|
カテゴリ:哲学・思想
よたよたあひるさん
本当にお疲れ様でした。あなた自身の直感や体験を「議論の言葉(論理言語)」で表現していく大変な努力 に敬意を表します。前回の記事よりもわかりやすく納得しやすい内容にまとめておられると思います。 >(おしゃべりの言葉は)読み手と書き手の関係性で読み取りに大きな差ができてしまいます。 一般的な「教訓」を引き出す上で、前回記事の表現よりも説得力を感じます。 >今回の一連の「議論」がすれ違っていったのは、当初は「その表現は関係性の異なる場では理解されないはずで、立場を明らかにしているものの発言としては不適切」という強い危機感を持った方の批判が、うまく伝わらなかったということに始まっていたと私は考えています。 >この当初の批判が、「記事に書かれた内容そのもの」だけでなく、「記事を書いた人の立場を考えた上での発言が持つ意味」というメタ・メッセージに対する批判、だったために、「記事を書いた人への批判・・立場を含む人格攻撃と言ってもいいでしょう・・」として受け止められてしまった、ということが原因なのではないでしょうか。 この点についてもそう思います。「おしゃべり言葉」を発信する個人(または共有する集団)が、「外からの批判」に対してどのように反応しやすいか というこのたびの指摘は前回かかれていた主張と比較しても「より広い観点から留意点を示唆したもの」であると考えます。 「力点」を修正しつつまとめておられるような印象はありますが、あなたが「すれ違い」といわれた意味がある程度わかったように思います。 ただ、それでも違和感は残るのです。 実はあなたの言われる「議論の言葉」と「おしゃべりの言葉」についての説明は「だいたい想像していたとおり」だったのです。が、そこから「引き出すべき教訓」については、別の観点から明確にする必要がありはしないか、ということを感じています。 というのは、あなたが力点を置いて展開しておられるのは 「批判する側が配慮すべき事項」「“おしゃべりの言葉を使っている個人”に対して“届く言葉を”を発していくための留意点」であるように見えるのです。 そして、確かにそのこと自体はとても大切なのですが、わたしは 「おしゃべりの言葉」をブログ上で発信する場合の留意点、そしてそれが「批判」を受けた場合の留意点こそ多くのブロガーが共有すべき重要なポイントであるように思うのです。 もっともあなたの意図は、例えば次の文からも伺えるように、それをも含めて「教訓」にすることだったと思われます。 >「立場が発するメタ・メッセージ」は、「おしゃべりの言葉」の場での意見交換を行うときに(そして場の外へ発信するブログの場合)大きな影響力を及ぼします。〔( )内は引用者〕 ただ、不充分になっている印象は受けます。連載の「大作」を書かれるに当たってあらゆる観点を充分展開することは難しいですし、以下に書くようなことはあなたが直接「回答」しておられる「まずろさんやPsycheさん」にとっては「分かり切っていること」だからかもしれませんが・・・。 あなたはブログ上の言葉について分類しておられます。(作成された図「よたよた仮説 ブログの言葉」は秀逸だと思いますね。)ただ「関係性に依存したおしゃべりの言葉」が使われる典型的なケースはブログ上というよりも「よく知った人間同士の日常のやりとり」でしょう。 そこでのコミュニケーション手段は文字ではなく「音声言語」であり、さらに表情や身振り、音調・沈黙などの「副言語的要素」が重要ですね。そこでは例えば「正しい言葉」が発せられなくてもコミュニケーションが成立してしまったり「周りの表情から空気を読む」ことが求められたり、するわけです。 さて、それに対して「文字言語」の場合ですが、例えば発刊される書籍であればそのような「言語場=コミュニケーションの場」から独立しているわけですが、ブログ上では「そのような場」が成立してしまうのですね。(確かにそれがいいところでもあります。) しかし、「おしゃべりの言葉」をブログ上で発する場合、「これくらいいっても大丈夫」とか「大体わかってもらえる」とか「互いに頷きあう関係だから批判など受けない」といった日常的な仲良しグループのコミュニケーションにしばしば見られる「関係性に依存した甘え」の意識を持ったまま、不特定多数に「問題となるメッセージ」を発信してしまうことがしばしば起こりえます。 そして、不特定多数に発信しているにもかかわらず、発信責任を問わない空気を共有してしまうわけです。(ブログ上のコメントにあった「このブログはほのぼのとした気分にさせられる」「空気を読んで・・・」といった趣旨の発言、批判的書き込みが「浮いている」といった発言。また、「このブログのメッセージには論理的な批判はなじまない」といった趣旨の発言等) 私自身が思い起こすのは、普段心地よい関係を作っている「私的グループ」が、「外からの(別の生徒による)批判」や「教職員の指導」に対して過敏に反応・反発し、「論理的」な言葉をなかなか受け入れられない、といった体験です。本人たちはそれこそ「上からの目線」を感じる傾向が強いので「伝わる言葉」を発することが相当に難しい。 しかしながら、「子どもと大人(保護者や教職員)の関係」であればともかく、大人どうしの世界であれば、あなたのブログにも複数の人が書き込んでいるように「責任が問われるのは当然」なのです。心地のよいコミュニケーションの最中に「批判」を受けた場合にも、言わば「シフトチェンジ」して「批判に対して誠実に応答したり討論していくこと」ことは大切だと考えます。 「このたびの混乱」を契機に多くのブロガーが共有すべき教訓を考える場合、むしろそちらに力点を置くことが大切だと思うのです。 (なお「総括」の観点とは違いますが、「Authorまずろ」のブログでしばしば見られる「随筆風の美しい文章」は示された表の中に位置づけにくいのでは? と思っています。できればその点も含めて書いてみたい気持ちもあります。) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに (yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[哲学・思想] カテゴリの最新記事
|