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カテゴリ:七福神めぐり
○椙森神社-すぎのもりじんじゃ(恵比寿)
ここもまたビルの谷間の神社ですが、ここには境内があります。 ・椙森神社 椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の 乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所とい われています。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために 山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰 した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下 の三森(烏森・柳森、椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷 と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建 の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が 行われ、当社の富も人々に親しまれていました。 明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰さ れましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿 は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。 境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた 富興行をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十 八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区 民文化財に登録されています。(案内看板より) ”富くじの塚”というのは日本でもここだけだそうです。 今でも”宝くじ当選祈願”として、多くの人が参拝されているとか。
鉄筋コンクリート製の白い本殿がビルの谷間に映えます。
○宝田恵比寿神社(恵比寿)
椙森神社から江戸通り方面へ向ったところに宝田恵比寿神社があります。 ここも恵比寿さんが祀られています。 しかし、なんというか・・・・駐車場の間にぽつんと・・・・・。 ・宝田恵比寿神社 宝田神社は慶長十一年の昔三百六十余年前江戸城外宝田村の鎮守様 でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居 を命ぜられ(現在宮城内楓山付近)ましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安 申上げ住民を引卒してこの地に集団移転したのであります。馬込勘解由と云う人は家康公が 入府の時三河の国から随行してこの大業を成し遂げられた功により、徳川家繁栄の御祈念 の恵比寿様を授け賜ったので平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが 今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り馬込勘解由は 名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、遠江、 美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸 開発と商売発祥の地として大変賑わったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を 並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神社は商売繁昌、家族繁栄の 守護神として崇教者は広く関東一円に及び毎年十月十九日「べったら市」 二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われますべったら市は「年 またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする 商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いする のであります(案内看板より) 「べったら市」には「べったら漬」の屋台がずらりと並ぶそうです。 また、この神社は”宝田稲荷神社”として”宇迦之御魂神”も祀っています。
駐車場の中に取り残された姿が、時代に取り残されているように見えて・・・。
この近くには創業280年を誇る、ブラシの専門店”江戸屋”があります。 http://www.nihonbashi-edoya.co.jp/index.html (江戸屋)
○末廣神社(毘沙門天)
宝田恵比寿神社から地下鉄人形町駅方面へ向います、人形町駅の先に 末廣神社があります。 気をつけなくては見落としてしまそうな神社です。 ・末廣神社 祭神:宇賀之美多摩命 末廣神社は、江戸時代の初期に吉原 (当初葭原と称した)がこの地にあった 当時(元和三年から明暦三年まで) その地主神 産土神として 信仰されていました。明暦の大火で 吉原が移転してからは、その跡地の 難波町、住吉町、高砂町、新和泉町の 四ヶ所の氏神として信仰されていました。 社号の起源は、延宝三年社殿修復の際 年経た中啓(扇)が発見されたので氏子 の人たちが悦び祝って末廣の二字を冠した ものです。(案内看板より) 明暦の大火で吉原が移転した後に末廣神社という名前になったということです。
まわりにはビルが。 その3へつづく
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Last updated
2010.03.31 23:00:20
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