叡山攻め(237) 建仁寺3~三門・法堂/母なる永遠の叡山
茶苑のすぐ隣には「洗鉢池」がある↓。 茶祖らしく、この池の水は抹茶なのかという色ですが、奥に見えてる赤い筋塀はもちろん開山堂のもの。木がなければ屋根ぐらい見えたろうに・・・。そのすぐ先には、大きな門へ通じる道がある↓。 「宝陀閣」(ほうだかく)という扁額のかかる、いかにも禅宗寺院といったこの門は、開山塔でわたくしが観ていた大きな門。つまりこの門をくぐると前庭を挟んで正面に御廟がある訳です。ここの造りは重層だけど、一重の屋根は法堂と同じように本瓦葺と桟瓦葺が混在している・・・これが建仁寺流なのか?古い禅宗の寺に行くことがあったら、気をつけて観てみようっと。ここまでは南へ歩いてきましたが、ここで向きを変えて西に歩きます。すぐ先にあるのが三門↓。 なんで正面からの写真がないのか自分でも疑問ですが、境内図を見るとこの手前には放生池があるので、池の手前からでは画面に収まらなかったんじゃないかと思います。もちろん、収まらないなら池の裏側へ回ればいいんですが、とてもそんな時間の余裕も心の余裕もなく・・・「望闕樓」(ぼうけつろう)という扁額が懸かるこの門は江戸末期頃の建築で、大正12年に浜松の安寧寺から移築したものだそうな。「三門」の意味は知恩院の三門と同じ。写真を撮りながら三門の前を突っ切ると、塔頭の塀に行きあたる。ここで北へ向きを変えるんだけど、境内図によるとこの塀の中には へええ~、赤松則村の墓がこんなとこにあるんだ。 もちろん、寄ってる時間なぞありません。塀沿いに北へ向かうと やれやれの法堂です。しかし、ここもぱぱっとこの3枚を撮っただけ・・・こんな素晴らしい建築物を前にして急いで戻らなければならないのは実に心苦しいのですが、創建当時からの堂宇で現存しているものはないとはいえ、わたくしがまともに観ようとすれば主要堂宇だけでもゆうに2~3時間はかかるだろうから仕方ありません。とにかく今回は開山堂へお参りさえできれば良かったのだ。この北には、恵瓊(えけい)が慶長4年(1599)に安芸の安国寺から移築した方丈がある。この時には海北友松の雲龍図の公開をしていたんだっけかな。もちろん観てる時間はないし、この2ヶ月後くらいに東京で大々的に開かれる『栄西と建仁寺』展があるのはわかっていたので、寺宝はその時観られるだろうとスルー。北門へ向かう時に塀越しに屋根の写真だけ撮ったけど、位置的にこれは本坊の屋根だろうな↓。 これだけ見事な破風を抱える建物がすぐ向こうにあるのに、通りすぎざまに撮るしかできないなんて自分が望んで今回のようなプランを組んだとはいえ、建築美をほとんど堪能することができなかったのが実に悔やまれる。建築だけを鑑賞する、まったりしっとりとした優雅な京の旅でも楽しんでみたいけど、どうせ建築だけのプランを組んだところで、背景などを調べているうちに建築への時間配分はどんどん狭められ、場合によっちゃもう歴史だけでいいや~てことにもなりかねないので、所詮は絵に描いたモチ、見果てぬ夢でございます。で北門からまた知恩院へ戻る訳ですが、北門から路地を1本入ったところには塔頭・正伝永源院がある。戦国ファンですぐわかった方も多いでしょうが、織田信長の弟・長益(有楽斎)が関ヶ原後に隠居し、埋葬された場所です。今回の冬の特別企画では正伝永源院も公開の対象になっており、魅力ある企画ではあるものの、それ以上に観たいところが沢山あったので今回は初めから予定には入れてませんでした。まあ、有楽の隠居所である旧正伝院書院と↓ 有楽の国宝茶室・如庵は↓ 犬山で観てるからな(←ほとんど負け惜しみ)。のんびり歩く観光客の間をぬって北門から四条通りに出て祇園の交差点へ行くと 向かいには八坂神社がある。知恩院から建仁寺に向かう途中に見た時は、ちょうど団体様が入っていくところで「うわ~、ヤダ!!」と思いながら通った。実はここで書こうと思って残しておいたエピソードがあるのですが、文字数が中途半端になりそうなので別の機会に譲ります。八坂神社のすぐ北には和順会館の裏手へ出られる道があるけど、その先の知恩院の新門まで行ってから和順会館への最後のロード。天気がいいせいもあったけど、とにかく急いで歩いてきたので小汗をかくほどだった。宿に戻ったのは11:20。荷物を受け取って京都駅まで戻り、あれこれ買い物してから一路東京へ。旅の途中では疲れすぎて中ダレしたり、最後はバタバタと時間に追われて相変わらず優雅とは程遠い旅でしたが、実に充実した5日間でした。最終日の歩数は9、545歩。5日間を合計すると、のべ90,275歩になります。さて、長すぎた本シリーズもあっけなく最終回を迎えましたが、あれこれ短編を挟みながら書き続けた1年と約3ヶ月。長きにわたってお付き合いいただいた皆様はお疲れ様でした(笑)。書くつもりで書けなかった話、時間が足りなくて勉強が追いつかなかった話、色んなことを考えていたけど書ききれなかった話など沢山あっていざこの日を迎えると少々名残惜しい感もありますが、忙しい中でもたまに読んでくれてるらしい職場の上司はきっと「237話も書けばもう充分だろーが!まだ書き足りねーのかよ!」と爆笑するんだろうな。ふん・・・ま、記事の中でも何度か書いてきましたが、ホントに本シリーズはタメになりました。これほどに仏教および仏教史が面白いとは夢にも思わなかったんだけど、「叡山攻め」を書くにあたって読んだ本は40タイトルを超え、中にはシリーズものもあるので冊数でいえばそれ以上になります。その他論文などもあれこれ読んだので、結構な数の資料を読んだことになります。ひとつのシリーズのためにこれだけの資料を読んだのは初めてのことで、これだけ読んで身に付かない方がおかしいよな。もともと今回の旅は寛永寺編を書く中で輪王寺宮が三山を統括していたことを知り、また天海が寛永寺の整備を一旦置いてまで復興に努めたというところから出発している訳ですが、行った途端そんなちっぽけなきっかけはものの見事に吹っ飛び、叡山そのものの歴史、およびそこに生きた魅力ある僧たちのとりこになりました。結局インドから通しでの仏教史にまで首を突っ込むことになりましたが、基本的な流れを押さえるのと押さえないのとでは理解度が違います。そういうきっかけを与えてくれたのも叡山だからこそで、「日本仏教の母胎」と世間で評されるその一方で、わたくしにとっても仏教への道を拓いてくれた、まさに「母胎」でございます。叡山への愛と感謝をもって、この旅の締めくくりといたします。にほんブログ村