手塚治虫「ザ・クレーター」
誰だって いつか屍 参に位置 短編集であります。でも、あとから、いくつかの作品を掻き集めた、とってつけた一冊ではありません。表題の「ザ・クレーター」というタイトルをもとに手塚氏が連作していった作品群です。 これは、イントロを読めば窺い知れます。「もし心の中を覗くめがめをかけさせた」ら、それが、この作品群です。 例えば「二つのドラマ」。主人公のジムが、日本人の隆一という存在と入れ替わりながら、進む物語。同一人物でありながらドッペルゲンガー的なる二つのドラマ。それは、一つに集約されます。出会います。そこでの二つの同時進行の破局。それ、実は一人の少女の心の二面性であったことが分かります。 自分と同じでありながら時代が異なる存在、「溶けた男」は、タイムスリップの教室で瓜二つの自分の行為を見ることになります。同じ生き様の前で、自らが顧みられる。 さて「オクチンの奇怪な体験」にしても、自分自身と、たまたま死に行く先で受け入れ態勢ができていないがために自らの身体を貸すことになるお話。その貸した女性との対話。まさしく、自己の中での自問自答に置き換えられます。レンタルボディとしての自らの身体に、自分ともう一人の存在。 スキーヤーが見た幻覚、「雪野郎」でも、ダブルイメージなる鹿とトラック。鹿の生命力が相手には、鹿を殺しかけたトラックに見える。その憎悪ゆえでありましょう、生存力。すごいですね。 自らを一面的に捉え、自己と他者を画一的に判断する日常に私たちに、とにかく釘を打っていますね。著っお待ちなさいよ、一方的じゃないのその考え方。クレーターは、つるつるした表面でなく、痘痕も笑窪的な存在。どんな笑顔も。 後半の作品の中から。「八角形の館」、それは人生がやり直せる館。そこで主人公の、またぞろオクチンは、漫画家とボクサーを対比させています。はは~ん、手塚氏自身がマンガと医学博士。でも、手塚氏の場合、マンガと医学博士が極端に中の悪い間柄ではない。むしろ、相乗効果が実践されています。 敢えていつの時代とは言わないとしながら、オクチンがお国のために崇拝されるお話「墜落機」は面白いですね。明らかに日本の特攻隊を想起させながら、近未来の設定、いつしかヒーローとして祭り上げられる存在の行く末を見ると、そのヒーローであることを望む国家社会にしっぺ返しをするオクチンにいたく納得。こうしたマンガが過去から未来へ、日本がどうなるべきかを示唆します。 誰でも自分の隠し持った汚点に対し警告を促す「鈴が鳴った」。これこそ虫の知らせですね。みどりちゃんという可愛い娘さんがいる喫茶店ブルンネン。「ブルンネンのナゾ」は誰もが、その所在地の峠を人生の峠と見立てていますね。桃太郎のお話仕立ての「紫のベムたち」。本当に怖いのは宇宙からの侵略ではなく、そこにおられる人間の心の中。死に際の瞬間、別の時代で10年間生きる「いけにえ」。ぶるぶる、この世で生まれてから死んでしまうまでを極めて象徴的に描いています。 さて、そして、シリーズ・タイトルにも相応しい「クレーターの男」。異界の星で生死を彷徨いながら、地球で死を迎えられない男。地球では、すべての人類が死を迎えながらも、生きる屍として真実だけを寂しく見据える男。まさしく、クレーター的存在。 ここでの物語のすべてに対し、私たち自身がクレーターなる場所から見ていることになっていることに気づかざるを得ない。となれば、どんなに客観的に見る目があり、それが永遠に通用するとしても、私たちは、クレーターから見られる景色に対し、そこから抜け出し、その景色にどう加わり、自らが行動すべきか、そう思えてきます。 クレーターから見える景色を見せられた私たちは、その鑑識眼を得られたことに感謝するとともに、最後には、それを単に見据えるだけでなく、いかにクレーターから抜け出し、景色の中の一員に参加できるのか、それが重要ではないか、そう思います。