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2008.12.13
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カテゴリ:真田幸村
1615年大阪城も落城寸前のとき伊達政宗軍・片倉重長の陣の前に一人の少女がやってきた。
容姿端麗な娘は白綾の鉢巻をし、白柄の長刀を携え、手には書状を持っていた。

少女の名は 真田左衛門佐幸村の娘 阿梅
手にしていた書状は真田幸村から、片倉小十郎重長へ宛てたものだった。
「我れ東軍の陣容を見るに足下に及ぶものなし。我が運命も最早旦夕に迫れり。我に一女あり、願わくば足下に託して余命を得さしめんと」とという内容であった。

阿梅の後ろには一人の男子がついていた。
それは真田大八幸村の次男の姿であった。

重長は主君の伊達政宗に相談し、許可を得て大坂の陣終了後、自国の白石城へ二人を連れて帰っている。

なぜ幸村は重長に娘達を託したのだろうか。

片倉氏の初代・二代に関する話をまとめた『老翁聞書』にはこう書かれている。

「寄せ手の中で片倉の英名は聞こえていたが、この度の目を驚かすような働きを見て、片倉家の隆盛は間違いないとみて、幸村が見殺しにするのも忍びなく思い重長公の前に託した」と記されている。
実際に片倉重長は大阪夏の陣において、道明寺の戦いで後藤又兵衛、薄田隼人兼相などを討ち取っており、この
勇戦ぶりを幸村は見て、その姿に感服し子女を託そうと決めたらしい。

こうして片倉家に託された阿梅は白石城にて大切に育てらた。

大坂の陣のときには12歳だった阿梅も5年の歳月を得て17歳となっていた。
すでに立派な女子となった阿梅は重長の側室として迎えられることになる。
このとき重長にはすでに正室がいたが、11年後病にて亡くなると、阿梅は正室としての地位を得ることになる。

今さらながらだが幸村の先を読む眼力は凄い。
偶然だろうが阿梅は天下の伊達家の重臣・片倉家の正室の権限を得たのだ。

この阿梅の正室の権限を得たことにより、後々真田大八の仙台真田家へと繋がっていくのではないだろうか。
幸村が見込んだ男・片倉重長
敵軍にありながらも、その力量は賞賛したい。

   
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最終更新日  2008.12.13 13:30:23
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