあ、こうした過程を見てると、別に元就はボランティアや
親切心で周囲を助けたりした訳じゃないし、
ただの点数稼ぎで大内方へのスカウトをしてた訳でもないんだけど、
大永年間の後半やこの天文12~13年に多くの国人が元就になびいたということは、
やっぱり侠気はあるし力も持ってるし、それになにより
元就個人に人を引き付けるだけの魅力があったんだろうなと
つくづく思う。



『本郷町史』では、同じ天文13年に高山城が尼子軍の攻撃を受けたとある。
これ、「尼子経久父子」が出張ってきたとあるんだけど、
明らかに間違いだよな・・・
(経久は天文10年に死んでます泣き笑い

『陰徳太平記』の方では、天文13年10月初旬に
尼子新宮党が高山城を攻めたとしている。
ここではまず近隣に放火し、ついで小早川本城である高山城攻めに入る。

が、小早川庶家の乃美・椋梨・梨羽・小泉らが幼い当主・又鶴丸を守って撃退。
この様子を見た配下から、

「この城は3日や5日じゃ落ちませんよ。
10日もたてば、元就が後詰めにやって来るでしょう。
したら、どーすんの?」


と説教され、やむなく引き上げた、と。
ただし、これを裏付ける書状などは手持ちの史料では見つけられなかった。




さ~て、天文13年はちょっと重要なイベントがありました。

サブタイトルにもあるように、この年、元就の3男・徳寿丸が
小早川氏の有力庶家・竹原小早川家を継いだのです。
いや~、おめでとうおめでとうお誕生日

徳寿丸の竹原家相続については、竹原のところで書こうと思ってましたが、
関係者が神辺城と関わりがあるし、よくわからないこともあるので、
一旦ここでまとめておくのも無駄にはならないと思ったのでね。

まずは竹原家相続の一般的な説から。


  天文10年(1541)3月4日からの佐東銀山城攻めの陣中において、
  竹原家当主・小早川興景が病没。

  後継ぎのいなかった竹原家は毛利家へ、元就の3男・徳寿丸を養子にする
  申し入れをした。元就ははじめ難色を示したようであるが、主君・大内義隆の
  強い勧めもあり、徳寿丸は天文13年に竹原家の本城・木村城へ入城した。

  徳寿丸が選ばれたのは、興景の妻は元就の姪であったため、その縁を頼ったとも
  興景の妻が一役買ったからだともいう。



え~、どんどん神辺城から遠ざかっていきますが(笑)、
細かいことは気にしないでくだされぱー  

ここでポイントになるのは、興景の妻で元就の姪という女性です。
「竹原にし殿様」、この名前を覚えてますか?
忘れた方は、「新高山城(21)」をご覧くださいね。

竹原にし殿様と興景の妻がイコールだということは、確定した訳じゃない。
違うだろうという人もいる。

が、遠足イベント(「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」)の3/29の
内容を見る限り、一般に知られている人の中では彼女以外には考えにくい。

3/29のレディースデーに同席していた「東殿様」も確定はしていないものの、
沼田の姫(隆景の妻)の実母だろうという見方は変わってない。
あるいは、竹原を「西殿様」と呼んだことに対して、
沼田家当主、またはファーストレディーを「東殿様」と呼んだのかもしれないし。
ま、実際には永禄4年3月29日の時点では、沼田の姫が小早川家で
最高の女性だったんだけど。

ただ、興景の妻はこの時竹原家を出て再婚していただろうと思うので、
そういう人をわざわざ「竹原にし殿様」と呼ぶか?って疑問はあるけど。
ひとまずここでも興景の妻=竹原にし殿として話を進めますのでご了承ください。


高山城シリーズを一通り書き終えた頃、私の尊敬するトロロヅキさんから
「家格の点から見ると、自分の姪を名家である小早川家に嫁がせた元就は
頑張ったんですね」という内容のコメントを頂いた。

小早川氏が沼田に移って以降の、中央とのつながりなども含め
小早川氏が活躍していた様子をあれこれ書いてきたにも関わらず、
家格の釣り合いとかそんなところまで考えなかった私は、
いただいたコメントを見て

「ああ、そうか。なるほどな~」

と思った。

で、竹原にし殿が嫁いできた頃の竹原家の状況を少し考えてみました。
が、文字数の関係もありますので、今宵はここまでに致しとうございます・・・


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最終更新日  2013年09月05日 23時49分20秒
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