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カテゴリ:なぜなにすっぱん
どうも~。友人の何気ない一言で久々の哲学モードのスイッチが入ってしまったシムカです。
陸上部時代には圧倒的に女子の部員が多く、男の先輩は一人だけだったのですが、 昨日、その先輩が久々に暴君を伝って私に飲もうと言ってきたので、0時発後に行って来ました。 故に昨日…いや、今日の深夜更新が出来なかったわけですが、そんな事はどうでもいい。 1歳年上、つまり大学4年なのでまさに就職という壁にぶつかっているわけでして まぁその愚痴を聞いていたと言っても過言ではありませんでした。 酔っていたのでしょう、会話の中で「俺って何の為に生きてるんだか」なんて悲観的な事を 言い出したのでまぁまぁと話を聞いていく中で疑問が一つ浮かんだ。 この知識人や有名人、哲学者や詩人などがよく挙げる「何の為に生きる」だとか 「人生は何の為にある」だとかいった問題提議に対しての正しい答えとは何か、とね。 情けない話ですが先輩に問われた時、私は上手く答えられませんでした。 私なりの考えは無論、ありますがそれは必ずしも答えでないのは明白です。 さて、となるとここは先人に聞くのが妙案と思い、以前話した倫理学を担当するゼミの教授に 聞く為に先ほど大学に行って来ました。いやまぁ、元々講義があったというのもありますが。 聞いた話を簡単に要約してしまうとこんな感じでした。 「人生の目的が見つからないのなら色々な事に挑戦してみるといい。 君達はまだ若いのだから様々な可能性と選択の余地がある。 悩む事は良い事、その中で人生の目的や何の為に生きるのかを見つけていくんだ」 あぁー素晴らしいですね。いわゆる模範解答といいますか、高校の先生とかが言いそうですね。 でもこれ、どうでしょうか。真実、何一つ答えになっていないのではないでしょうか。 面白いですねー大人って。いやまぁ私も成人しているのでこの表現には語弊があるかもしれません。 しかし、概念的な大人というものは子供からの問いに無理にでも答えようとするものです。 まぁ、この答えを否定はしませんけど、以下に私の考えを書いてみたいと思います。 一介の学生の戯言と吐き捨てるも良し、一個人としての考えと見てみるも良し、 いずれにせよRSやらなんやらは一切ないので素直に戻るのが一番無難でしょうね。 貴方も物好きですね…( ´_ゝ`) 「人は何の為に生きるのか」これはつまりあらかじめ終わりがある事を表している。 終わりとは“死”である。(この場合、宗教的な“死”に関しては除く) この問いは“死という終わり”を迎えるまでに“何を目的として生きるべきか”である。 それは同時に“己が人生に意味を与えたい”という希求心の表れが理解出来ないだろうか。 人生に目的を据える事が必須だと仮定した場合、その達成を成して或いはその過程によって 意味がないと夢想する人生に意味を与える欲求が深層意識にあり、それを満たしたいが為に 「人は何の為に生きるのか」という問いに帰結するのであると思われる。 真実、教授は人生に目的・意味という概念がある前提で私に話をしていた。 つまるところ意味を欲し、「人生の意味」に関する問いを投げかける者は 己が人生を無意味、目的のないものと定義付けていると思われるのだが如何だろうか。 さて、では無意味とは何だろうか。 例えば終電が行ってしまった駅のホームで電車を待つのは無意味だろう。(始発を待つとは別に) 例えば使われなくなった駅の誰一人としていない駅前で客を求めるタクシーは無意味だろう。 例えば遊園地でデートの約束をしたが、急用で無理になってしまったのに待つのは無意味だろう。 このように様々な目的においてその関連性が失われた場合、人は無意味さを意識する。 「走った」→(何の為に?)「終電に間に合う為に」→(未達成)「終電に間に合わなかった」 「勉強した」→(何の為に?)「金持ちになる為に」→(未達成)「金持ちになれなかった」 では両者の“無意味”とは同義であろうか。 前者は1日にも満たない出来事、後者は一生に関する出来事であり時間的な差だけでも大きい。 また、前者は走った事もそうだが、もしその後もホームで待つなどという行動をすれば、 その無意味さを強く感じだろう。 しかし後者は果たして金持ちになれなかった事で自身の人生が無意味と強く感じるだろうか。 私はそうは思えない。 そもそも、後者に意味・無意味を当てはめる事こそが間違いではないのだろうか。 つまり、私は人生というものにあらかじめ意味や無意味然り、目的などないのだと言いたい。 噛み砕いて言うと終電だとか、デートだとか、そういった小さなプロセスが日々であり、 そのプロセスもとい日々をすべからず包括したものが人生なのである。 であるならばその日々の意味・無意味の多さで人生の意味・無意味を決めるのだろうか。 否、そもそも“人生”などという抽象的なものに意味や目的を与える事は不可能なのである。 では、将来就きたい職の為に努力する事、またそれを目的にする事だったりというのは その実、人生それこそが無意味であり無価値なものであるという事なのだろうか。 ところがこれも否であり、それではただの虚無主義者(ニヒリズム)である。 私が考えるに我々の考える或いは求める人生の目的や意味などはあくまで“過程”である。 過程(プロセス)であるならば目的、終着点があるはずであるがそれは何であるか。 至極単純、それは“生の充足”である。 「金持ちになりたい」「人の為に何かしたい」「スポーツ選手になりたい」「有名になりたい」 あくまでこれらは過程でしかなく、全て行き着く先、目的は自己の生の充足である。 つまり最初に戻り先輩の台詞、「俺って何の為に生きてるんだか」に対する答えはそれであり、 迷っているのは目的ではなく、いかなる過程を以って辿り着くかなのであろう。 またそれに関連する問いは“生の充足”はどのようにして得られるのかとの問いである。 さて、ここで終わらせてはただ問いの真意を言っただけで教授の言と大差がない。 先に述べた短い/小さなプロセスの中での意味・目的の意識というのは無意識下で行なわれる。 故に本来当てはめるべきではない“人生”においても当てはめてしまうのが人間である。 果たして動物が「自分は何の為に生きているのか」など考えるだろうか。 彼らの思考はあくまで刹那的であり、意味・目的云々は人間特有のものなのである。 しかしならばその特有のものを人生に意味や目的はないと排斥され納得出来るだろうか。 難しいだろう。故に「人は何の為に生きるのか」との問いは 「人は何を以って生の充足を得られるのか」との問いに変わるのだ。 我々は“過程”を“目的・意味”と捉え、生への充足、言い換えれば生きる意欲を得る。 何せ生の充足を得るのはあくまで自分であり、それが達せられるなら虚構でも構わないのだ。 つまり私の結論としては、「人は何の為に生きるのか」との問いは 虚構の“目的・意味”或いは“過程”を答えとして求めているのである。 なんだ、それでは別に今、我々が抱いている意識と変わらないではないかとの懸念は尤も。 だが私の言いたいのはそういう事ではなく、気負う必要はないという事だ。 自分には或いは自分の人生には意味が、目的が、価値がないと卑下するのではなく、 元よりそんなものなどなく、全ては“生の充足”に帰結するのだという意識から始める事が 大切なのではないだろうかという考えに至ったのである。 以上を以って私の幼稚極まる戯言を終わりにさせて頂く。 んでは本日はこの辺で~。今日もビリッと頑張るぞーっ!(>ω<)ノ ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.11.06 18:08:44
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