906065 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

“しょう”のブログ

“しょう”のブログ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

shchan_3

shchan_3

Category

Comments

shchan_3@ Re[3]:教育評価と特別支援 「基礎知識+実践」を学ぶ(04/15) 渡辺敦司さんへ >こういう校内論議こそ…
渡辺敦司@ Re[2]:教育評価と特別支援 「基礎知識+実践」を学ぶ(04/15) >「探究し考察することで対象への関心を…
渡辺敦司@ Re:教育評価と特別支援 「基礎知識+実践」を学ぶ(04/15) >おっしゃる通りだと思います。そのよう…
しょう@ Re[1]:教育評価と特別支援 「基礎知識+実践」を学ぶ(04/15) 渡辺敦司さんへ ていねいなcommentあり…

Favorite Blog

エンドウ豆 赤花に… New! けんとまん1007さん

日本の教育は、これ… 今日9729さん
       世に… che-gさん
寝言は寝て語れ (旧a… あならいざぁさん
学びの泉 ~五目ス… Mr. Hot Cakeさん

Calendar

2008.11.15
XML
「サッチャー教育改革」が定着する以前のイギリスの教育について『競争しても学力行き止まり』での記述の紹介を続けます。

 1987~89年に(・・・)子どもを地元のミルバトン小学校に通わせた家田愛子は、当時のイギリスの小学校を次のように描いている。

 「日本の学校のようにクラスでまとまって全員がいっせいに同じことを勉強することが授業の基本ではない。(・・・)子どもは一人ひとり自分の能力に合わせて勉強する
「黒板が使われる頻度は、日本と比べると非常に少ない。算数も、英語同様、一人ひとりの子どもの進行状況が異なるから、クラス全員に同じことを説明することは少ない」

 また、学校長は「非常に研究熱心」で、それは、「すべての子どもにとって学校が『学ぶ場所』であり、生きいきと学校生活が送れるようにというこまごまとした配慮を私は直接膚で感じることが多かった。それは、『決定』が一番身近なところでされているからだろう」(・・・)(13頁、14頁)

 家田は、イギリスの自由な教育の背景まで分析しているが、権限関係をめぐるこの描写もまた、今日のフィンランドにそっくりである。

 この自由なイギリスの学校教育は、教育関係者の努力によって、急速に普及したと見られている。 その転換点が、1967年の『ブラウデン報告』からだといわれている 『ブラウデン報告』は、当時のイギリス労働党の進める福祉国家づくりの社会的風潮の中、知識の詰め込みとしての教育を否定して、子どもたちがさまざまな経験を通して学ぶという活動主義的教育法を推進し、一人ひとりの状況に応じて実質的に平等な教育を実現しようとしており、統合教育やいわゆる「落ちこぼし」「落ちこぼれ」をなくする「アファ-マティブアクション(弱者積極的優遇策)」の立場に立っていた。

 この報告の影響で、自由な教育がイギリス全土に行き渡ったようである。
 1991年から2年間、(・・・)子どもの学校教育を体験した社会教育学者の志水宏吉は、当時の授業を「驚愕」だと描写している。
「十人十色どころではない、二十五人二十五色とでも言うべき授業が展開されていたのである。(・・・)個人個人の生徒の能力と進度に合わせて教師が作業課題を割り当て、子どもたちは個別にそれにあたる。先生の役割は、教えると言うより、場をまとめるオーガナイザーのそれだ」
 このような生徒個別に対応する授業は、筆者がルポルタージュした今日のフィンランドの、とりわけ小学校で普通に見られる授業と同じである。 (15頁)

 さて、前回私はサッチャー政権から始まる教育改革について、「『低学力批判』を展開しつつ強引に『改革』を進めることによって、イギリスは『それ以前の素晴らしい教育』を大きく後退させて行ったのではないのか?」と述べました。

 確かに、「極端に単純な図式化」には多くの要素を捨象してしまう危険性があります。仮に「サッチャー政権以前のイギリスの教育が理想的で素晴らしい面だけ」だったならば、そもそも“強引な教育改革”そのものが成立しなかったでしょう。改革の背景には、学校教育に何らかの不充分さや、それに対する保護者の不満があったと考えた方が自然なのかもしれません。

 しかしながら、実際にイギリスの学校に子どもを通わせた家田愛子などの「証言」を見る限り、「全面否定」されるべきものでは決してありません。そしてまた、 上記に紹介されたような授業の「成果」が前回のデータ(イギリスにおける成人の科学的リテラシーの高さ 1996年調査)にも現れている、とは言えないでしょうか。

 そして何よりも1967年の『ブラウデン報告』が「当時のイギリス労働党の進める福祉国家づくりの社会的風潮の中、知識の詰め込みとしての教育を否定して、子どもたちがさまざまな経験を通して学ぶという活動主義的教育法を推進し」、「統合教育やいわゆる『アファ-マティブアクション(弱者積極的優遇策)』の立場」を打ち出すなど、「あるべき社会」の構想と「教育のあるべき姿」を結びつけてまとめられたことが、注目できると思います。

 「糸賀一雄の思想と実践」(カテゴリー 特別支援教育)の中でも繰り返し紹介しましたが、私は「“障害”のあるなしに関わらずともに生きられるような社会が豊かな社会だ」と考えます。そして、個人にとって必要なのは 「それぞれの具体的経験や人生の中で活かされる知」を獲得できる学びであり、かつ「上記のような社会を創造していく力」、「現実を批判的に読み解き関わっていく力」につながる学びであると考えるものです。
 
 1990年代、EUやOECDは「知のヨーロッパ」に向けた「積極的市民性」の育成で合意し「知識の習得よりも社会に出て使える力」を重視するような「新しいテストが開発されて新しい質の教育が評価されれば、学校が本来行うべき教育活動に陽の光が当たり、理想的な教育に弾みがつくだろうと思案した」(164頁)のです。

 いわゆるPISAはこのようにして生まれるわけですが、私たちは「テスト結果」や「数値」以上に、そのよって立つ「哲学」や「教育理念」に学ぶ必要があるのではないでしょうか。

(6に続く)

 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページ​に
(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 
    ↑
よろしければ投票していただけますか
(一日でワンクリックが有効です)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.03.30 09:40:33
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.