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2022.05.02
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​​​​2022年4月に放送されたNHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか? abc予想証明をめぐる数奇な物語」(=完全版(90分)+簡略版(60分))を閲覧しました。NHKという看板(やその看板から推測される潤沢な予算)と立派に釣り合う、高精細なCG技術や世界規模の取材ネットワークとは裏腹に、残念ながら、多くの視聴者の誤解を招くような、様々な不正確な内容もありました。誤解や不正確な情報の拡散に歯止めを掛けるためにも、また最も中核的な当事者である私自身の考えに関する明示的な記録・「証言」を残すためにも、番組内の不正確な内容について、この度、ブログ記事という形で補足的な解説を公開し、警鐘を鳴らすことに致しました。
 
 
 
番組の「前半」の評価
 
本論に入る前に、ここで言う「前半」の定義について説明しますと、素数やABC不等式の解説から、A・Bとラベルが付いた球面の解説(=つまり、Aの「2」がBの「4」、Aの「4」がBの「16」と繋がっているという解説)辺りまでの部分を指すとします。このABC不等式の解説にしても、A・B球面(=理論の用語で言うと、「テータ・リンク」)の解説にしても、内容は概ね適切で、CGも立派でしたので、多くの視聴者にとっては消化しやすい、NHKという看板と立派に釣り合う解説になったように思います。特に、A・B球面(=「テータ・リンク」)の解説の中で、掛け算と両立的であるが、足し算と両立的ではないという部分は立派だったように思います。
 
「前半」の場合、解説の「本筋」が適切だったことを考えると、「前半」全体に対して(文句なしの、ただの)「合格」という評価を与えたいところですが、残念ながら何件か、「本筋」には該当しないとしても一定の重みのある側面について、誤解を招くような不正確な内容も含まれていたため、「ぎりぎり合格」という評価にせざるを得ないという結論に至りました。
 
まず、「宇宙」という用語ですが、「望月が導入した概念・用語」という主旨の解説になっていますが、これは単純な事実誤認です。よく知られていることですが、「宇宙」という概念・用語は1960年代のグロタンディークの論文「SGA4」に遡るものであり、私が生まれる何年も前から数学者の間で用いられていた概念・用語です。一方、グロタンディークが考えていた数学では、別々の宇宙が登場しても、その間の関係性は、足し算と掛け算の両方が共に有効である「環論的」な対応付けによって誘導されるものであるのに対して、宇宙際タイヒミューラー理論では、A・B球面の解説にあった通り、掛け算とは両立的であるが、足し算とは両立的でない対応付けによって誘導される、別々の宇宙間の関係性を考えます。つまり、「宇宙」という概念が新しいのではなく、別々の宇宙の繋ぎ方が新しいということです。このような状況が、まさに​(私が実際、新たに導入した用語である)「宇宙際」という​用語が物語っている状況です。ここで説明した経緯については番組内で幾らでも簡単に軽く言及することができたはずなのに、不正確な解説が行なわれたことは残念です。
 
次に、私のプリンストン大学での学位論文のテーマの解説ですが、数学の場合、一般に(=少なくとも、当時のプリンストン大学においても、また現在の京都大学数理解析研究所においても)学位論文のテーマは原則として学生が、(実際に学位論文の提出期限までに得られた研究成果を参考にして)自由に決められる性質のものであり、指導教員が与えるテーマは、(初めて本格的な研究に取り組む立場にあることが多い)学生を支援するための「ヒント=サービス」のようなものであって強制力のあるものではありません。ですから、番組内で主張されているように、指導教員に「ABC予想」を学位論文のテーマとして与えられなかったことを私が「残念がった」等というはあり得ない、可笑しな話であります。実際には、より現実的なテーマである、フルウィッツ・スキームに関するテーマを与えられたのですが、予定よりだいぶ早くそのテーマに関する研究成果を得ることができたため、1991年1月に、もし時間が余っているのなら、(ABC予想に非常に近い)「エフェクティブ・モーデル予想」について考えてみたらどうかという主旨の提案を、指導教員からいただきました。ご本人はその場面を余り記憶していないか、もしくは余り本気度のない提案のつもりだったかもしれませんが、私にとってはとても印象的な場面だったので、そのときの板書の様子等も、今でも鮮明に記憶しております。
 
最後に、プリンストン大学で学位を取得後、米国では「引く手数多」の非常に恵まれた状況にあったにも関わらず、京都大学数理解析研究所の助手として就職したことがとても不可解であるという主旨の(番組側の)状況認識を面白可笑しく解説する場面が番組内に出てきますが、これは実際に当時あった状況に対する基本的な誤解に基づく解説であり、とても残念です。本ブログでも度々解説していることですが、当時の(と言っても30年後の現在の方がより激しくなっている気もしますが)米国での状況は、社会的な面においても、職業的な面においても、私にとっては極めて厳しいものでした。詳細については本ブログの他の多数の記事に譲りますが、簡単に総括すると、米国での状況は、
 
       皆が皆、お互いに訳の分からない、出鱈目で
       頓珍漢な異邦人のようにしか思えず、誰の
       手にも負えない複雑度に圧倒されながら生活
       している戦場のような状況で、正常で人間
       らしさのある人間関係はいつまで経っても
       成立しない状況でした。
 
このような状況ですと、当然仕事にも諸に影響が生じます。就職した当時の数理研の関係者は鮮明に記憶していると思いますが、あの頃の私は本当に死に掛けているような、かなり厳しい状況にありました。特に、指摘するまでもありませんが、「引く手数多」どころではありませんでした。数理研で与えていただいた様々な貴重な機会がなければ、現在の自分がどうなっていたかと思うと、正直なところ、恐ろし過ぎて考える気にもなれません。
 
 
 
番組の「後半」の評価
 
「前半」以降(=「A・B球面」以降)の部分を以下では、「後半」と呼ぶことにしますが、少なくとも「本筋」の数学的解説が立派だった「前半」と打って変わって、「後半」では、視聴者をいわば煙に巻くような、一種の「トンデモ系」路線に、番組のナレーションが舵を切ることになります。これは、NHKという看板の「威信」という面から言っても、(国民の血税で賄われていると思われる)潤沢な予算という面から言っても、また(多くの人が分かりにくいと認識している)理論を番組の前半と同等に明快な語り口で(NHKらしい重みや品格を添えて)解説する絶好の機会であったという面から言っても、個人的には残念でなりません。
 
本論に進む前に、「後半」の「本筋」を復習しますと、数学では、ポワンカレ以来「同じものを同じと見做す」ことが基本であったのに対して、望月はその考え方を抜本的に覆し、「同じものを違うものと見做す」という考え方を導入したという主旨の主張を、クレタ人の矛盾めいた話や、(オウム真理教による、「ポア」の正当化等の「トンデモ系」説法を彷彿とさせられる)仏教的な思想に絡む石庭の話を援用しながら解説しています。別の言い方をしますと、「AはAであって、同時に非Aでもある」という、自己矛盾していそうな、不思議な謎めいた考え方が望月の理論の基本となっていて、それが海外の研究者には受け入れ難い考え方であるという解説です。実際、番組放送後、この「AはAであって、同時に非Aでもある」という不思議な考え方を褒め称える(残念な!)内容のメールが、番組の視聴者から(私の大学のメール・アドレスに)何通も届きました。
 
まず、誤解がこれ以上広まらないように明言しておく必要があるように思いますが、
 
​      「AはAであって、同時に非Aでもある」と​
​      という、あからさまな論理矛盾を来たしている​
​      ような主張は私としても、全くの出鱈目であり、​
      ​宇宙際タイヒミューラー理論とは無関係​
 
であります。一方、「同じものを同じものと見做すか、それとも違うものと見做すか」という話は、恐らく通常の数学用語で表現すると、
 
​      「同型なもの(=つまり、同一の'設計図'に​
      基づく内部構造を有するもの)を、​同一視​
​      するか、それとも区別するか」​
 
というような記述の、一般人向けの翻訳のつもりでしょうが、同型なものを同一視することも、区別することも、(20世紀​初頭に遡る)公理的集合論によって当たり前に記述できる​考え方であり、つまり古くから純粋数学全般で広く知れ渡っている当たり前な考え方であり、決して私が最近になって導入した考え方ではありません。
 
​​番組内では、三個のリンゴの話が度々登場しますが、この「三個のリンゴ」という考え方自体、それぞれのリンゴが​「同型」であるという認識がなければ成立しませんし、また「同型であるにも関わらず、それぞれのリンゴは同一視せずに区別する」という考え方がなければ、「三個」という概念も成り立ちません。(つまり、区別しないで同一視してしまうと、「三個」は「二個」になったり、「一個」になったりするということです。)完全版の最後辺りに出てくる、平面における「x軸」と「y軸」も同じ現象の一例になります。(つまり、「x軸」も「y軸」も、一次元の直線と同型になりますが、同一視せずに区別して扱うようにしないと、「平面」という幾何的図形は成り立ちません。)もう一つ初等的な例(=詳しくは、理論の解説論文 ​[EssLgc]​ 2.4.6 をご参照下さい)を挙げると、一般に数字の記述に使われている十進位取り記数法における、「一の位」の「1, 2, 3, ..., 0」は、「十の位」の「1, 2, 3, ..., 0」と、抽象的な数学的対象としては内部構造が「同型」なものですが、同型であっても、「一の位」と「十の位」を区別して扱うようにしないと、(当たり前ですが)十進位取り記数法の仕組みは成り立ちません。​​
 
高級で斬新な理論の解説は別として、学部レベルの数学教育という立場から考えても、同型なものを場合によっては同一視したり、場合によっては区別したりすることは、(上述の公理的集合論に立脚した)数学では当たり前な操作であって、繰り返しますが、決して私が新たに導入した考え方で​はありません。また「AはAであって、同時に非Aでもある」と​いう、あからさまに自己矛盾するような主張は(当然、宇宙際タイヒミューラー理論も含め)公理的集合論を基礎とする数学では断じてあり得ません。つまり、番組内でこのような解説が行なわれたことによって、一般の視聴者に対して、数学の研究とはどういう​ものであるかについてかなり著しい誤解・混乱を拡散したこと​​​になり、論理的な・数学的な思考の普及数学教育の観点​​​から見ても極めて遺憾であります。​
 
では、番組後半の「本筋」に根本的な問題があるとすれば、​​(予備校風の)「正解」「模範解答」は一体何なんだろう​​と、気になる読者の方がおられるかもしれません。例えば、実際に番組前半にあった「A・B球面」の解説の延長線上で、
 
   宇宙際タイヒミューラー理論では、球面の「A」と「B」
   を勝手に区別したり、同一視したりして整合性のない議論
   を展開していると誤解する人もいますが、そのようなことは
   一切ありません。むしろ、​不思議な形で繋がった状態の​
   「A」と「B」を(同一視せずに)区別したまま、大きな
   入れ物の中に埋め込んで、その入れ物の幾何を調べること
   によって「A」と「B」の間の距離は、実はそれほど大きく
   なく、不等式で上から抑えることができることを、「遠
   アーベル幾何学」と呼ばれる数論幾何学の一分野による手法
   を用いて示します。
 
といったような、単純明快な解説は(NHKらしい、立派な高精細なCG技術を駆使した形で)幾らでも簡単にできたはずです。また、更にもう少し時間の余裕があれば、加藤文元氏の​ビデオや​解説本​にあったような、携帯電話間の通信による喩えを用いることによって、「遠アーベル幾何学」において数学的対象の対称性からその対象の内部構造を復元する仕組みについて解説することもできたはずです。
 
もう一つの「模範解答」の例として、(理論の解説論文 ​[EssLgc] 2.4.7 (v)に記載されている)球面の幾何による解説が挙げられます。こちらの模範解答では、(「A球面」、「B球面」の代わりに)
 
    一つの球面の北半球と南半球の、赤道線による
    貼り合わせ=繋ぎ方を考えます。理論では、北半球と
    南半球を勝手に区別したり、同一視したりして整合性
    のない議論を展開していると誤解する人もいますが、
    そのようなことは一切ありません。むしろ、不思議な
    形で張り合わさった=繋がった状態の北半球と南半球
    を(同一視せずに)区別したまま、球面全体という入れ
    物の中に埋め
込まれたものとして扱い、その入れ物の
    幾何(=球面上の経線等、大円に
よる幾何に対応する
    ような幾何)を調べる
ことによって北半球と南半球の
    間の
距離は、実はそれほど大きくなく、不等式で上から
    抑える
ことができることを、「遠アーベル幾何学」と
    呼ばれる
数論幾何学の一分野による手法を用いて示し
    ます。
 
といったような解説になりますが、このような解説も、NHKらしい、立派な高精細なCG技術を駆使した形で幾らでも簡単に実現することができたはずです。
 
なお、NHK流解説の定番ということで、19世紀の権威ある数学者を登場させないと気が済まないということであれば、(前述の「トンデモ系」路線の正当化に、不幸にして駆り出されてしまった)ポワンカレではなく、ワイエルシュトラスとリーマンの複素関数論への正しいアプローチを​巡る、

     「代数的真理」(=ワイエルシュトラス側)対
     「幾何的夢想​
​」(=リーマン側)の有名な論争

を紹介することが幾らでも簡単
にできたはずです。この論争では、リーマン面の幾何を用いるリーマンのアプローチがワイエルシュトラスの批判の主たる対象ですが、リーマン面はまさに(前述の北半球と南半球の話もその一例になりますが!)複数の同型な複素平面内の領域を、区別したまま張り合わせることによって定義されるものです。加藤文元氏が予てから度々指摘していて、かつ ​[EssLgc] §1.5でも解説している通り、この19世紀の論争におけるワイエルシュトラスの批判には、宇宙際タイヒミュー​ラー理論の論理構造を誤解している研究者による、まさに時代錯誤的な批判との​類似点が(実に不思議な位に!)数多く見られます。
 
​​最後に、番組後半において制作陣がいわば「トンデモ系」路線に手を染めるきっかけとなった「動機」と思われる経緯について言及したいと思います。一言で総括しますと、つまらない誤解(=​以前のブログ記事​でも、​[EssLgc]​ でも度々解説している通り、日本でいうと、修士課程レベルの数学でも十分解説可能な誤解)が原因で宇宙際タイヒミューラー理論に対して否定的な立場をとっている海外の研究者と、(私を含め)理論に深く関わっている研究者を、同時に持ち上げたい=同時に盛大な「イエス!」を送りたいという無理難題への制作陣の執着「動機」になったように見受けられます。数学的に・論理的に相容れない、二つの主張を同時に肯定しようとすると、(ほぼ同義反復になりますが!)数学的な・論理的な矛盾は必然的に発生してしまいます。一方、実際の数学、実際の宇宙際タイヒミューラー理論そのものには、(「同じものを違うものと見做す」あるいは「Aはであって同時に非Aでもある」といったような)矛盾は何もありません。つまり、数学的に・論理的に相容れない、二つの主張を同時に肯定しないと気が済まないという、​​
 
​       NHKの制作陣の方針上の矛盾を、無理矢理、​
​       理論の数学的内容に責任転嫁しようとする、​
 
制作陣の、まさしく文字通り無責任な姿勢が窺えます。このような局面に遭遇すると、
 
           ​「veritas vos liberabit」​
 
(=「真実はあなたがたを自由にする」)という、有名なラテン語の格言が頭に浮かびます。つまり、上述の「模範解答」(2例)のように、数学的な内容を、NHKらしい立派なCG技術等を駆使してただ淡々と正確に解説していれば、「二つの矛盾した主張を同時に肯定しなければならない」という、無責任な上に、不純かつ実につまらない政治的な葛藤からすんなり解放されるのではないか、ということです。
 
 
 
​​海外の研究者への取材について
 
番組後半では、何名かの否定的な海外の研究者へのインタビューが出てきますが、これらのインタビューについて様々な疑問点があります。
 
まず、これらのインタビュー全般を通しての疑問点ですが、何で次のような、まさにことの核心・本質を突くような質問をしようとしなかったのか、こちらとしては不思議でなりません:
 
・数学の性質上、適切な、建設的な空気の下で論理的な議論さえ行なうことができれば、必ず共通の認識に到達することができるはずです。​今年1月のブログ記事​で言及した欧米の研究者もまさにそのとてもよい一例になりました。また ​[EssLgc]​ §1.12でも解説している通り、理論が書かれて​いる原論文や解説論文を読むことの他に、数学的対話を​行なうことが、諸々の誤解を解消する上において、最も重要な手段であると言えます。にも関わらず、もし理論についてどうしても理解できないことがあると仰るのなら、何で望月本人(または望月の周辺にいる研究者)に直接連絡して、メールやビデオ通話等を通して徹底的に議論しようとしませんか。
 
・これまでの数々の​ブログ記事​でも、​[EssLgc]​ でも解説している通り、誤解が原因で否定的な立場をとる研究者たちは、理論において同型な数学的対象たちを無理矢理同一視することを主張していますが、そのような不適切な同一視をしてしまうと、理論の論理構造の中核を成している「アンド '∧'」構造が破綻してしまいます。もし不適切な同一視を実行しても理論の論理構造に影響が生じないことを主張するのであれば、この理論の論理構造の中核を成している「アンド '∧'」構造​の破綻との整合性をどう説明しますか。​
 
一方、個別の研究者についても様々な疑問点が頭に浮かびました:
 
 
ファルティングス氏の場合:
 
・インタビューでは、数学の理論は、論文を丁寧に読まなくても大まかな方針・アイデアを手短に伝えただけで理論の正否が判断できるものでないといけないことを主張しています。まず、一般論のレベルで考えても、これは全く可笑しな話で、読む側の研究者が既に精通している理論や議論に非常に近い内容の論文の場合、論文の詳細を精読するまでもなく、大まかな方針・アイデアを聞いただけで理論の正否の判断が付くことがあるとしても、多くの場合、つまり読む側の研究者が偶々慣れ親しんでいる範囲から外れている数学的手法を用いる論文ですと、論文を丁寧に読んでなおかつ場合によっては相当の時間をその内容の消化・理解に費やさないと、論文の内容を理解することはできません。これは数学全般に通じる常識と言い切ってよいと思います。なお、ファルティングス氏の場合、ご本人の研究(=1980年代後半の、p進ホッジ理論における「殆どエタール拡大」の研究が特にそうですが)の歴史的経緯から考えても上述の主張はとても不思議な主張に聞こえます。ご本人の研究論文の場合、他のp進ホッジ理論の専門家が論文のアイデアをちょっと聞いただけで論文の正否の判断が簡単にできたかというと、実態は(関係者の間ではよく知られている話ですが)それには程遠いものでした。実際、同氏は当時、まさに自分の論文を丁寧に読んでくれる研究者が余りいないことによって的外れな批判が多発しているだけだと盛んに主張していたように記憶しております。つまり、同氏の主張を時間軸に沿って総括しますと、「自分の論文を丁寧に読んでくれない研究者は断じて許せないが、他者の論文を丁寧に読むことを自分に期待するなんて到底承服できない」という、身勝手極まりない、一方的な主張のようにしか聞こえません。
 
・ファルティングス氏のインタビューの別の部分では、宇宙際タイヒミューラー理論の最も基本的な問題は、「望月が理論を説明してくれない」ことにあるという主旨の主張をしています。過去10年間にわたり、多数の研究者に対して膨大な時間を掛けて、一対一の交流や多数の講演・研究集会を通して理論を解説し、理論の理解者が多数出現しているという実態を考えると、こちらとしてはとても不思議な主張に聞こえます。また個人的なレベルで見ても、過去の数々の研究集会への招待を同氏が断ったり、昨年秋には同氏宛てに数学的対話を呼び掛けるメールをこちらから送信しても返信がなかったりと、とにかく不思議な思いが拭えません。
 
 
デュプイ氏の場合:
 
・番組後半の、特に最後の部分では、デュプイ氏の活動に焦点を当て、まるで輝かしい「希望の星」であるかのような演出をしています。一般論になりますが、同氏が行なっているような理論の普及活動に取り掛かる前に、まず自分自身、理論を適切に、きちんとした形で理解する必要があります。限定的な、中途半端な理解しかないまま活動を開始してしまいますと、自分自身の誤解を広めることにしかなりません。詳細はここでは控えさせていただきますが、このような一般論から考えると、上述の番組の演出にはただならぬ違和感を覚えます。
 
 
 
​​最後に、海外での放送用に番組の英語版(=字幕なのか、吹き替え版なのかは不明ですが)も準備中であるとの情報がありますが、本記事で詳しく解説した通り、もし番組の内容(=特に番組後半)を大幅に訂正しないまま、このような計画が実行されてしまいますと、私や私の研究に対する多数の残念な誤解の拡散や名誉棄損に繋がる可能性があるのみならず、「日本を代表するNHK」ということで、日本の国全体の文化的水準に対する「評価の下方修正」(=具体的には、冷笑?失笑?場合によっては爆笑?)を誘発する危険性を孕んでいることを、関係者の方々に是非ご自覚いただきたいように思います。​​
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





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Last updated  2022.05.04 16:53:07



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