洋食屋さんの記憶。
数年前まで、私はその洋食屋さんによく通っていた。濃厚なデミグラスソースのかかったハンバーグ。ランチを頼めば食前に出てくる、手作りの素朴なスープ。外はサクサク、中はジューシーなチキンカツ。山のようにどっさり盛られたキャベツ。さすがにどれも濃厚な味わいなので、毎日という訳ではなかったが、それでも気が付けばその店にいつも足を運んでいた。当時、割と年配のご夫婦が二人で店を取り仕切っており、頑固そうなオヤジさんと、優しそうな奥さんがとても印象的だった。いつしか自然に、私は「常連さん」の一人になった。オヤジさんは、「よう来てくれはったねぇ」といつも私に声を掛けてくれた。「ありがとうございました。古い店だけどまた来て下さいねぇ」支払いの時にはいつもいつも奥さんがそう声を掛けてくれた。その店は、厨房を取り囲むようにテーブルがあったため、メニューを注文してから出来上がるまでの一部始終を見ることができた。どんなに客がたくさんでも、淡々と作業をこなすオヤジさん。それを陰でしっかりフォローする奥さん。流れるような作業手順と、てきぱきと注文をさばく二人の呼吸に私はいつも見とれていたものだった。数年前まで……。ある日のことである。餌場に向かう動物のように、私の足は無意識にその店に向かっていた。そして店の前にたどり着いた瞬間、呆然とした。店の前に、「都合により、しばらく休業します」という張り紙が無造作に貼られてあった。同じような風体で一様に立ち尽くしているサラリーマン。「えっ、マジで?」顔を合わせて苦笑いするOLのグループ。残念という気持ちと、都合って一体なんなんだろうという思いが、半分ずつ心の中で交錯した。何も言わずにやめるなんて。病気でもしたのかな。それとも金銭的な問題だったのだろうか。しばらくオヤジさんと奥さんとあの味とはお別れなんだという寂しさも手伝って、それから数日間、昼食の時間がつまらなかったことを覚えている。しばらくとはいえ、それからもう二度とあの味を口にすることは無かった。やがて時が流れ、味覚すら遠い記憶の向こうに風化していった。つい最近のことだ。その場所に新しい店がオープンすることを知ったのは。私は懐かしい気持ちと共に、期待しながらその店に入った。もしかしたら昔のあの二人とあの味にもう一度会えるかもしれないと思ったからである。店内を見渡すと、内装はまるっきり変わってしまっていた。すっかり、今風に小洒落た落ち着きの無い店内になってしまっていた。ただ、偶然かどうか知らないが、今度も洋食屋さんである。「いらっしゃいませ」と、キンキン甲高い女性の声が響いた。メニューに一通り目を通した。そこにはあの頃のノスタルジックな香りは全く消えてしまっていた。厨房は見えない。若いウエイトレスが水の入ったグラスを置いた。大き目のBGMが店内の雑音に共鳴していた。ありきたりのメニューを注文し、ありきたりの料理が運ばれてきた。まずくはないが、明らかに何かが違うと思った。食べ終わって店の外に出た。灰色の雲が空一面にのしかかり、今にも雨が降りそうだった。3月だというのに少し肌寒さを感じた。コートを着てくればよかったかな。少し後悔してポケットに手を突っ込み、歩いた。無性に温かみが恋しくなった。オヤジさんと奥さんに会いたくなった。今となっては、元気かどうかすらわからないのが辛かった。ポツリと雨が一滴、頬に当たった。←←←ポチっとな!