手塚治虫「グリンゴ」
日ノ本に 一番の支え 我がママよ 日本人という名の日本人が主人公です。姓が日本(ヒモト)、名は人(ヒトシ)。商社マンのエリートなんですね。冒頭では、若輩ながらも生え抜きの出世、海外支店の支店長赴任。そこから物語は始まります。 本来なら、そのままサクセス・ストーリーを築いて欲しい、そう思うのですが、彼の実力もさることながら、彼は専務派の子飼い。社は専務派と常務派の派閥抗争。専務派が大きな流れを作っている中で彼も日向を生きてきました。 実は彼、入社自体はエリートではありませんでした。相撲一辺倒でありながら、背が足らなくて草相撲で終わらざるをを得なかったんですね。それが、相撲好きなのかな、専務に拾われた。そんな彼にとって、専務は社長以上の存在。おそらく、彼がフランス人の妻と結婚し、可愛い娘さんをでかしたのも、彼にとっては専務サマ様なんでしょうね。 しかし、そういった派閥争いのもとでの存在価値を認められている人間、いつまでもうまく行くわけではありませんね。専務の飼い犬であれば、専務が失脚すれば飼い犬もそれなりの境遇。それが、この「グリンゴ」という作品における、日本人(ヒモト・ヒトシ)の苦しみなんですね。彼自身、名は体をあらわすではないですが、日本人として生きることのアイデンティティを相当命綱にしています。でも、それが、たかだか専務と言う存在のおかげでガタガタと狂うんです。だいたい狂うのは当たり前で、彼のアイデンティティの命綱は、日本人として生きることそのものよりも、そう生きる彼に目をかけていた専務の傘の下、その影響が大きかったわけです。 こういう話って、日本の封建社会、いや済みません、現代は封建社会ではないですね。でも、日本人らしい生き方って、何故か封建的なことを好んで自ら受けていると思えるのですが、間違いでしょうか。 そうそう、こんな件があります。専務辞任とともに常務派の動きが始まった社の中で、彼はどんどん辺境の地へ。そんな中、日本(ヒモト)が妻に喋ります。「俺は今まで、地の果てまで飛んで、なんとかその土地の人間と心を通じあってきたのに。ここはまるっきり・・・。エレン、お前、割と平気なんだな。孤独感は感じないのか」 すると、彼の妻であるエレンは言います。「イイエ、アタシ、今マデ一度ダケ、モット変ワッタ国行キマシタ。アタシ、孤独デシタ。パパノ国、日本へ初メテ行ッタトキデス。日本、世界ノドコノ国ヨリモ変ワッテイマス」。 日本人は「井の中の蛙大海を知らず」という言葉を知っているはずです。それを歴史的には鎖国時代にとどめ、明治以降はそうではない、そういうふうに思いたいはずですね。しかし、いまだに、日本は他の国から見れば変わっているかもしれないわけです。 さらに、面白い件があります。日本(ヒモト)一家が転々とする中、南米のとある村に着きます。東京村というところ。そこでは日本は一度は太平洋戦争には負けたけど今では勝利を得ている、みんなそう思い込んでいる日本人の村なんですね。そこには、日本人の典型がいっぱいいらっしゃる。そして、な、なんと、日本(ヒモト)くんは、うろたえます。これが日本か、と。もっとも日本人らしいはずの日本(ヒモト)くんが、その世界に対し拒否反応を起こすのですね。さて、日本人とはなんぞや。そして、日本という国を形成している社会って、はたして何だろう。 信頼していた専務も寝返り、放り出される日本(ヒモト)くん。裏切られる日本ですよね。そして、会社とは、社会とは。そんな中、はじめは日本に驚き桃の木の孤独感に苛まれていた妻エレンが一番の心の支え。ありがたきかな少数単位での家族。 さて、そんなことも気がつかない日本人よ、日本国はどこへ行く。日本人よ、どこを彷徨える人よ。そんなこんなを書こうとして挑んだ手塚氏は、その答えを書かずにこの世を去ってしまわれました。あたかも、一人ひとりが考えなさい、そう言っているかのようです。もちろん、それは日本人としてではなく、その前に一人の人間として。