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写真はドイツベルリン郊外にある強制収容所。「働けば自由になれる」と門に書いてある。実は障害者問題の源流はここにあるのかもしれない。 このブログでは、障害者問題について日々感じたこと、書き留めておきたいこと、考えたことをざっくばらんに書いてみようと思う。
コロぼっくるの日記 [全183件]
NHKでロッキー・フラッツの実態についての報道番組があった。 冷戦時代に核兵器を製造していた施設ロッキー・フラッツでは、ずさんな放射能対策で、労働者たちがつぎつぎと放射能汚染にさらされ、被爆していた。 そして、ガンや白血病などにかかるが、国家からの医療補償が却下され、医療すら受けられず次々と命を落としていっている。中には働いていたことすら認めず、医療補償を却下するケースもあった。 一方で、放射能による人体への影響を調べる研究のため、ロッキー・フラッツで働きガンや白血病で亡くなった労働者の死体が大量に収集され、切り刻まれた人体の一部が研究の材料にされている。 これは今だけではなく、かつて放射能漏れが問題になったとき、犬を用いて同様の実験をしていた学者たちがロッキー・フラッツの労働者に目をつけ、研究を行っていた。 つまり、人体実験である。 ロッキー・フラッツはいまは解体されたが、その解体も土をかぶせただけであり、放射能汚染はそのままに放置されている。 アメリカにはこのような施設が300以上あるとのことだ。 俗にある映画バイオハザードのような、生々しいアメリカの核汚染と国家的な人体実験を知らされた。
報道ステーションで菅総理が沖縄訪問し、仲井真知事との会談が報道されていた。 そのニュースのコメントで、見たからに「いかめしい」教授先生が菅総理への痛烈な批判のコメントを展開していた。 菅総理を学生に見立て、予習復習をしない不合格者であると酷評していた。そして、おきまりの「沖縄史をふまえて~」云々の説教が続いていた。 発言を振り返ると、単にこけ下ろしているだけの愚痴を展開し、肝心の教授として学問的な分析はまったく行うことができていなかった。おきまりの歴史を踏まえてきちんと対応しろという、誰しもが言えることを述べているに過ぎなかった。 むしろ、教授としてその席に座っているなら、新たな視点や打開策を、独自の研究成果や見解を用いて具体的に示すべきだろう。 テレビでは、このようなやたら表面的な物事しか述べられない教授や精神科医がもてはやされているが、本屋に行くと、様々な立場から鋭い知見を持った社会科学者たちが日本には控えていることに気づく。 沖縄問題にはいろんな立場があるとは思うが、肩書きや知名度は関係なしに、もっとそのようないろんな学者の意見を幅広く私は聞きたい。
テレビでは尖閣諸島をはじめとした中国膨張主義への批判が相次いでいる。ロシアや北朝鮮も訪問や「砲撃」による領土問題に動きを見せている。そこに必ずといって良いほど現れてくる議論が、歴史認識だ。 最近よく思うのは、「悪かった」とか「良かった」の歴史認識の不毛さだ。 テレビでは、過去の問題を「良かったか悪かった」で語るのではなく、正確な情報や事実関係、それを裏付ける理論的な説明に徹することが、結果として冷静に事態を見極め、日中関係を泥沼化させない有効な手立てにも思う。 かつて日本が行った満州侵略は、歴史的な事象として認識はできるが、それを果たして「悪かったこと」と見なす行為は、ヴェーバーにいう価値判断ではないか。 「悪かったか」や「良かった」かは、個人個人が自由に判断し、思うことであって、それを安直にテレビが判断を煽動することは、国民の冷静な判断を見失わせるように思う。 中国分割競争の縮図となった日露戦争では、欧米列強の中国への利害がぶつかりあい、たとえばそれを「日本が悪い」とするなら、日本の勝利を通じて中国利権を得ようと資金的にバックアップしたイギリスやアメリカも「悪い」ことになる。 満州侵略も、「日本が悪い」とするなら、イギリスが阿片を通じて進めてきた中国支配も「悪いのではないか」や、そもそも中国もかつて鎌倉時代に日本を含めて他国に侵略をけしかけてきたではないかといった不毛な議論に発展しかねない。 少なくとも、それを「悪かった」や「良かった」とするためには、かならず何にとって「悪かった」や「良かった」か、善し悪しを測定する尺度を明示しないといけなくなる。 たとえば、満州侵略は日本の資本家を潤したし、資本家からすれば「良かった」ことになる。だが、その尺度もいくらでも上げることができてしまう。 「良かったか悪かったか」という議論では、価値判断が入り込む素地を生む。尖閣諸島など一連の中国の膨張主義の評価も、このような価値判断で論じるテレビ評論家が見えるが、これを「悪い」などと評論しだすと、中国からは「日本はかつて侵略したではいか」という不毛な議論になる。 このように、「良かったか悪かった」の議論は、実は「悪」の連鎖という歴史の積み重ねの上に立たされており、簡単に判断することなど到底できないことに気づく。 この論理を踏まえるならば、この「悪」の連鎖に歯止めをかけることこそが重要ではないか。個人的には、その歯止めのかけ方は、決して戦争行為を正当化しないことだと思っている。
今日、検察庁の控訴断念により厚労省村木元局長(明日には現職復帰)の無罪が確定した。同時に、証拠隠滅容疑で大阪地検特捜部主任検事が逮捕された。 国家権力者が国家権力者を有罪に陥れる疑いのある事件に発展し、日本の仕組みとしての検察の土台が揺らいでいる。 事実とすれば、誰もが犯罪に仕立て上げられる可能性を意味し、過去に少なくとも前田恒彦容疑者がかかわった事件はそうであったかもしれない、と疑いがかけられることになる。 一部マスコミも、検察の情報に頼り切る偏った報道に問題を認めたが、新聞の片隅にさらりと「今後このようなことなないように…」とありきたりな反省文が述べられていたに過ぎない。 当の、改ざんされた証拠は裁判所では使われなかったという矛盾も残されており、この事件を巡っては不明な点が多すぎる。 さらに、なぜ改ざんが判明したのかもよくわかっていない。自浄作用が働いたと思いたいが、これまでの検察行政を見ているとそうは楽観視できない怖さがある。 国家権力には不透明な点が多すぎる。それは、不透明でなくては困るという裏返しだ。透明性を高めていくと、ボロボロと目を覆いたくなる事実が出てくる。果たしてそれに国民は耐えられるのか。少なくともその事実を思い知らされた当事者は、菅家利和さん(足利事件)をはじめ増える一方だ。
行方不明になっている高齢者が明らかになってきている。 8月5日現在で、読売新聞の調査では、100歳以上の高齢者の所在不明は計52人とある。 「所在不明」と報道しているため、急迫性がカモフラージュされているが、存在を確認できていないなら正しくは「行方不明」で、即刻捜索対象とすべきだろう。中には生存の一刻を争う人もいるかもしれない。 今回の一件で、東大阪市の日本最高齢の男性・女性も行方不明であることが発覚した(6日読売)。日本の長寿は自他共に認める日本の誇るべき数値であった。その象徴たる最高齢者が行方不明というのは皮肉なことだ。ふときんさんぎんさんを思い出すとなんだか懐かしく思ってしまう。
『DAYS JAPAN』という雑誌がある。 この雑誌では、写真を大きく使って、事実を伝えようとする。全ページにわたって写真が豊富に使われている。その内容は、戦争や事件など、一般メディアでは報道しない、報道しようとしない事実が写真を通して語りかけてくる。 例えば、戦争を理解するには、単に何人が死んだとかという統計的把握や、なぜ戦争が起こったかを理論的に整理することだけでは十分ではない。一般メディアは好きこのんでそこばかりを報道するが、最も重要なのは、「現場で何が行われたか」を理解することだ。これをありありと見せつけ、リアリティを通して頭に問いかけてくるのがこの雑誌の特徴に思う。 今回はアフリカの内戦の話に加え、今話題の映画「ザ・コーヴ」についても書かれていた。 そこでは、映画の「描かれ方」というジャーナリスティックの視点から映画が持つ問題点を指摘していたり、農林水産省が60億円という巨額を投じて調査捕鯨をしているが、実際は調査捕鯨ではなく単なる捕鯨行為であり、目的をすり替えている水産行政に海外のメディアは疑問を感じていることなどが指摘されていた。(イルカの捕獲は捕鯨の枠組みに入るため、問題が調査捕鯨にも及ぶ) 確かに、調査捕鯨については、60億円という巨額を投じて行っている国家的「研究」プロジェクトがまったく成果を生み出せず、意味をなしておらず、それが海外の日本の水産に対する疑心を招いている点は重要に思う。 『DAYS JAPAN』は、『THE BIGISSUE』と並んで、雑誌を通した社会への働きかけという点で、今日のメディアでは珍しい「生きた雑誌」という印象を受ける。 私は「戦争は絶対悪で絶対反対である」と強く思っているが、『DAYS JAPAN』は平和への思想性も持っている点で、共感する。 雑誌の末筆で、参院選を踏まえて編集者は、実はいま日本では平和の立場を明確に示している政党はごく少数に過ぎないことに問題を呈していた。結果は、平和の立場を明確に示す参議院の政党の人間は4%に過ぎなくなった。 明確な立場から、写真を通じた社会への働きかけというジャーナリズムを貫こうとする姿勢はとても共感する。 『DAYS JAPAN』ホームページ
参議院選が近い。議員を選ぶという問題は、国民どうしがどのような合意を政治に示すかが問われる。そのための指標として、マニフェストが各政党から示された。 福祉の切り口から考えてみると、大きな論点として次のようなものに集約されるだろう。それは、税率をどのように引き上げるかだ。 日本の福祉の特徴は、「低すぎる福祉水準」とともに「低すぎる租税・社会保険料負担率」である。福祉水準は、当然ながら基本的には租税・社会保険料負担率によって決まる。したがって、福祉水準を引き上げようとする立場からすれば、どのようにして租税・社会保険料負担率をアップさせ、結果として福祉財政規模を大きくしていくかが問われることになる。 これが、日本ではあまりに租税・社会保険料負担率が低すぎたし、「低い」という認識すら持てていない状況すら見られた。 医療費抑制や生活保護の水際作戦、介護労働者の労働条件の問題、自立支援法の自己負担の問題、虐待の問題、ホームレス問題、ネットカフェ難民の問題等々、今日のあらゆる福祉問題の根源は、まずはこの低すぎる租税・社会保険料負担率にあることは間違いない。(この点についてもし疑問のある人は、「国民負担率 国際比較」などでネットで検索してみると良い。日本の水準がアメリカ並みに低いことに落胆することだろう。) 税率・社会保険料負担のアップを唱えない政党は、もはやまっこうから福祉を拡充していくことに反対している立場に立っていると解して良い。 それが、日本の場合は不幸にして、福祉水準の引き上げのために増税を論じると、選挙で負けるという構造が生み出されてきた。その背景には国民の強い政治・行政不信があり、さらにそれは政治の手段としても使われてきた。まさしくそれを大きな手段にして政権に登り詰めたのが民主党といえよう。 なぜならば、自民党が福祉水準の引き上げのために税率アップを明言したことを利用し、「税率は上げずに無駄を省くことで福祉財源を確保する」というフレコミによって見事に勝利したからだ。しかし福祉財源はまったく捻出できなかったのである。 無駄をいくら削ったとしても捻出できる予算はたかだか1兆円規模という微々たる程度であって、福祉再建に必要な予算はケタが違う。無駄を削減して福祉予算を捻出するというのは、小学生でも見抜けるあまりにバカげた話であったが、それに国民は強い政治・行政不信があるものだから安易に信用してしまった。(さらにこれを最も露骨に利用したのが小泉政権だったと私は考えている) このような問題意識から、各政党の税制に対する考え方を整理すると、以下のようになる。 自民党・民主党…消費税を上げる 公明党…財源について言及せず 社民党…法人税・高額所得者の税率を上げる 共産党…大企業・富裕層への税率を上げる こうみると、それぞれの政党で、その財源の確保先が大きく違うことに気付く。自民・民主は消費税に求め、社民・共産は富裕層への増税に求めている。公明党は判断を示せていないということなので、まじめに日本の福祉を考えていないことに等しい。これを、国民がどのように判断するかだろう。(なお、消費税は逆進性が高いとは私は思わない。生活必需品には課税しないという方法もあり、消費税率をヨーロッパ並みに引き上げていくことには賛成である。) 気を付けなければならないのは、税率引き上げとセットで打ち出されている法人税の引き下げ論についてである。 日本の法人税率40%は国際的に見て高いが、自民党などが打ち出している20%という税率は、今度は国際的に見て低すぎる。しかも、法人税とともに企業が負担する社会保険料はというと、今の段階では国際的に見て明らかに低い。国際競争力を言うのであれば、少なくとも法人税と社会保険料をセットで企業負担の問題を考えていかなければならないことに留意すべきだろう。 たとえば、法人税を引き下げ、社会保険料を据え置きといった場合、結局は消費税が法人税引き下げ分の補填にしかならないというストーリーができあがってしまう。(個人的には、年金や医療、介護の被用者保険、特に雇用保険の保険料率を上げるべきだと考えている。) いかにして、福祉財政規模を増加させるか。ちなみに、昨今の経済成長は、国民生活にはなんら実感としてその果実は分配されなかった。かえって貧困を蔓延させ、福祉財政はまったく改善しなかった。経済成長が国民の生活水準を引き上げるという市場原理主義者(リバタリアン)の論理は、今日の再分配率が低い日本社会の構造ではまやかしだと思う。とくに、経済成長が税収を伸ばし、それが福祉水準をも引き上げるという論理は、単なるリバタリアンの論理への補強でしかない。 いま、私が注目したいのは、では、福祉の業界・職域団体・労働者はマニフェストをどう評価しているか、特に税制の問題についてどのような改善策を支持しているのか、である。今こそ現場の状況を踏まえながら、それぞれの現場で不足している福祉予算の量を測定し、それを実現するためには税制はどうあるべきかを国民全体にアピールし、大きく問いかけるべきチャンスではなかろうか。 ※日本が低すぎる租税・社会保険負担率であることについては、「国民負担率 国際比較」などでネットで検索するとすぐにでてくる。経済成長が国民の生活水準の向上に反映しなかった論拠としては、たとえば失業率や再分配率、貧困率などをキー概念としてさまざまな社会保障論で証明されている。 |一覧| |
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