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2008.12.03
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カテゴリ:カテゴリ未分類
「昭和二年生まれのひとりごと」第261回
http://www.h6.s044v.smilestart.ne.jp

《南京大虐殺とは》

もう一つお話して置かなければならないことは、現代に於いても中國との関係で常に出てくる問題は「南京大虐殺」と云うことです。
此の「南京大虐殺」とは、「支那事変」が起きた当初の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都の南京市を占領した際、約6週間、2ヶ月にわたって多数の中國軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、一般市民を不法に虐殺したとされる事件を云います。

中國では此の事件を「南京大虐殺」と呼び、日本では「南京虐殺」または「南京事件」と呼んでいますが、此の問題は事実の存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられているそうです。
昭和12年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に敗れた中國軍は撤退を始めて、当時の中華民国の首都であった南京を中心として防衛隊(複郭陣地)を構築して、抗戦する構えを見せました。日本軍は撤退する中國軍に対して追求をはじめましたが、兵站が整わない多分に無理のある進撃でありました。だが日本軍は中國軍の複郭陣地を次々に突破し、12月9日に南京城を包囲し、翌日正午を期限として投降勧告を行いました。しかし、中國軍が此の投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始まって、12月13日に南京は落城しました。

日本軍は南京への進撃中から色々な残虐行為を行ったと云われています。其の為に南京周辺の町村において、被害の報告が上げられています。又、1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内や城外の掃討でも大規模の残虐行為が行われたと云われています。此の城内は主に第16師団(師団長・中島今朝吾中将)が掃討を行ったと云います。

 《市民への虐殺》

市民への虐殺については、そのことを直接に指示した命令書が存在しないために確認は出来ないそうですが、当時戦闘に参加した日本軍将兵の多くが、女性や子供を含めた市民を無差別に殺害するような指示を受けたと云うことの記録や証言を残していると云います。
又、被害者側である中國人の証言からも、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたことが多く確認されたと云います。
当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーべは、安全区の警護のために残されていた警察官全員や発電所の技術者が、日本軍によって大量殺害されたことを記録に書き残しています。
第16師団長であった「中島今朝吾中将」は、その日記の中で、捕虜を取らず、殺害する方針であることを書いていると云います。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、多くの捕虜や投降兵が殺害されたのではないかと見られています。
南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹長・山田栴二少将)が捕虜14,000名を殺害したと云われています。山田少将は、此の処置は上部の組織からの命令であったことを日記に書き残していると云います。
南京北部の下関では、捕虜が収容された後に殺害され、長江に捨てられたことが、日本側、中國側、そして残留外国人の記録や証言に示されています。
また、第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報には、旅団命令によって捕虜を殺害したことが記録されていると伝えられています。

此の事件は主に外国の外交官や軍人達によって伝わったていましたが、代表的な例としては、陸軍中将岡村寧次関係の記録とか、外務省欧亜局長 石井猪太郎の日記などで伝えられていました。
南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられた訳ではありませんが、事件の初期における日本軍による殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていました。無線が日本軍によって管理されていたために、彼らは南京を脱出して日本軍の占領後に行われた略奪や大量殺害を、船舶の無線を使って報道したと云います。

此の事件の被害者数については数千人とする説から、数十万人にのぼるとするものまで様々であり、虐殺事件の存在自体を否定する説もあります。これらは日本の研究者にも数万人だとする考えをしている人が多いそうです。
このように戦争とは「殺し合い」のものですから、一般市民と雖も避けられません。此の南京事件でも相当の犠牲者が出たとは思いますが、現代でも各地で虐殺は行われています。此の南京事件で数万人が虐殺されたと今でも問題視されていますが、日本の広島・長崎に原爆を投下して非戦闘員を含めて数十万人を殺害したアメリカは虐殺とは云わないのでしょうかね?

此の南京事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺や略奪を続けていたとされ、日本軍兵士、将校の従軍日誌や回想録からも、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われています。しかし、其の反面には否定説もあって、「中國軍が民間人を巻き込むために国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ)を取っていたため」などと虐殺の責任を中國側に転嫁するような主張もあるようです。同様に、中國軍が後退するとき、後に来る日本軍に何も与えないために行った「空室野戦術」によると見る向きもあるそうです。

此の事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判と南京軍事法廷で審判されました。
極東国際軍事裁判では、事件当時の中支那方面軍司令官であった「松井石根陸軍大将」が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となりました。

また、南京軍事法廷では、当時第6師団長であった「谷寿夫陸軍中将」が死刑となりました。「谷」は申弁書の中で虐殺は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っていました。
その他百人切り競争として報道された「野田毅陸軍少尉」と「向井敏明陸軍少尉」、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして「田中軍吉陸軍大尉」が死刑となったそうです。

 《第二次世界大戦の始まり》

こうして昭和12年は終わりましたが、これが次に起こる「第二次世界大戦」の始まりになりました。

人間は地球上の高等動物とされていますが、数千年或いは数万年・・いやもっと古くから絶え間なく争い、死闘を繰り返して来た「浅はかな動物」でしかないようですね。
しかし、国際間の戦争或いは民族の闘争はこれからも繰り返されると思いますね。戦争には「仁義」もなければ「正義」も存在しないのです。戦争は「人殺し」です。喧嘩・戦争をしたら絶対に勝たなければダメです。同じ「人殺し」をしても勝てば英雄だけれど、負ければ犯罪人になってしまうんです。
戦勝国が敗戦国を裁くのです。そして戦争犯罪人は必ず敗戦国の人々です。
昔、西南戦争が起きた明治期に、戦争に負けた「西郷隆盛」は賊軍の大将になってしまいましたね。いつの時代にも「勝てば官軍・負ければ賊軍」と云うのは日本のことばかりではありません。
各国が領土の取り合い、宗教の争い、人種の差別、商圏の奪い合い、権益の取り合いなど民族間の争いは尽きる事がありません。結局人間は一つに同化することは出来ないのでしぅか?
。。。。。。。つづく
           
----- Original Message -----
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To: ??????@gb3.so-net.ne.jp>
Sent: Wednesday, December 03, 2008 10:04 AM
Subject: 3日の日記










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最終更新日  2008.12.03 14:19:10
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