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灯台

灯台

イラスト+詩「ハンバーガー・ラヴ」

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 しんしんとしている空白の世界、痺れたはずの身体はもう罪の意識も何もなく、安らぎも

優しさも切なさも、とうの昔に、消えてなくなってしまっているのに気付く。もう何も感じ

られない胸の奥に、ねじ巻きはあったのに、それはもう壊れてしまったし、自分の恋人がい

なくなってしまったという、空洞感と喪失感はやるせないほど深い。心にぽっかりと空いた

穴は、夢のようなあまやかな日々の終止符を打つ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 耳の奥、ブェルニッケ中枢へとそれは吸い込まれていった。暗闇の壁の中で、誰かがゆっ

くりと耳の内側を暖めている、それは声のようでもある、それは吐息のようでもある。

 誰かが耳の内側を光で充たしていく。そう思った時、誰かが熱心にピアノを弾いているこ

とに気付いた。なんて躍動感!――なのに、華奢で・・目をしっかと開ければ、そこにはやは

り白い小鳥はいない。この音楽室に白い小鳥はもういない。それでもそこには、白い小鳥に

しか演奏できない音楽が広がっている。雪がこんこんと降るように、それはとても静かで優

しげな音色だった。だから鼓膜を突き破るのではなく、枝の先端に止まる鳥のように優雅に

、上品に、それは僕にまた目を閉じさせ、その音楽にだけ集中させていった。そしてそれは

僕の心の目に留まる。だからそれは、僕の心を幼くし、切なくもする。

 それでも僕は白い小鳥に、手を伸ばしてみる。もうすぐ、もうすぐ・・・・・・
 
 そこにはあるはずのないものに触れてみる、透明な壁を探り当てようとしてみる。新しい

ものが待っている、それが誰もが迎える朝、そしてそれだけが僕の誇り。

 君がそうしてくれるなら、僕はこの果てしない道を進めるのだ。いつまでもそれを手繰り

寄せることができる、見えない糸さえも、僕は引き寄せることが出来る。

 やがて僕はその音をあるがままに聴くだろう。遠い旋律が聴こえてきて、僕は波間を想像

し、渚を想像し、そして砂浜を想像するだろう。波のまにまに築き上げられた夢の城は、も

う跡形もなく一瞬にしてざぶんと波がさらってしまっても。壊されてしまうのは夢の城では

ない、砂の城ではない。砂時計のような刹那的な心、さらさらと何処かに吸い込まれていく

ように思える時間の中で、白い小鳥の姿をさらってしまうのだ。

 あの音楽室を彩った緩徐なメロディーが、築き上げられた白い小鳥の世界が、爆発的な増

大と減少の中で、忽然とその姿を消してしまう。黄昏時を彩った音の洪水は、今何処を流れ

ているのだろう。ちっぽけな砂浜で製作した、ちっぽけでちゃちな砂の城が、今となっては

未完成ゆえに完成されたものであるようにも思える。

 でもそれは壊れていくのだ、そこに留まり続けることはできない。巨大な波がさらい、真

っ新になり、そこは更地になるだろう。そうやって死の痛みは消えていく、蒼白感や悲壮感

というものなどひとつまみも残らない。巻き貝も、剥がれた貝殻も、押し潰された貝殻の破

片も、扁平状のものさえも。丸っこいものも、ごつごつした石も、四角い石も、五角形の石

も、デコボコした石も、飴玉とかドロップのようなものも、ありとあらゆるセンチメンタル

なものも、白い小鳥をイメージさせるものを・・・・・・

 あの音楽室を覆い包んでいたデリケートなものは、所詮は僕の胸に迫る死への憧憬にすぎ

ず、しいては自殺への決意のようなものであったのだろう。白い小鳥はもう空を飛べない、

そしてそれはこの世界の空から消えてしまう。閉め出されてしまうのだ、まるで真夜中に突

然襲いくる孤立感のように。音楽室にうっすらと積もり積もった埃は、新しい音楽室が作ら

れた為に、もはやこの音楽室はいらなくなった、そしてここは閉鎖されてしまった。開かず

の間、何人たりとも侵入出来ない旧音楽室。

 そしてわざわざ入りたがる、奇特な輩も存在せず、棺の中のような厳かな静謐が保存され

ている。まるで昆虫採集をした後すぐに標本にしていくように、それは無理矢理に静寂を作

ってしまったようにも思える。だからここではまだ音楽が聴こえるのだろう、それは夜半も

眠らず、そこは真っ白い雪原、青い野原のように、青白い月の光と融和する音楽室は、より

深みへと誘われていく。物質の持つ雪のように凍て付いた肌にそっと触れれば、ピアノへと

ゆっくり両手を這わせ、十本指を落ち着けてみれば、僕を焦がす皓々とした月が、空の向こ

うの額縁にはめられ、雲からひび割れた光が音を響かせていることに僕は驚く。僕は首を振

りながら、ただ椅子に座り、あたりを静観していた。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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 「リズム、メロディー、ハーモニー、この三つの基本的要素で音楽は成立しているの。日

本語に訳すると、律動、旋律、和声というわけね」

 ・・・・・・彼女の卵をつるりと剥くような声が好きだ。

 ・・・でもごめん、それを僕は知っていても、音楽に対してのやる気の無さは変化しない。

 学校教師の、音楽は音を楽しむと書いて音楽と読みますという手引書。

 「色相と明度と彩色、色を知覚する三つの属性に似ている」

 ねぇ思うんだけどね、と白い小鳥は悪戯っぽい微笑みをし、白い歯を覗かせる。僕はそれ

を兎のような歯の色だと思っていた。

 D'you see?......I cannot tell.........

 これまで一度も言ったことはないけど、君のそれ、真っ白い雪原の中にいる兎を想像させ

るんだ。潔癖症さながら白いんだけど、そんなの多分、君の完璧主義者な所とか、孤独癖な

所とかを揶揄してるみたいで。何、それなら、兎は、案外くすんだ毛の色だったりするのが

いいってこと、と返されたら元も子もない気がして。

 でも、おびただしい数の聴取者を収容する文化施設、コンクールで彼女がピアノを弾く。

僕はその間にハンバーガーとポテトとコーラなんかを買ってきて、鞄に隠し、先生にお疲れ

さまっす、と後ろめたさが体育会系だよね、でも、文化系だってお腹減るわけなんですよね

、ハハ、というわけで、いま、彼女、パシリな僕の買ってきたチーズバーガーを食べてる。

 「変ねえ・・ピクルスがある・・・」

 彼女、ピクルス抜きだったこと、ふと思いだしたりした。

 「変だ、本当だ――ピクルスが生えてきた!」

 ぱちこん、とおでこにデコピンされて笑われた。

 「えっとね・・・これ、ありがと。」

 白い小鳥は、ハンバーガーを軽く持ち上げて、そんな殊勝なことを言う。でも実際、彼女

はたぶん、お礼を言うのがすごく下手だ。目も合わせないし、けど、そういう不器用な所が

あるってことは、僕が必要だっていう暗号や比喩だと勝手に勘違いしてやるのが恋人一歩手

前ってやつでしょ、というわけで、音楽室の白い小鳥とバーガータイム・・

 ・・・・・・でも、珍しいな、とは思っていた。

 ・・・・・・・・・君は珍しく、ピアノを止めて僕とお喋り。

 でも、多分張りつめてるから、息抜きでもしたかったんだろうさ、おお、おお、どうせ僕

などは君にとってたんなる都合のよいパシリであるわけですよ、とつい頭ごなしな言い方を

してしまいそうになる。白い小鳥の気持ちがわからないから、たまに不安になる。確かに彼

女は僕以外の男子と仲良くはしてないけど、ねえいいかい、と思う。ねえいいかい、白い小

鳥は恋人になるとか、メールや電話で連絡を取り合って、好きよ、とか、愛してるとか言っ

てくれる女なんかじゃない。彼女はアーティスト気質が合って、多分一生独身でも平気そう

な所がある。実際、僕は彼女に性欲があるなんてこれぽっちも思ったことがなかった。

 でも、そういう時に僕は自分の影の部分を感じる、まるで一皮剥けばヒトラーだと言うよ

うに。いいや、誰もがきっと犯罪者の卵で、いつでもその気になれば孵せる。

 しばらく話が途切れて、孤独におちかかる夕陽に僕は咽喉を鳴らす。

 「ねぇちょっと思ったんだけど、あなたなら、聴覚を奪われるのと、視覚を奪われるのと

どっちがいい? もしそう言われた時に、あなたはどっちを選ぶ?」

 音楽をやっている人間を即変人だと変換するわけではないけど、白い小鳥は突拍子のない

発言をすることが度々あった。いや、もしかしたら音楽に費やしている情熱のあまり、普段

から余計なことを考えないようにしていて、その反動のようなものが白い小鳥にはあったの

かも知れない。

 「ねぇ白い小鳥、どちらも嫌だという答えを計算に入れている?」

 「それはもう視野に入っているわよ――ただ聞きたいだけ・・」

 「ふむ、じゃあ、君が仮に結婚して夫と愛人がいるとするだろう。その時に君は夫を捨て

るのか、それとも愛人を捨てるのか君には考えられるかい?」

 ――でもこの言葉の向こう側には、僕の色んな思惑があって、そういうのを考えると、と

ても切ない気持ちになる。彼女が多分、いつか僕から離れるだろうと思ってること。多分、

繋ぎとめられないだろう、と感じていたこと・・だって彼女は多分、卒業すれば音大へ行くし

、仮にそれまでに恋人になっても、遠距離恋愛ができるのか、とは思ってる。彼女は電話や

メールなんか自分から絶対にしない。

 音大を卒業したって、たぶんコンクールで賞をもらってる彼女なら外国へ行くだろう。

 そんな彼女に、こんな話をしてるのは、もちろん、色んな思惑がある。

 「私は初めから愛人なんて作らないもの、どうせやるだけでしょ」

 そういう台詞にはいつも耳を覆って、チェッと舌打ちしたくなったものだ。大抵のこの手

の台詞は女性の口から聞きたくない。フェミニストじゃないけど、デリカシーがない。もち

ろん、僕の思惑は別として、意図は、あくまでも無理難題ということなんだから・・・

 「つまりそういうことさ、初めからどちらも選んではいけないんだ。どちらかを選ぶとい

うことは、どちらかでしかなくなった時に、物凄く後悔するだろうということさ」

 「どちらかでよかった、と再確認する気持ちだってあると思うわよ」

 「それにもしかしたらいっぺんに、聴覚と視覚だって奪われるかも知れない」

 はいはい、わかりました、と白い小鳥はつんとつむじを曲げて、ピアノの前にぺたんと座

る。白い小鳥はこんな時、自分がいかに魅力的であるかに気付いているような振る舞いをし

た。脚線美――思わずドキッとするくらい素敵な脚だ・・。

 少し小さい胸と、肩にかかる彼女の黒髪――そして窓からの斜陽・・。

 怒ったフリをしていたって、彼女の上品さが損なわれることはない。

 「でも、もし奪われるのなら・・・」

 と、白い小鳥は珍しく表情を暗くして言った。

 「でももし奪われるのなら・・・私は声帯を奪われたい――嗅覚でもいい。見えなくなっても

無理ではないけど、ピアノを弾くのは少し困難になる・・」

 (僕が傍にいるよ――僕が君の眼になる・・・)

 「聞こえなくなったら、それこそもうピアノなんて弾けないでしょ。私にベートベンのよ

うな情熱があっても、私はまだ完成された種類のピアニストではないし、まだまだ覚えるこ

とが山ほどあると思うの。それこそピアノを弾くことを断念せざるをえなくなる時期だと思

うの。勿論こんな仮定の話で、どうこう言うのはどうかとは思うけど」

 (聴こえなくなっても――君はそこで、
 
 別の、もっと違う、君だけの音楽を探せばいいさ・・・)


 ――彼女を傷つけるのが怖くて、でも多分僕は彼女より傷付くこと、傷つけられることを

怖がってる。つかず離れず傍にいても、誰かが僕等を恋人だと噂しても、本当の所は、菓子

皿の中のカステラとハンバーガーみたいなものだ。
 、、、、、、、、、
 僕だってわかってる・・もうこんな風に、彼女に惹かれるのはやめなよって――

 彼女がわからない女だったら、馬鹿と言ってやったらいい、けど、違うだろ、彼女には才

能があって、したいことがあって――それを、僕がどうこう出来る種類だなんて思う方が間

違ってる。それに僕はそういう彼女に惹かれていたから、彼女を変えるなんて気持ち、これ

っぽっちも僕にはなかった。

 いつか思い出の中の僕になって、いつか君も僕の甘酸っぱい、思い出になる・・。

 でも、あの時、離れるんじゃなかった、と後悔だけはしないつもりで・・・。

 「そもそも、君の想像力はまったく常識とかけ離れた地点にある。そんなに悲劇を想像す

るのなら、その次のステップとして、五体満足ではないけど、生きてるってことを喜ぶべき

だ――人生なんか君の思う通りにいかないんだからね」

 ちょっときつい感じのことを言うが、たんなる八つ当たりの気もする。

「・・・あなたの言う通りね。でもこう考えるのよ、実は私達人間というのは突拍子のないも

のほど、突然違う人生を生きてしまうものじゃないかって」

 ――彼女がじっと、僕の眼を静かに花や、可愛らしい猫や犬でも見るみたいに、じっと見

ていて、ドキドキしてしまう。

 でも多分、彼女がそんなことを想っていないんだって、わかってる・・。

 「・・・そんなにややこしいことじゃなくて、ただたんにそういう時の準備をしておきたいと

思うだけよ。私は今すごく大事な時期に来ていて、ただでさえ神経が過敏だって自分でもわ

かるの。神経衰弱だってなりかねないくらい、張り詰めていると思うの」

 それは僕にもよくわかる。白い小鳥が笑う時、空元気であるような気がする時があるから

だ。そして時々、あなたは私の苦労なんてわからないでしょうね、という大人びた顔をし、

まるで軽蔑するような眼差しを向けてくる時がある。

 でも僕はプロであるから、そのいわゆるひとつの専門家であり教授であり権威であるから

、いろいろ小ネタをして、彼女を馬鹿馬鹿しい気持ちにさせ、ちょっとだけ気をほぐしてや

ることなど、造作なく、じつに余念がないのである。

 (僕が傍にいるよ――僕が君の眼になる・・・)

 「でも君はわかっていない、誰だって苦しいんだよ」

 そう言ってから、僕はハッと気付いて矢継ぎ早に言葉を紡いだ。僕は思わぬ形で白い小鳥

を上から見下ろすような発言をしていたのだ。しかしこの台詞には深い意味がある。

 「でも君なら大丈夫、それは神様が保証してくれている」

 あなたは本当に気楽でいいわね、と白い小鳥は作り笑いを浮かべた。

 「でもやっぱり視覚や聴覚を失うくらいなら、いっそ声がなくなった方がいいわ。それは

それで困ったことはいっぱいあるんでしょうけど、世界はちゃんと存在しているはずだも

の。声がなくなっても、私は生きていける自信があるしね・・」

 「それは君がそこまで毒舌ではないからだよ・・それで、」

 「ちょっと待って、なに、毒舌って――」

 「・・・おっと、勘違いしていた、饒舌ではないからだよ、」

 「・・・わざとね、」

 「――わざと、と言うのが神のわざであるのなら!」

 「誰がそんな巧いこと言えって?」

 もちろん、そんなやりとりの後は決まってる。

 「もちろん、PTAだよ。筒井康隆先生も小説に書いてる」
 
 ぷっ、と彼女が吹き出す。

 「でもね、お喋りの人間にチャックをつけたら死んでしまうんだ。気が塞ぎ込んで、性格

だって変わってしまうだろうし、何より本当に声を奪われてしまった人は君の発言にどんな

ことを思うだろう」

 「きっとこう思うでしょうね、あなたなんかにはわからないって・・・・・・」

 「わかってしまってからでは、遅いってこともある・・・だからなるべく、軽はずみにそんな

ことを考えちゃいけないんだ。言霊思想や、言論一致の法則ってことじゃなくて・・シンクロ

ニシティだって、ないとは言えない」

 「でも私が奪われるのは、もしかしたら視覚かも知れないと思うの。どうしてかは知らな

いけど、もし私が視覚と聴覚を失うとしたら、まず視覚だろうと思うの」

 どうしてそんな風に思ったのかは知らないけど、実を言うと僕もそう思っていた。

 でも、それ以上、彼女の話に付き合う必要はない。

 だって、そうなったら、彼女がすごく落ち込むことがわかる。その代償はとてつもなく高

い。気丈な彼女が、自分の境遇ごときで、いや、ごときだと思う――彼女が自分は不幸ね、

と泣くとしたら、それは本当に切ないことだ。

 「ところで血の雨が降るような夕暮れね」

 「うん、今日は本当に空が赤い――でも、それは多分、君の感受性が鋭いからだよ。でも

血の臭いは雪が消してくれるよ」

 ねぇ思うんだけどね、と白い小鳥は悪戯っぽい微笑みをし、白い歯を覗かせる。おそらく

僕をからかうつもりなのだろう、気障な台詞ね、というつもりなのだろう。

 「ねぇ思うんだけどね・・・・・・」

 僕は白い小鳥を思い出す度に、いつも下らない話ばかりしていたことを思い出す。ピアノ

コンクールが近付いているのに、僕の前ではいつも緊張感のない話ばかりしていた。でもそ

の実、僕に彼女のような緊張感がなく、もしかしたら呆れていたのかも知れない。

 でも自分なりに毎日をすっきりさせようとすると、つまり有意義なものであるように心掛

けていくと、どうしてか、いつも下らない話の方に心惹かれてしまうことを今は思う。

 でも、思い出っていつも鬱陶しいな、そうだろ?・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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 でもだからこそ、生きさらばえているんだと思う。だから死んでいると言われるだけで、

死んでいるんじゃないか、いっそ死んでいた方がいいんじゃないのかと思う。心はもう生き

ていない、だから生きた心地もまったくしない。死んでいる側の思考を僕はしているのに、

それでも生きようとする身体は暖かく、溜息を腕につけば、そこはしっとりと湿っている。

でも呪わしいことに、僕は君が現れるのを待っている、まるで少女のように。でもわかって

いる。このことを知ったら、君がどう思うか?

 それさえも僕は考えない。白い小鳥がこのことを知ったら、どんなに哀しむだろう、どん

な表情で、どんな瞳で僕を見つめるだろう。でも忘れられない、このまま忘れてしまうこと

が忍びない。だから白い小鳥に向かって僕は何も言えない、どんな言葉も耳に届かない、そ

んな場所で、僕は君の姿を探してる。

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 かれこれ、十年ぶりに、彼女に会う。空港のロビーで、おや、髪切ったの、それにしても

、すっかり大人になられ、立派になられ、先生は嬉しい!

 「いつ、あなた――あたしの担任になったのよ」

 「そういう担当だろ?」

 タクシーに乗って、バーへと行く。行くまでに、お腹ぺこぺこ、機内食口に合わなくて、

と言うから、たまに行くレストランまで連れて行った。そこで、いま、ピアニストをやって

るんだって、僕に教えてくれた。

 ぐさっ、と実を言うと胸に刺さった。

 ――そんなこと、もう既に調べて僕は知っていたけれど、またどうしても君に会いたくな

って、何度か、コンサートへと聴きに行ったりしていたんだけれど、そんなこと、話すべき

じゃないね。そうさ、そんな切ないこと、いまさら話すべきじゃない。

 本当かい、よかったね、夢が叶ったね、と上辺の言葉も僕は随分巧くなった。

 そして彼女も、実際喋り方が少し変わってた。キャリアがあるからか、もう自信がついた

のか、落ち着いた話し方をする。

 ワインを飲める口にもなっていた。白ワインを傾けながら、君の瞳に乾杯!・・

 「・・・ねえ、いまでも私のことが好き?」

 「いっとくけれど、君が嫌いになったことなんて一度だってないさ」

 そう言うと、白い小鳥は僕に握手してきて、ちょっと驚いた。

 「ウィーンに来て。」

 ・・・は、と言うのが早いか、彼女が僕にキスをするのが早いか、よくわからない。

 「う、なんか、白ワインの味がある。」

 ――こんな時、なんで、ネタに走ろうとするのだ僕・・。

 「リズム、メロディー、ハーモニー、この三つの基本的要素で音楽は成立しているの。日

本語に訳すると、律動、旋律、和声というわけね・・」

 「あ、それ、昔聞いたことがあるな、」と僕・・。

 「あなたはこう言ったのよ、色相と明度と彩色、・・・」

 「ふむ、なんだか、仲のよいフラミンゴのような会話だ」

 ――だから何で、僕にネタに走る・・!

 たぶん、正直じゃないんだろう、ウィーンってどういうことなんて、僕の口からは聞けな

い。見たらわかるだろ、僕はやられキャラなんだよ。

 「私は今、・・仕事と家庭と人生について考えてる。仕事はうまくいった、私ひとりの努力

のたまもの――というのは嘘だけど、うまくいったわ。家庭というか――生活ね、これも別

にいいかなって思う。でも、人生というものを考えた時・・あなたの顔が浮かぶわ。あなたの

顔、ハンバーガーに似てるのよ」

 「ナンデヤネン! オネエチャン、そこネタで落とすのやめてくれんなはれや!」

 ・・・レストランが騒然とするほど、大きな声を出したけれど、それ以上に彼女も大きな声で

笑った。酒がまわってるからか、こころなしか顔が赤い。でも多分、酔っ払っても、泥酔し

ても、いつだって、彼女は、僕の憧れなんだな、と思う。

 「一生に一度のお願い、私と結婚して下さい――」

 その時、柄にもなく、そうだよね、ボケキャラな僕はうるっときてしまい、なんだよなん

だよ、この女、そんなの男から言わなきゃいけないじゃん、でも、やっぱりうるっときてし

まい、サッサッと目じりを拭く。目ざとい彼女ならすぐに気付きそうなのに、彼女は、動揺

してるのか、あの彼女が僕なんかに動揺するのかと思うけど、白ワインをくあっと一気に飲

み干して、ぷはあっ、とかやってる。

 ――これは人生最大のチャンスかも知れない。立場逆転? ついに、僕、やっちゃう、彼

女をちょっといじめたりとかやってしまう?・・

 僕はすっごくシリアスな声で、おほん、とか咳払いした。

 「どうしようかな・・困ったな、」

 「何が困ったよ、すでに興信所で調べて知ってるんだから」

 ――ふっふっふ、と彼女、実に黒い。

 「あ、プライヴァシーを犯されてしまった、ああ――もう、こうなっては、お婿にしか行

けない。おお、こんなに嫌だけど、お婿にしか行けない」

 結婚成立の瞬間って、こんなものかなあ、と思う。

 「では、すぐに荷物まとめてね。結婚式はしないわよ、面倒だから。仕事さっさと辞めて

ね。あと、両親と顔だけは合わせておくけど、まっ、挨拶だけだから」

 ・・・いつまでたっても、僕はやられキャラなのかなあ、と思う。

 でも、まあ、人生ってこんな感じなのかなあ、と僕は思うのであった。





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