手塚治虫「ユフラテの樹」
呪われし 奢りの進化 霊長の はたしてユフラテの樹の実はアダムとイブにおけるリンゴなんでしょうか。今回、再読して、そういえば本作品に対して我が「空想緑葉記 」サイトにかつて感想を書いていたことを思い出しました。そこに書かれた拙文を以下、そのまま記述します。 ここに登場するユフラテという樹の実は、興味深い。この実を食したものは超能力を持つ。そういえば、アダムとイブがリンゴの樹の実を食べてエデンの園を追われ、今の人間となる、その件を思い出してしまう。 ある切っ掛けで、学生三人がこの実のおかげで超能力を手に入れるのだが、結果、世界制服の野望に使用するのだ。その超能力は、心の疚しささえなければ、自然界の仲間のためにも有効なはずなのに、あたかも人間は、人間の宿命のように、そうした下卑た野望に走る。社会人でもない少年少女もそうだ。(霊長類は、やはりあらゆる物を支配したがるのか) ここには支配の究極であり、最も身近な野望が描かれている。少年が授業中に先生に向けて「死んじまえ」と超能力を働かせるのだ。目の前の同じ人間に死を宣告する。 命あるものが死ぬということへの鈍感さ、そして、必要ないものを簡単に抹殺する安直さ、これは、現代の若者の潮流だけではなく、この地球そのものを支配している(と思っている)野望ある者たちすべてに汚染されている感覚だ。話は飛躍するかもしれないが、日本の行き詰まった企業に、海外から采配を振るう経営者が到来する。これは、企業再生からすれば容易いのだ。人の感情を持ち合わせていれば到底できないことも、人を人と思わないですむので、簡単にあっさりとゴミのように扱う采配が揮えるのである。霊長類は、すべての生き物を仲間と思う前に、生き物の中で一番偉いと思う、そういう意識が潜在的にあるのだ。 ユフラテの樹は、大人向けのマンガではない。手塚治虫が、少年少女向けに描いた漫画である。ここまで描かざるを得ない、そういう地球になっていることは、間違いない。こういう樹があるのなら、もっと生物全体にプラスになることがあるはずなのに、そういう願いをこめながら。 以上、改めてこちらも再読し、この作品に対する感想は今も変わらないことを認識しました。しかし、それとともに、この感想を書いたのは、FTPでサーバ内のファイルデータを調べると、このhtmlページ、2002年のものだから、もう5年以上は経っています。その間、人の感情を持ち合わせていれば到底できないこともドンドン可能な社会に進化しているように思えます。「No More」の叫びがその進化を止めるのは、いつの日のことでしょうか。