手塚治虫「エンゼルの丘」
太陽と 月よ丘に いつまでも 手塚治虫の代表的な少女漫画っていうと、どうしても「リボンの騎士」を挙げざるを得ないのは分かりますが、それゆえに陰に隠れて欲しくない作品があります。それが、この「エンゼルの丘」、私は優るとも劣らない作品だと思うのです。さらには、当時の数多き少年向けの作品と比べても、この作品はかなり出来栄えの宜しい作品、今でもアニメ化すれば観客は大喜び間違いなしの素晴らしい作品、そう断言しちゃいます。 次から次へと読者をあきさせない展開。その幾つもの場面が小さな波のように重なり絡み合いながら大団円に向けて大きな波となる、その構成力。他の作品よりも抜きん出ていると言っても過言ではないでしょう。 まずは始まり、もうワクワクドキドキです。ルーナ姫の死刑から始まり始まり。アコヤ貝ならぬシャコ貝に閉じ込められて流されるという場面。あのボッテチェルリの絵画「ヴィーナスの誕生」が思い浮かべば、ルーナ姫の類稀な美しさに私たちは惹き込まれます。 そして舞台はエンゼルの丘から転々として日本へ。そこにルーナ姫そっくりの少女あけみが登場します。ルーナ姫とあけみの入れ替わり、もうこれだけで楽しいストーリー。 さて、あけみを取りまく家族。兄と父と母と。この家族の肖像が一つのセンテンスを作っています。そして、随分後でわかることですが、この家族に対して、ルーナ姫や姉のソレイユ姫を迫害せんとするピョーマという女性、めちゃ可愛がっている息子がいるんですよね。ピレーネ王子。で、ちょうど私が再読した文庫版の巻末に作家の中平まみさんが解説している、これが彼女の私的環境もあるのでしょうか、とっても的を得たコメントが中にあるんですね。そのまま抜粋。「極悪非道のピョ―マにしても、じつの子ピレーネ王子に対しては、かなしいほどに情愛のある母親でとほうもなくやさしい。わが子を心配してこころを砕いている。だが、それがじぶんたちの『利』おびやかす(と、彼女は信じ込んでいる)ルーナ姉妹には、慈悲のかけらもなく、残酷残虐のかぎりを尽くそうとする。わたしの身辺にも『ミニピョーマ』たちが居る。子を産み、母になり、視野が開けるなぞとんでもなく、“わが子かわいや”で目が曇り、“うちの子さえしあわせならいい”といった自分本位、自己中心が往々にして見受けられ、つくづく『ひとは度し難いものである』という感想をもつ」 いかがでしょう。ピョーマだけじゃなく、あけみの母親の改心も見ると、これって確かに、この作品の重要なテーマでしょうね。21世紀の子育てをする親たちに読んで欲しい、そう思いませんか。 でも、そんなテーマだけじゃない、この作品はもっと面白いのです。これらのお話を切り盛りする中心にいる原動力ともいえる存在、あけみの兄、英二のスタンスで見てみましょう。彼がルーナ姫の姉ソレイユ姫への想いから、私たちは、エンゼルの丘の人々がもともと人魚族ということも含め、アンデルセンの人魚姫の世界を思い出しますよね。人魚姫とは、上半身が人間の女の子で下半身はお魚。それは夢が膨らむ話だけど、じゃあ男の子は、というくだりで、上半身は魚で下半身は人間という絵が出てきて、ついつい笑ってしまいます。あはは。 それから、日本の民話も思い出しませんか。エンゼルの丘を龍宮に見立てれば、英二という存在は、あの浦島太郎。そして、途中で亀が登場します。しかも、ここでは、亀の大群。その見開きの大群の絵の中に、ヒゲオヤジ亀を筆頭におかしな亀が混ざっていますよ。面白楽しの手塚ならではの群集シーンであります。鯛やヒラメの舞い踊りならぬ人魚族たちの踊りのシーンはミュージカルさながら。 それから、チーチーとココという動物のお供。サルとオウムですか、これ、サルとキジ、あ、犬がいませんね。犬は、ひょっとすると、はじめはピョーマの手先だったベターとチャーかもしれません。桃太郎のお話が思い出されます。 そんなこんなで、この「エンゼルの丘」、むっちゃてんこもりのエンターテイメントでもあると思うんです。「有名なリボンの騎士」、続編とも言える「双子の騎士」、それから「虹のプレリュード」。そうした少女漫画の中でも、この「エンゼルの丘」はまことに秀逸なる作品ではないでしょか。