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2011年06月18日
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キリストと神の完成

地球のために太陽があるから、太陽の価値があるのです。もし太陽系に地球がなかったら、他の島宇宙と全く変りがありません。太陽系に地球があることによって、太陽系のすばらしさ、尊さが、格段の相違で取り上げられることになるのです。
人間の命とは何であるか。地球には地球を生かしているエネルギーがあります。あらゆる生物を産みだす力を、地球は持っているのです。この力は何であろうか。どういう力があるのだろうか。これが、いわゆる物理的エネルギーです。プラスのエネルギーですが、マイナスのエネルギーが働かなければ、発動しないのです。
なぜ地球が造られたかと言いますと、死が宇宙に発生したからです。
死の力がどういうものかが、現在の科学では全然説明されていません。ところが、死の力がなければ、生の力も働かないのです。プラスとマイナスはどちらも必要なものでありまして、マイナスはプラスを働かせるために必要なのです。マイナスが基本的に必要なのではなくて、プラスをプラスとして作用させるために、マイナスが必要なのです。
皆様の人生観の中にも、マイナスがあるのです。非常に強い力で働いているのです。今の所、皆様はマイナスめ虜になっています。どのように虜になっているかと言いますと、皆様は自分が生きていると考えています。命は自分のものだと考えています。これは人間存在にとって、非常に大きなマイナスになっているのです。
自分が生きている。自分の命があるという考えは、人間自身を地獄へ引きずり込んでいく思想なのです。
自分が生れたと思わないのに、なぜ自分という意識があるか。自分が生れたいと思わないのに生れてきた。だから、命は自分のものではない。これは簡単に分かるのです。ところが、自分が生きているような気がするのです。
これが現世における皆様方の命のあり方を、自分本位にするか、自分を自分としている力にするかを決定するのです。
帰命という言葉があります。他力本願の正信偈というお経には、帰命無量寿如来という言葉が、一番最初にあります。帰命とは命が帰ることです。ところが、帰命するということの意味が分からない。今の他力本願で、帰命無量寿如来と言っていますけれど、どうすれば命が帰るか、分からないのです。
念仏を申せばいいと言います。念仏を申すことにどんな意味があるのか、どんな価値があるのか、ということです。
昔の人は、ただ黙って、ナムアミダブツをとなえていたのですが、今の人は、ナムアミダブツととなえて何の値打ちがあるかと、言いたくなるでしょう。それだけ人間が素直でなくなっているのです。
ところが、何も分からずに、ただナムアミダブツと言えばいいのか。そうではないのです。
人間の本質は、命と光です。命とは無量寿如来です。光とは無量光如来です。この二つの如来があることを、法蔵比丘という坊さんが発見した。そこで、法蔵比丘.がアミダ如来になったということを、大無量寿経に書いています。
アミダ如来は、法蔵比丘という坊さんが、悟りを開いた姿なのです。アミダ如来が天にいるのではありません。法蔵という人が、自分の本質を悟ったのです。
人は誰でも、皆、法蔵なのです。皆様が、理性と良心を持っていることが、法蔵の原理なのです。理性と良心を持っていることを文字で書けば、大無量寿経になるのです。これはすべての人をさしているのです。
皆様は本来あるべき姿に帰らなければならないのです。皆様の中に、アミダ如来がいるのです。このことを悟ることが、良き良心の本来の働きになるのです。理性が、本当の理性として働くようなつっかい棒になることが、良き良心の作用なのです。皆様は常識に従って、生活の重荷をしっかり背負わされているために、生活的な感覚からしか物が考えられないような習慣になってしまっている。自分が生活していると思っているのです。ところが、自分という人格は、死ぬにきまっている人格なのです。しかし、ちょっと病気になれば、すぐに病院に走っていくでしょう。これでは、のんびり生きていることさえもできません。
命の本源をはっきりつかまえてしまいますと、死は大した問題ではなくなるのです。死ぬか生きるかは、ただ肉体的に生活するかしないかの問題なのです。
命の本体をつかまえてしまいますと、色即是空はあたりまえになるのです。彼岸へ行く、般若ハラミタは、あたりまえになるのです。仏の悟りとか、アミダ如来の悟りは、誰でもできることなのです。
アミダ如来を天の一角にあげてしまって、金縁の額に入れてしまうことが、間違っているのです。宗教は皆、これをしているのです。
人間が生きているという事実を、洗い出せばいいのです。例えば刑事が犯罪の事実を洗い出すように、皆様も、生きているという事実を洗い出せばいいのです。人間は自分が生きているという間違った観念を持っています。これを洗い出すのです。そうすると、死なない命が見えてくるのです。死なない命を、現世に生きている間につかまえるのです。死んでからでは絶対にだめなのです。
生きているうちに、神をつかまえるという方法を、キリスト教は知らないのです。宗教はいくら勉強してもだめなのです。イエスが山の上で、姿が変ってしまった。白く輝く光のようになってしまった。これを変貌山のイエスと言います。どうしてそうなったかと言いますと、イエスの中にある神と自分とのかかわりが、外部的な状態になったのです。
イエスは生きているうちに、私はよみがえりであると言います。生きているうちに、死んでからの命のことが、手に取るように分からなければいけないのです。
宗教では、死んでから極楽へ行く、天国へ行くといいますが、神の国では一切通用しません。現世では寺や教会はありますが、死んでしまいますと、坊さんや牧師さんが言っていたことは、一切通用しないのです。宗教はどんなものでも、皆営業です。そんなものにとらわれていると、地獄へ行くだけです。
文明が花というのは、虚ろな花という意味です。花は実を結ぶために咲いているのです。花だけあっても何にもならないのです。文明は影だけです。現在の文明は、早かれ遅かれ、潰れるでしょう。学者はそれを知っていながら、それをはっきり言わないのです。文明が潰れた後の世界が分からないからです。
文明は花です。文明だけでなく、今皆様が生きておいでになることが花です。人間として咲いていますが、やがて散っていくのです。それが分かっていながら、その先のことを考えようとしない。これはどういうことでしょうか。
現世では、自分を空じてしまうという思想は、持てはやされません。しかし、現世で自分を空じますと、これほど豊かで頼りになる生活はないのです。
般若心経で言う般若ハラミタは、実行できることです。実行すると、生きている実感が全然違ったものになるのです。人間が生きている世界の外へ出てしまうのです。彼岸へ行ってしまうのです。
宗教ではない悟りはどういうものかと言いますと、開眼ということになります。眼とは世界観のことです。この世で生れてきた自分ではない、魂に気がつくことなのです。
皆様は、生れて二十四時間以内に、お母さんのおっぱいをお飲みになられました。飲み方を誰にも教えられないのに、飲んだのです。これが生れる前の感覚です。生れる前の感覚が永遠の命です。
五官の働きは魂の感覚です。五官を認識している意識は、生活意識です。五官の働きを冷静に見ていきますと、それが魂であることが分かるのです。
魂である自分を見つけようと思うなら、何を食べた時においしいと思うのか、どういうものを見た時にすばらしいと思うかを、冷静に分析してみるのです。
皆様の五官の意識は、時間空間と共に展開しているのです。時間空間は、皆様が生れる前からあったのです。時間空間が物質になったり、地球になったりしています。
時間空間の根本は何かと言いますと、プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーが葛藤しているのです。
時間空間があるのではありません。プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーが、競り合っているという事実があるのです。聖書の言葉で言いますと、霊と肉が闘っているのです。霊と肉の戦いが、時間となり、空間となって感じられるのです。だからこれは空なるものです。闘いがあるのであって、物があるのではないのです。
物理が物質になっているのです。これは中学生でも習っていることです。その根本原理は、霊と肉の闘いです。マイナスとプラスの闘いが、物理運動になっているのです。
そこで現在皆様が肉体的に生きているという事実は空なのです。肉体があるのではなく、理性、良心、五官が実体です。これを聖書は霊と言っています。
聖書は、神は霊であると言っています。神は霊です。空を実体的に説明すれば、プラスのエネルギーになるのです。これがマイナスのエネルギーである悪魔と、真正面からぶつかっている。これが天地創造になって現われているのです。悪魔が現われなければ、地球はできなかったのです。
日本人は、地球がなぜ造られたか全然分からないのです。地球が存在する原理は何か。これから地球がどうなるかが、全く分からないのです。
プラスとマイナスの闘いが物質となっていますが、これは本当の存在ではないのです。存在とは神です。悪魔は存在を消そうとしているのです。プラスのエネルギーが神の正体です。これを聖書は神の御霊(みたま)と言っています。
神の御霊を崇めることを、皆様の良心が望んでいます。良心が皆様を訴えています。なぜ訴えているかと言いますと、現在皆様が肉体的に生きていることを、鵜呑みにしているからです。それが良心には気に入らないのです。
イエスの復活は、やがて地球が復活する事の予表です。現在の地球は物体的な地球であって、永遠のものではありません。プラス、マイナスのバランスがくずれてしまいますと、地球は消えてしまいます。文明どころか、地球そのものが消えてしまうのです。新約聖書はそういうことを堂々と書いているのです。地球が変質することを、はっきり書いているのです。ですから、本当は発売禁止にしなければならないものなのです。ところが、新約聖書を発売禁止にすると、世界とのつきあいができなくなるのです。
地球は生まれかわるのです。人間の肉体も生まれかわるのです。本当の命が分かりますと、肉体がイエスの復活のボディーに変ってしまうのです。イエスは生きている間に、彼のボディーが変ったのです。
人間は現世を去ると、だいたい千年の間眠っています。その後に目を覚まします。その時皆様は、いやでも新しい世界を経験させられるのです。イエスの復活は、すべての人が復活することを示しているのです。
十二月が過ぎると、やがて来年の一月になります。古い年が過ぎ去って新しい年がくるように、地球も、古い地球を脱ぎ捨てて、新しい地球に転換することが、必ずあるのです。人間も、古い命から新しい命へかわるのです。この勉強をしなければならないのです。
欧米人はこの勉強をしていません。キリスト教の勉強はしますが、本当の聖書の勉強をしていないのです。これを日本人がしなければならない責任があるのです。
日本人でなければ、ユダヤ人に向かって堂々と発言できないのです。白人国家はだめです。ユダヤ人に恩があるか、憾があるからです。だからユダヤ人を相手にけんかができないのです。日本人はできるのです。文明国の中で、日本人は新しい文明の根本的な原動力となる、唯一無二の民族なのです。
自分の常識で自分の良心を考えていたら、死んでしまうことになるのです。常識で考えないで、非常識で良心のことを考えるのです。肉体的に生きている人間は、仮の姿なのです。
時間空間とは何か。天然自然のことです。天然自然と人間の運命は同じであって、自分自身を天然自然の中に入れて考えるのです。天然自然の中へ入っていくのです。
天然自然の実体、時間の実体は何かということが分かってきますと、今生きていることの意味がよく分かってきます。





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最終更新日  2011年06月18日 19時47分26秒
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