政治とサブカルチャー
那須高原の冬の訪れは早い。強風と朝晩の冷え込み。日中はだいぶ温度も上昇するも秋というよりは、冬がすぐそこまで忍び足で来ているという印象だ。我々の世代は、昭和初期の世代や全共闘世代のような共通言語を持たない代わりに「サブカルチャー」という強力な言語が存在している。私個人は、ごく普通に本も読み、(遠い過去、子供のころに誰しもが経験する)アニメや特撮も見て、10代の真ん中ごろからアメリカやフランスの映画・ドラマ等にも接してきたし、文学ではロシア文学が好きだったりする。(映画に関してなら、パトリス・ルコント監督やコーエン兄弟、タルコフスキー、マーチン・スコセッシ監督、ロジェ・バデム、日本では、黒澤明監督、北野武、鈴木清順、木下恵介、小津安二郎等々・・・)政治思想史の少し硬めの書物であるとか、哲学書であるとか、建築理論書であるとか宗派を問わない宗教書等々・・・そのようなものに混じって「美学」が自分の感性と合致する耽美的で異端的な漫画とかを読むこともたまにある。(正直なことを申せば新宿御苑にある異色の書店、「模索社」に、熱い血のたぎる新左翼の理論書、「前進」や「解放」と並んで置いてある、極度に洗練され「ものすごくディープな美学」を語る数々の漫画類に私の感性は共鳴する部分が大きいのです)映像としてのアニメはほとんど見なくなった。仕事が忙しいのと、精神状態が日によって病的だったり始終落ち着かないことが影響しているが、多分、心理的にはもっと深い複雑な理由から、アニメが見れなくなっている。職業病なのだろう、よっぽど精神状態が良くないと自然な気持ちでドラマが受け止められなくなっている。実に不幸なこと、残念なことだと自分でも思う。しかし、子供のころに接したアニメだとか、大人になってからも聴き続けていたラジオ番組(といっても15年以上前。時間がたっぷりあった時代に)とかで予備知識をいくらか所有しているおかげで「サブカルチャー」的感性にもいくらかはついていくことができる。特にラジオ番組というのが、思いのほかマニアックな世界で、中学生のころから私はラジオの熱心な愛好家だった。何かのきっかけで断片的な興味を持ったミュージシャンや作家、アーティストや評論家、有名声優といった人たちのラジオ番組などをある時期集中的に聴いてみる。するとそれらは、彼ら自身の発信する最新成果(作品)に触れる場であるのと同時に、創作の秘密へとたどりつく場でもあり、何げに語られた言葉から意外な私生活や価値観を垣間見ることができ、同時にほかの魅力的な作者や作品類へと触れることの可能な情報の宝庫でもあった。センスのいい表現者は、やはりセンスのいい作品を好む。作者自身の作品のみならず、ほかの人たちの作品に関し、その鑑賞対象となる「選好の基準」つまり選別のプロセスそれ自体すでにその人の美的感性があらわれている。子供のころから見ていたものは別として長ずるに及び知ったものは、ディープな感性を有する友人たちの紹介や自分自身のアンテナを使って探りあてたもの以上に「ラジオ番組」の影響が大きく私が好むサブカルチャーの趣向もこれらの副産物と言えないこともない。作品の持つ美学への特殊な埋没は、ときに社会不適応者や病的感受性を生み育てることもあるが、同時に異文化接触において絶大な社会的機能を宿し多くの「社交的役割」を果たす。同じ作品への共鳴から、人は知り合いや友達を広げることができる。相互のコミニケーションや理解が容易となり、また活発となる。深い言葉のやりとりが可能となる。日本の軍国主義に反対していた中国の古い世代の人たちと、鈴木保奈美出演のドラマや日本のアニメを見た若い人たちとでは、日本に対する受け止め方がまるで違う。他国の文化への理解にこの手のものがいかに大きな社会的役割を果たすかは、日本における韓流の影響を見ても明らかだろう。サブカルチャーの評価にも今まで多くの変遷があった。晴海の埠頭で初期のコミケが行われていたころには、政治権力や商業資本とは比較的無縁の、アナーキーで自発的な商品の交換形態が、江戸文化における「連」や「俳諧」コミューン内での脱資本主義的な商取り引きを彷彿とさせていた時代があり、薫り高い文化の変種だと思われていた。宮崎勤事件が起きたとき、世間の非難は、異様なおたく族たちの習慣や生活へと向けられ、コミケを絶賛していた論者たちからも、鏡に映った己の姿や自分の同類たちへの自己嫌悪から、みずからの生き方総体を批判的に総括しようとする動きが出てきた。竹中労さんのみが違っていて、最晩年の竹中さんを囲む勉強会「風の会」では、文学的側面から見た宮崎勤論みたいな独自の論理を展開されていたが、犯罪肯定論みたいなアナクロニズムではなく、サブカルチャー文化の背景にある一般的大多数者たちへの理解や共鳴、マスコミの軽薄な一部、心ない商業資本の無責任な流言蜚語に触発され「労さんらしい怒り」を基調とする対抗形成的言説(レジスタンス)の提出・あるいは堂々たる「美学」の擁護といった文脈だった。私個人に関してなら竹中労さんからは、大杉栄のみならず、杉山茂丸や里見岸雄、江戸川乱歩の挿絵を描いていた画家で竹中労さんのお父さんでもある竹中英太郎などを紹介してもらった。竹久夢二などにも連なるこの美的な感性が、私の見立てだとサブカルチャーと濃い血縁関係にある。ちなみにグリコ・森永事件が起きたときにも竹中労さんは、世間やマスコミの総体とは正反対の向きで袋ただきに合うことを覚悟の上で「ぐわんばれ、怪人二十一面相!」とエールを飛ばしていたが、その後、真犯人との噂が飛び交った「突破者」の著者(真相は今でも解かっていない)の活躍を見るにつけ、竹中労さんの奥深い洞察力と先見の明へと突き当たらざるをえない。周知のごとく「おたく」や「秋葉原」が世界語となり、麻生太郎や、石破茂、菅直人などが選挙対策をも含んだ政治的角度からこの問題に論及しサブカルチャーは、その後、世界中の若者たちが興味を示すもっともおしゃれな日本の文化としてあらゆる土地に輸出され各地で高い評価を獲得している。宮崎駿が、手塚治虫が、「エヴァンゲリオン」の作者が、黒澤明や小津安二郎と並んで評価されるという時代になってきている。柴門ふみ原作の「東京ラブストーリー」が韓流に与えた影響とか、マトリックスリローゼットに見られる日本のアニメの影響とか・・・この分野、語りだすときりがない。(続く)参考文献)連(Ren,Lian)とは何か田中優子氏の江戸文化研究の中にコミケなど現代の同人誌文化を解明する鍵がひそんでいる。コスプレやメイド喫茶などが美学として俗悪なのは、自然な感性と才能を媒介とした物々交換的プロセスに露骨な商業資本が介入して営利活動をはじめたあたりからではないかというのが私の理解。