瀬田城
瀬田城<大津市瀬田>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「大津編(7)」からの続きです。橋守地蔵から一旦唐橋の東端である「唐橋東詰」交差点へ戻って、そこから車道を南下。ヘロヘロになりながらも瀬田まで来たのは、もちろん唐橋を見たかったのもあるけど、この辺りに瀬田城があったからでもある。瀬田城の築城年代については、はっきりわかっていない。が、永享元年(1429)に甲賀の土豪である山岡氏が建てたという話が伝わっている。はい、「大津編」の(5)(6)に出てきた山岡景隆さんの山岡氏です。山岡氏がここに移ってきたのは、建武年間とも言われてるので、永享元年とは100年ほど前後するけど、いずれにせよ室町頃ってことかな。城の西側は瀬田川に面し、東西約140m、南北約150mにわたって深い堀が巡らされていたという。山岡景隆が織田家に入って、信長様の信頼を得るまでになったことは前に書いた通りだけど、唐橋の完成後も山岡さんが瀬田城主を務め、橋の守備にあたった。信長様が上洛する際には頻繁に瀬田城を訪れ、天正4年の内大臣任官の折の石山寺参詣の時も、山岡景隆兄弟が饗応役を務めた。そして天正7年(1579)には信長様のプライベートホテル、「瀬田橋御茶屋」がこの辺りに設けられたという。景隆は本能寺の変後、明智光秀の誘いを断って唐橋と瀬田城を焼いて山中に逃げたとされているが、その後も堀秀政らと組んで明智軍への妨害を試みていたらしい。また、景隆の妻の弟も、安土で明智秀満と交戦している。その後の具体的な動向についてはあまりはっきりしないけど、一旦は瀬田城に戻ったのかな。しかし、翌天正11年には柴田勝家に内通したという嫌疑をかけられ、秀吉に瀬田城と領地を召上げられてしまう。元の山岡氏の出身地といわれる甲賀の毛牧(もびら)に戻った景隆は、天正13年(1585)に61歳でその生涯を終えた、と。いやあ~、キビシイ時代だなあ、ほんと。で、景隆さんの後妻が水原長(みずはら・おさ)さんていう人なんだけど、割とその生涯が詳しく辿れるみたいで、戦国の世をたくましく生きぬいた女性がここにもいたあ~!って結構感動した次第で。長さんと山岡氏のその後についてちゃんと知りたい方は、「大河ドラマ 江 ~姫たちの戦国~ 滋賀県推進協議会」様のサイトにかなり詳しく書かれていますので、お時間と興味があれば是非そちらもご覧ください(リンクはこちら)。さて、車道を歩き始めたものの、お目当ての石碑の位置がいまいちはっきりしない。・・・まあ、たぶんこの道をしばらく行けばあるんだろうと思って歩くけど、交通量が多い上に、路側帯が狭くて・・・ドライバーからすれば、「こんな狭いところ歩いてんじゃねーよ!」って思うだろうけど、仕方ないじゃん・・・て開き直ってしばらく歩いたところに、お目当てがあった。 「瀬田城趾」の碑の後ろにある立看板は、文字がボケてかなり読めない。大きな碑の方も、前半は一部読めないんだけど、最後はこうかな。 【宝暦9年龍安寺西源院天寧和尚は、隠れたる忠誠の勢多城最後の城主、従五位下 山岡美作守景隆を偲び、膳所城主本多下総守康恒に進言す。康恒勢多城跡に 一宇を建て臨江庵と命名す。現在の臨江庵○なり。故に遠祖の功業を偲び 山岡氏一族の碑を建立す。 昭和40年10月17日】瀬田城の廃城の時期も定かではないが、おそらく膳所城ができたことでその役目を終えたと思われる。で、碑にある臨江庵が瀬田城跡だっていわれてるんだけど、この臨江庵も膳所藩主の別荘だとか、山岡氏の義に感動した膳所藩士が結んだ草庵だとか、どうもはっきりしない。その臨江庵の跡に近代になって料亭が建ち、現在ではデカいマンションが建つ。この付近には中世の石灯籠の一部なども残されているというが、場所もわからないし探す時間も体力もない。ので、今日はこれでおしまい~。途中、瀬田川に出られる脇道があったので、名残を惜しみながら川べりを歩く。 瀬田川の東側から見る瀬田の唐橋。信長様も「瀬田橋御茶屋」からこんな風景を眺めたのかな~ってぼんやり歩いてたら、後ろで大きな音がした。なんじゃい・・・と思って振り返ったら、瀬田川を新幹線が渡るところだった。ええええ~っ!!東海道新幹線って、こんなところを通ってるの?なら、新幹線の車内から唐橋が見えるってこと!?って衝撃を受けた。知らないってコワイよな・・・唐橋の近くには、俵藤太(藤原秀郷)の像が建ってるってことだったので見るつもりだったけど、すっかり忘れてしまった。でも、唐橋付近を十分堪能したから、まあいいや(笑)。※「大津編(8)」へと続きます。↓ランキング参加ちう~。にほんブログ村