武将と僧侶のアルコール耐性・後編<東西条編・番外>
8月22日 加賀梅の小袖を拝領。夜、太守(大内義隆)が凌雲寺・大宮官務・ 沢善太郎・杉彦九郎など数名の供を連れて私の滞在先においでになった。 私は太守の長寿を願って盃を捧げ、夜明けに鶏の声を聞くまで 宴会が続けられた。「山口市史」に収められてるところでは、前回、8月18日に佐東銀山城に到着してから22日までの間の記述が抜けてますが、実際は佐東に着いた翌日の19日、策彦は義隆および御曹司・晴持に謁見して今回の遣明船から復命したことを無事報告したようです。晴持この時17歳。一連の安芸遠征の戦いでは、私が知る限りでは晴持が指揮を取ったとかって記述は見たことないので、義隆と行動を共にしていたものと思われます。厳島外宮での流鏑馬は見たらしいんだけど。お供の「大宮官務」は小槻伊治(おつき・これはる)と思われます。大宮家は朝廷で官務(太政官や宮中の庶務を取り仕切る)を歴任した家柄で、大宮家の出身である伊治さんは、一族内であれこれモメ事があったあげく義隆を頼って山口へやって来た人です。伊治さんの娘・おさいの方は義隆の寵愛を受け、晴持の死後に義隆の子を儲けますが、元は義隆が京から迎えた公家の娘である正室に仕えていた女性だといわれるので、伊治さんが頼ったのは義隆というよりも、娘だったかもしれません。ただ、ウィキペディアでは伊治さんが山口に下向したのは天文15年となっているので、今回の話の天文10年にはまだ山口には来てなかった可能性もあるけど、一時的に合流したのかもしれないし、私の手持ちの資料では天文15年春には確かに伊治さんが山口にいたことは解ってるけど、「天文15年に下向す」といった記述は見つけられないので、天文15年下向説が正しいのかはわからない。義隆が正室・貞子を迎えたのが17歳頃。すでに人生の半分は貞子と夫婦として過ごしており、おさいの方ともそれなりに長いつき合いとなっていたかもしれない。こうしたことから、おさいの方の縁で前々から義隆と伊治さんの交流があった可能性は十分にある。てか、「大宮官務」って呼ばれる人ってフツー何人もいないはずだから。で、義隆とともに朝まで酒宴・・・義隆の健康を願ってとあるものの、はっきり「盃を捧げ」とあるので、間違いなく策彦も飲んでます。もうおわかりでしょうが、今回のタイトルの「武将」は義隆、「僧侶」は策彦のことです。そしてここから酒バナ(酒の話)も佳境に入っていきます。8月24日 保寿寺とともに太守のもとを訪れる。翌朝には太守は西条へ赴くとの ことだったが、夜を徹して宴会。空が白んでからお開きとなった。8月28日 陶隆満に招かれ、将棋(あるいは碁)を打つ。午後、風呂を頂いてから 点心。夜まで酒宴。杉宗長も一緒だった。9月9日 保寿寺がやってきて、酒を出す。午後、小槻伊治が保寿寺に会いに来て、 酒宴。冷泉隆豊・西院も同席。相良新右衛門の吹く尺八にあわせて 小歌を歌う。9月11日 夕方頃、西条から太守が帰還。義隆に会ってから、中1日おいて徹夜の酒宴・・・しかも、2度目の時は義隆が翌日に西条まで行くのがわかってるのに、朝まで飲むって寝てねーだろ、義隆!!いんや、馬上で居眠りこいてたかもしれん・・・で、ここで義隆が東西条へ行ったことがわかる訳です。鏡山城はこの時、もう東西条の拠点ではないので、行き先は恐らく曽場ヶ城。東西条を統括する弘中君が出迎えたことでしょう。あるいは、平賀弘保なんかも義隆に会いに東西条まで出向いたかもしれない。25日に義隆が出立してからの記述はちょっと空いてますが、ここに書いた以外にもどうやら大内家重臣からかわるがわる接待(酒宴)を受けたらしいです。策彦が自分で「小歌歌っちゃった~」って書いてるあたり、相当盛り上がって策彦自身もめちゃめちゃ楽しんだらしい様子が窺われるってもんです。まあね、安芸戦線は完全勝利、大内氏が独占した遣明船も無事使命を果たし、めでたいことが重なって皆様相当気分が良かったであろうことは想像つくけどね。さて、義隆が東西条から帰ってくると・・・9月12日 風風雨雨。夜に保寿寺とともに太守に謁見。風の中会いに来たことを 太守は喜ばれ、そのまま引き留められて深夜まで酒宴。9月13日 晴れ。加賀梅の小袖と白の袷(あわせ)を太守の使いが持ってきて 拝領する。お礼を言いに行こうとしたら、太守は保寿寺で茶会を 開いていた。そこで保寿寺へ伺うと、茶会が酒宴に変わり、 深夜まで飲んだ。9月14日 太守のお召しにより伺い、古い勘合符を点検した。池永・盛田などの 堺衆のことについて質問を受ける。帰ろうとしたところ、太守に固く 引き留められ、酒を飲むことしばし・・・酒宴は深夜に及んだ。9月16日 太守から軽い食事をごちそうになる。山口へ帰る暇乞いを太守に告げる。 保寿寺・観音寺・陶隆満・杉宗長(興重)などが同席していた。 次回の遣明船についての話が出た。午後に点心をいただく。9月17日 保寿寺から軽食をいただく。午前に杉彦九郎がお使いにやって来て、 太守が晩餐に招いて下さるという。そこで、保寿寺・凌雲寺・ 覚雄(寺?)・観音寺などとともに伺うと、松茸汁が出た。 酒宴は夜明けまで続き、太守は非常に興に乗って前坂まで私を送られ、 坂の途中では盃を手にして小歌を歌うほどだった。9月18日 佐東銀山城を出立、山口へ向かう。保寿寺・凌雲寺・小槻伊治・西院などが 坂の途中まで見送りに来たが、それを押しとどめて杉宗珊の陣屋へ 暇乞いに行った。焼き松茸が出され、酒を勧められた。白糖をもらって、 夜8時頃になって船で厳島へ詣でた。ちょっともう・・・この酒飲み強行スケジュール、ひたすら笑えるんだけどマッタケが2回出てきますね~。美味しかったから書いたんだろうな(笑)。松茸の市場での流通の記録は延徳4年(1492)に現れ、売り始める時期は8月10日と「鹿苑日録」に記述がある。だから、ちょうど旬な時期だった訳ですね。それにしても、この酒浸り生活、どーよ?勧められても「いへ、わたくし、飲めませんから・・・」なんつって断ったらシラけるし、策彦がそんな奴だったらこうも連日の酒宴にはならないと思うんだよね。佐東銀山城へ来るまでの間にもみんないそいそと酒を持ってきてるし、策彦はかなりイケる口だったんじゃないのか?この後は厳島に行ってから小方(岩国のちょっと北)~防府~山口へと向かったようですが、その間の日記も 晩メシ食ってフロをもらう。その後、点心と酒~。 フロに入って晩メシに焼き松茸とシイタケが出た~。 果物と酒1本もらった~。 点心と酒が出た~。・・・て、帰国後、本土へ上陸してからは遣明船副使の記録というよりは「策彦の酒飲み日記」と名前を変えた方がいいんじゃないかってカンジの日記になってます(笑)。策彦はこの時、40歳。義隆は34歳。どちらもバリバリの男盛りで、しかも双方とも大役を果たしたばかり。この行程を知った時、2人の驚異的な(酒)体力に驚愕したもんだけど、天文10年の夏はどちらも充実した日々を送っていたと言えるでしょう。この後、天文16年(1547)に義隆は2度目の遣明船を派遣します。2度目は策彦が正使。1度目は2年かかったけど、2度目もかなり大変だったようで、帰国するまでに3年の月日を費やしました。策彦が帰国した翌年には大寧寺の変が起こり、義隆が自刃。2度目が最後の遣明船となります。策彦のことを知らなかった方は、今回の記事だけを読んで「飲んだくれ坊主め~」と思った方もおられるかもしれませんが、策彦自身は若い頃からかなり優秀な人であったようです。高名な僧であったため、他の戦国武将との関わりも多く、例えば信長様は策彦に賛を依頼したそうだし(高齢を理由に弟子を代わりに推薦したとされる。それで書かれたのが「安土山記」)、今川義元の詩歌会に参加したり、武田信玄に招かれて甲斐武田氏の菩提寺・恵林寺(えりんじ)の住持になったり、長宗我部元親から元親夫妻の法号の選定を依頼されたりと、実に華やか。策彦とは、そういう人です。今回の記事、例えば尼子ファンなどの中にはあるいは「チッ!大内義隆、いい気になりやがって・・・!そんなんだから富田城でボロクソに負けるんだろーが」な~んて苦々しく思われる方もおられるかもしれませんが、ま、それはそれとしてね。押しも押されぬ西国の大々名・大内義隆と「五山の俊英」と謳われた策彦周良。わずかな日数の間にこれだけ一緒に飲んでるってことは、義隆と策彦は相当ウマが合ったんじゃないかと私は思うんだよね。壮年期を迎え、力も野望も才能もある前途洋洋の両者がひと仕事を終えて豪快に飲みまくった天文10年の夏の数日間を思う時、一方ではその酒量に爆笑しながらも、もう一方では(ちょっと年齢的にはズレるけど)まさに輝かしい青春の1ページだなあ~と微笑ましく、さらに2人の心情やその場の情景をリアルに想像すると、涙もろいわたくしは感慨の涙さえ浮かんでくるのであります。にほんブログ村