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何回かにわたって書いてきた覚書。 とりあえず、直接にシェアしたいと思った内容は前回まで。 今回は、自分自身のためのちょっとした補遺。 ブログを自分自身のためのノートとしても使っているので、ご寛解を。 ★ ひとつは修行の必要性について。 大乗仏教では、みんなに出家することまでは求めない。 日々の暮らしを大切にしながら、それでも彼岸へと至る道を示す。 ぼくもクライアントのみなさんに、きびしい修行のようなことは求めない。 ふつうに楽しく、幸せに暮らすためだけならばそこまでする必要はない。 ちょっとした智慧を理解していただき、そして自分の内なる大きなゴミを掃除したり、その方のもっているエンジンキーのようなものを回していただく──くらいのことは、うまくいけば1時間のセッションでも可能だろうし、まぁ少しの期間やりとりをさせていただくうちに、かなりの方が何らかの感触を得ていただくことができる。 けれども悟りを求めるというレベルになると、じっさいにはある程度本気で修行をしないとむずかしいのではないか。 自分自身がやってみて、そう思う。 今回は正味10日間の合宿だったけれど、ある程度の意識状態までいくのに、最低そのくらいの時間は日常生活から離れ、連続集中してワークをしないとむずかしい。 1週間じゃあ足りない。 ほんとうを言えば、もっと深いところまでいくのにあと2-3日はほしかったくらいだ。 もう一度言うと、みんながみんな修行が必要な訳ではない。 じっさいのところ、多くの方は悟りを求めることまではなさらない。 悟りを求めるってことは、あらゆる制約から自由になるということなので、みんながいっせいにそうなってしまったら社会が成り立たなくなる。 だから社会には、そのような酔狂な人間は一定の割合以上には増えない仕組みのようなものがある。 でも、ひとりが修行をすると、確実にまわりが変わる。 だって、その人が体験する現実はその人がつくっているのだから。 ホ・オポノポノにおいて、ヒューレン博士は刑務所付属の精神病院に配属されて、誰にもセッションをしなかったにもかかわらず、ご自身を浄化するだけでそこに収容されているみんなが改善していった。 TM(超越瞑想)では、人口の何パーセントかが瞑想をすると、その地域の犯罪率が低下するということが確認されているそうだ。 その意味でも、みんなが修行をしなくても、人類全体がシフトしていくだろう。 酔狂な数パーセントになるかどうかは、まぁ趣味の問題だ。 ★ ヴィパッサナーをしていると、「溶解」という体験をする。 ほんとうに、心身ともにとろけるような感覚に包まれる。 感覚を追いかけているうちに、特定の部位、特定の感覚に対する意識の固着がなくなったとき、そうなるんじゃないかな。 ちなみに、昨年参加したときにはそこまでは至らなかった。 今回の合宿では、何度かそんな体験をした。 ただぼくはヴィパッサナーとは別に、ふだんの生活の中でちょくちょくそれを経験している。 感覚だけをいうなら、ふだん生活の中で経験している状態の方がよっぽど強烈。 横になっているときにそれがやってきたときには、もう快感でヘロヘロになって立ち上がれなくなるほど。 たぶん女性のエク.スタシーも同じなんじゃないかな。 もちろんヴィパッサナーにおいては、嫌悪と渇望を手放すことが求められるから、その感覚がどんなに素敵なものであっても、けっして追い求めたりはしない。 そして一度その状態を経験したからといって、それは悟りや覚醒とはまた別問題だ。 一時的に、特定の部位、特定の感覚に対する意識の固着がなくなっただけのこと。 でも記憶の奥底には、過去につくった滞りが眠っているから、それが浮上してくれば、また色々な想いや感覚が渦巻く。 そうしたら、それを順次レットゴーさせる。 ぼくは耽溺癖の快楽主義者なので、溶解レベルの境地にハマりすぎちゃったけれど、まぁぼちぼちそれも卒業しなくてはとも思っている。 【松田仁 トーク&ワーク】 ぼくが今回の合宿で得たことを中心にシェアをしたいと思います。 ご関心のある方は、よかったらいらしてください。 ■東京 5月27日(日)13:00-17:00 東山社会教育館 第6研修室(池尻大橋) 合宿のシェアは以上で一段落。ほかにも書きたいテーマが溜まっちゃっているので、次回からはまた別のことを!【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】
このたび、VOICEでワークショップの講師をやることになった。 『覚醒と現実創造のための、モダン密教メソッド ~入門編~』。 【イブニングセミナー】 ■5/30(水) 19:00-21:00 ※USTREAMでも同時放映。 ■ヴォイス5Fセミナールーム (地下鉄日比谷線六本木駅、または広尾駅より徒歩10分) 【本セミナー】 ■6/9(土) 10:00-18:00 ■ヴォイス5Fセミナールーム (地下鉄日比谷線六本木駅、または広尾駅より徒歩10分) くわしくは、コチラをご覧ください。 ★ ご存知の方も多いけれど、ぼくのスピリチュアルな道の歩みの原点は密教。 けっきょくお坊さんになる気はなかったので、いまは真言宗の枠組みの外で活動をしているけれど。。。 でも、密教については手軽にその真髄を体得できる機会があまりないせいか、ときどきワークやレクチャーを求められる。 今回も、先にリリースしたDVD『12の印(いん)』と合わせて、ワークショップのご依頼をいただいた次第。 ちなみに、DVD『12の印(ムドラー)』については、コチラを。 ★ 開催についてはすべてVOICEさんにおまかせしているけれど、自分主催ではあまり密教をメインに取りあげることはないので、もしよかったら来ておくれ。 あと、VOICEさんのご好意で1名さまをご招待することができそう。 せっかくなので、フェイスブックにおける‘いいね’、ツイッターにおけるリツイート、あるいはご自身のブログ等における文章による紹介をしてくださった方の中から、抽選ということにさせていただきたい。 希望者はご一報ください。 s-cs@1-ins.jp いつものように自分主催でやる分には気軽なんだけど、人さまを巻き込んでのワークショップはやっぱり少し緊張しちゃうな(笑)【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】
まだ、もう少し書いておきたいことがあるので。。。 ヴィパッサナーでは──、そしてもともとの仏教では、シーラ、サマーディ、パンニャが求められる。 シーラは戒、すなわち戒律。 サマーディは定、すなわち意識の統御。 パンニャは慧、すなわち智慧。 シーラ(戒)を守ることによって、自分のうちにあらたな苦しみの原因をつくることを防ぐ。 サマーディ(定)すなわち意識の統御によって、過去に自分の内側に蓄積してしまった不純物を浮上させる。 パンニャ(慧)すなわち智慧をもって、その不純物を解毒する。 ★ 前回書いたとおり、過去に自分の内側に蓄積してしまった不純物は、浮上する際に苦しみの感覚が伴う。 不純物とは、かつて経験した苦しみの感覚がエネルギーをもったまま記憶されたものだから。 そのとき人はともすると、ふたたびその苦しみに捉まってしまう。 甦った過去の思い出に対して、「ああ、不愉快だ」と思ったり。 あるいは、浮かび上がる欲望に、「ああ、あれがほしい」と思ったり。 すると、その不純物はふたたびエネルギーを得て、あらためて自分の内側に蓄積される。 そこで、ただ見る=観ることができれば、エネルギーが放出されるので、それは二度と苦しみの原因にはならない。 それができるか否かは、パンニャ(慧)=智慧にかかっている。 ★ 仏教におけるパンニャ(慧)=智慧は、アニッチャ(無常)という言葉に集約される。 すべては実体がなく、つねに移り変わっている。 たとえば、川のように。 川はいつでもそこを流れている。 でも一瞬たりとも、その場所に同じ水が留まっているわけではない。 ぼくたちがさっき見た川と、いま見ている川は、じっさいには別のものだ。 たとえば、人の細胞は刻一刻と入れ替わっている。 何年かすると、身体のほとんどの部分は、まったく別のあたらしいものに入れ替わっている。 ものの考え方や感じ方だって変わる。 幼稚園や小学校やあるいは生意気盛りの青年時代に考えていたことで、今でも変わらないということは少ないだろう。 「私」と思っているものは、じつは実体がない。そしてつねに移り変わっている。 「あの人」と思っているものも、実体がない。そしてつねに移り変わっている。 もしかしたら、あの人は私に、かつてひどいことをしたかもしれない。 でも、ひどいことをしたあの人も、された私も、とうに移り変わってもうここにはいない。 それどころか、最初から実体などなかったのだ。 あるいは、あの人と結ばれたいと願う。 それは素敵な夢想かもしれないけれど、でもやっぱりほんとうはあの人も私も実体はないし、おなじ関係性が永遠につづくなどということはあり得ないのだ。 そのようにして、嫌悪や渇望を無化し、苦しみを解毒し、浄化する。 ★ ヴィパッサナーの合宿では、ただひたすら身体の感覚を追うことが求められる。 たとえば、痛みを感じる部分があったなら、その痛みを感じる。 それについて考えたりはしない。 たとえば、「これは長い時間座っているからだ」とか「これは持病のせいだ」とか、そういった原因や理由をくっつけることなく、ただ感じる=観じる。 ヴィパッサナーの教えによれば、その痛みが苦痛であるならば、過去に何かの形でその苦痛を記憶として残した。 その記憶が浮上した結果、いまそれを感じている。 もしかしたら直接の誘因は長時間座っているせいだったり、持病のせいかもしれないけれど、そこで感じている「苦痛」は過去に蓄積した嫌悪と渇望の記憶の再現なのだ。 それに対して原因や理由のラベルを貼ると、それがまた新たなエネルギーとなって、そこに苦しみが居座ることを正当化する。 ニュートラルに、ただ純粋な身体反応のみを感じて=観じてさえいれば、そこに付着したエネルギー=「苦痛」の記憶は放出されて、そのような身体反応はもはやその人の中では力をもたなくなる。 似たようなことは、先月参加した催眠療法の合宿でも教わった。 トラウマ探しは必ずしも必要ない。 悪い状態になった原因を探して、傷を掘り起こすよりも、ただ良い状態、健全な状態を思い出させてあげればよい。 喩えていうなら、仲たがいをしている人同士、ほんとうに仲よくなるために、仲たがいの原因を究明し、それを紐解いていこうとするけれど、たいていはお互いの思いや主張があるから、多くの場合それは平行線に終わる。 それよりも、すべてを水に流して、今この場で無条件にハグをしたほうがずっと早いはずなのに。 子どもたちが大人よりもはるかに早く仲直りをすることができるのは、それをしているからだ。 人間同士だけでない。 たとえば、日本と中国、イスラエルとパレスチナ……、ほかにも沢山あるだろうけれど、国と国、民俗と民族の争いだっておなじだ。 仲たがいの原因を究明し、それを紐解いていくにはとても時間がかかる。 そして多分、お互いが妥協抜きに、完全に納得する地点を見つけることはできないだろう。 ぼくの使うトート版タロットカードにTruce(休戦)というカードがあるけれど、それはPeace(平和)とは異なるのだということを教えてくれる。 原因の解消に取り組んでいる限り、真の問題解決にまで至ることはむずかしいのだ。 たしかに、カルマやトラウマが根強いものである場合、かんたんにはそれをレットゴーできない。 そのときにはパンニャ(慧)=智慧が有効となるだろう。 つまり、自分に刷り込まれてしまっている嫌悪や渇望のパターンが条件反射的に起動することを防ぐ、ものの見方、感じ方、考え方をもっておくこと。 でもそれは、あくまでも前提であって、問題解決手法ではない。 知恵をもって問題を解決するのではない。 智慧とは、それをもつことによってはじめから問題が問題でなくなるものなのだ。 ぼくのような仕事をしていると、ともすると原因探しをする癖がつきがちだけれど、つねにシンプルにダンマ(法)に軸足をおくように心がけたい。 まぁ、わかりやすい言葉を使うなら、ダンマ(法)とは自然の摂理であり、自然の摂理は生命の肯定として表れ、生命の肯定は別のことでいえば「愛」ということになる。 【松田仁 トーク&ワーク】 ぼくが今回の合宿で得たことを中心にシェアをしたいと思います。 ご関心のある方は、よかったらいらしてください。 ■東京 5月27日(日)13:00-17:00 東山社会教育館 第6研修室(池尻大橋) ■愛知 5月20日(日)13:00-17:00 長久手文化の家 和室 くわしくはコチラをご覧ください。 余計なことさえしなければ、すべてはうまくいく!【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】
もうすぐ金環日蝕だ。 今回の日蝕は人類の意識にとってひとつの節目となるのではないかと思っている。 もちろん意識の節目なので、不思議な物理的現象だとか、マスコミを賑わすような社会的事件が起きるという訳ではないだろうけれど。 何人かの方から、ご質問やご相談もお受けしている。 どこで見たらいいのか、何かやったほうがいいことはあるか? あるいは逆に、エネルギーが強すぎるとか、日蝕は凶兆だからという理由で、むしろ見ない方がいいとも聞くがほんとうか? ぼくの答えは一貫している。 日蝕についても、日蝕以外の問題についても考え方は同じ。 ──すべては、あなた次第。 たとえば、 風が吹くのは、よいことか悪いことか? 何かやった方がいいことはあるのか? ハングライダーやボードセイリングを愉しむにはよいかもしれないが、何かを飛ばされたり、事故やトラブルを経験する人もいるかもしれない。 あるいは桶屋が儲かったり^^ 海や山に出かけるのもよし、家でおとなしくしているのもよし。 いちばん大切なことは、自分がつねに自分でいるということ。 他人の意見は、他人の意見。 別にそれが間違っている訳ではないだろうけれど、それはその人にとっての正解。 あなたにとっての答えは、つねにあなたの中にしかない。 ぼくは前日まで名古屋出張なので、東京への帰り道で途中下車。中心食帯付近で、富士山に近く、東側が開けて、景色のよいところでその日を迎える予定!【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】
先日、とある20代のお嬢さんの個人セッションをさせていただいた。 他にいらっしゃらないわけではないけれど、ぼくのところに来てくださる方のなかではお若い部類に入る。 ある意味で、人生は30歳を過ぎてからが本番。 それまでは体力もあり、お肌もつやつや、感性も鋭く、そして考え方もまっすぐで人生をやって来れる。 ところが30歳にもなると、そうもいかない。 ほとんどの人は体力、外見的なフレッシュさ、感覚や頭脳の鋭さなどがピークを超える。 それと同時に、自分の考えてきたことが、必ずしも現実の世界では通用をしないということを思い知らされることも多い。 こうして人生の第1ステージを終えて、ある種の死と再生を果たすことが求められることを、33歳で十字架にかかったイエス・キリストにちなんで「人生のゴルゴダの丘」などと言ったりもする。 だから、20代でぼくのところにやって来るような人は、ちょっとおませさんだとも言える。 ★ さて、そのお嬢さん。 きれいで、聡明な方なんだけど、特にやりたいことがないと言う。 いっときは世間的にもよい会社にお勤めだったんだけど、何となく「自分のいる場所ではない」ということだけは判って、お辞めになった様子。 じっさいには、そのお嬢さんにはひとつ願望があり、その願望とも関係のある類まれなギフトをお持ちなんだけど、そのことについては本日の話題とは離れるのでおいておく。 ともかくお話を伺って、チャネリングをしたんだけど、なかなかしっくりくるメッセージが降りてこない。 ちなみに、「人生において特にやりたいことがない」ということをおっしゃる方は、けっして珍しくはない。 昔のように画一的な価値観や社会システムが機能していた時代には、生まれや育ちによってどのように生きるかがかなり限定をされていたし、性別や年齢によって否応なく社会の中に組み込まれるようになっていたから、「人生において特にやりたいことがない」なんてことに悩む余地すらなかった。 その後、価値観が多様化し、社会システムが不安定になるにつれ、お手本だとか、定石のようなものがない中、自分で自分の人生を創造(クリエイション)していかなくてはならなくなった。 親や先生に言われたとおりに生きてきた人、ルールとかマニュアルに従う能力だけを育んできた人は、当然迷う。 「さあ、この花の絵を描いてみましょう。絵具はこれとこれを、こんな風に使って!」みたいな教育を受けてきた人が、いきなり「何かアートしてごらん。何を描いてもいいし、別に絵具じゃなくてもいいから。あなたならではの作品を創って!」って言われて戸惑っちゃう──そんな感じ。 カウンセリングでは、そんな人には、そんな人への対処があるんだけど、今回のお嬢さんはそれとはちょっと違う。 チャネリングをしても降りてくるメッセージが今ひとつ理解できないし、こちらから問い直しても何だか答えがすれ違う。 どうやら、これまでぼくが培ってきた価値観やものの考え方では理解できないことみたい。 ふだんより時間をかけて、チャネリングと、そしてクライアントさんとの会話を繰り返しながら得た結論は──。 これまでは、人は「何者かになる」ことや「何かを成し遂げる」ことを目標にして、人生を送って来た。 たとえば、政治家になるとか、スポーツ選手になるとか、タレントさんになるとか、きちんと自活できるサラリーマンになるとか、よき妻よき母になるとか、愛にあふれた人になるとか。 あるいは、勉強してよい大学に入るとか、よい会社に入ってお金を稼ぐとか、ライフワークやボランティア活動をやるとか、修行して悟りを開くとか。 でも、これからは多くの人が、そういうものの考え方はしなくなってくるらしい。 とくに「何者かになる」とか「何かを成し遂げる」必要はない。 その人自身であり、今ここに存在する──それ以上でも、以下でもない。 だから、必ずしも人から聞かれて「自分はどんな人間か」「何をやったか、やろうとしているか」なんてことが答えられる状態でなくてもいい。 答えとしては「プータローです」とか、「将来のことは、とくに考えてないっス」っていうのは、大人的にはちょっとまずいんじゃないかと思うかもしれないけれど、全然OKなのだと。 「自分はどんな人間か」「何をやったか、やろうとしているか」その問いにきちんと答えることのできる人が立派な人間であり、そのような人になることを求める──ぼくも何となくそんな風に思ってやって来たけれど、どうやらそのような考え方は衰退していくらしい。 そこで「私は○○という一部上場企業の部長です」とか「こんな役に立つことをやって、テレビで紹介されたこともあり、年収は○○です」とか──そう答えることは悪いことではないけれど、ほんとうのその人自身を何か別の指標に置き換えることでしかない。 それよりも、存在としてどれくら輝いているかがはるかに大切なことであり、それがけっして独りよがりではなく、ほとんどの人がお互いにお互いの存在の輝きを感じ、認め合っていく……、世の中全体がそういう方向に進む。 じつは、ぼく自身が人の親であり、自分の子どもを見ていると、どうも覇気が感じられず、いったい何のために、何を目指して生きているのかも不明で、何とも歯がゆい思いをしているんだけど、どうやらこれも同じことらしい。 今回来てくださったお嬢さんも、ぼく自身の子どもも、現時点における世間的な価値観からいって、けっして今の自分のあり方をよしとしている訳ではないだろう。 でも、どうやらこの子たちは先駆者なのだ。 親として、「うん、それでいい」と言ってあげることは勇気のいることだけれど、でもその子自身と宇宙を信じよう。 彼女たちは、最高で最善の道を歩んでいるのだと。 そしてこのブログの読者には、30代を過ぎあと、何度目かのゴルゴダの丘に差しかかっている方もいらっしゃることだろう。 そんな方たちとも、今回のチャネリングメッセージを分かち合いたい。 考えてみれば、自分自身が小さな子どものころもそうだったはずだし、あるいはいま誰の子であれ小さな子どもに対して、「どんな人間か」「何をやったか、やろうとしているか」なんてことは問題にはしないはずだ。ただ、そこにいる。ただ、愛らしい。それがすべてだ。【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】
覚書のつづき──。 ヴィパッサナーでは、ひたすら自分の感覚を辿り続ける。 なぜなら、感覚こそが心と身体の接点だから。 原始仏教では、霊魂についてはあまり語らないが、要は感覚に意識を置くことでボディ-マインド-スピリットの統合を図るということ。 よく「今ここを生きる」ということが言われるけれど、どういう状態かというと、要するにつねに自分の感覚を意識している状態だといえる。 瞑想をしていると、はじめのうちは当然のことながらつぎからつぎへと雑念が湧いてくる。 馴れるまでは、その度ごとに感覚から離れて思考や感情に翻弄をされる。 けれども、ヴィパッサナーではそのことについてはほとんど触れない。 ただ、感覚を辿り続けろと。 悪戦苦闘しながらつづけていると、やがて思考や感情にも身体感覚が伴っていることが分ってくる。 思考をはたらかせると、脳には電気信号が流れ、それに伴って神経伝達物質が分泌され、それを助けるために脳に血がのぼる。 それに付随して感情が動くとき、交感神経や副交感神経が反応し、アドレナリンやインシュリンが分泌され、顔が紅潮したり、涙腺が刺戟をされたり、心臓の動悸が強まったり、息が浅くなって呼吸のペースが早まったり、筋肉がこわばったり、汗がにじんだりする。 要するに、思考や感情にも必ず身体の感覚が伴う。 ドライに言うなら、思考は主として脳の電気反応であり、感情はホルモンの分泌だ。 それに対して、人間が過剰な意味づけを与えているだけのこと。 そして、その意味づけは多くの場合、嫌悪と渇望が土台になっている。 だから、合宿のような形で安静な環境の中で籠って、不要な刺激を控えていると、自分の内側に残留、蓄積していた過去の未消化エネルギー=過去にいだいた嫌悪と渇望の記憶が浮上してくる。 それが、前回述べたように痛みや痒みといった身体の不快感や、恥や怒りや怖れなどの不快な感情といった形を取る。 あるいは、美味しいものを食べたいとか、女の子といちゃいちゃしたいとかいう欲望が妄想となって膨らむ。 もう一度確認すると、そうした不快感や妄想はもともと実在するものではなく、ほんらいの純粋な体験と嫌悪と渇望のあいだに生じたギャップだ。 そのギャップに対してふたたびエネルギーを与えないこと。 つまり、生じた不快感や妄想に対して、あらためて嫌悪や渇望の想いを注がない。 ただ感じている。 「感じる」は、「観じる」につながる。 そうすれば蓄積していた過去の未消化エネルギーは放出されて、ニュートラルになる。 合宿中毎日、ゴエンカ師による講話のテープを聴くんだけど、そのなかで「修行の中で、苦しい感覚が出てくることは避けられない。悟りへと至るためには、苦しむことが必要なのです」と言うことが語られる。 世間には「わざわざ苦しみを求める必要ない。ラクに楽しくいきましょう!」という風潮があり、それはそれで人が否定性から自由であるために悪くないスタンスだとは思う。 でも、かつて苦しみを生みだした残りカスがあるかぎり、いずれはそれが浮上をしてくる。 それは嫌悪が生んだ苦痛かもしれないし、渇望が生んだ妄想かもしれない。 それにふたたびエネルギーを与えることなくレットゴーさせるまで、何度でも永遠に浮上してくる。 あるいは底の方で渦巻いて、人生に不協和音を響かせる。 自分の内側に蓄積しているかつての苦しみを、ふたたび自分の外側に放出する際、もう一度それを追体験することは避けられない。 そのことを因果応報という言葉で説明することもできるのだろうけれど、それは単純な道徳論やあるいは物理法則の話ではない。 浄化のプロセスなのだ。 かつて苦しみであったことをもう一度体験をして、その体験をただ感じる=観じる。 嫌悪と渇望の条件反射から自由になったとき、人は解脱に至る。 苦しむことを怖れない=自分が引き寄せるものごとを嫌悪しない=ダンマ(法)を信じ、腹を括って生きる!【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】く
ヴィパッサナー合宿に関する覚書のつづき。 ヴィパッサナーでは──それはもちろん仏教ではということにもなるんだけれど──、人間の苦しみの原因は嫌悪と渇望にあるという。 嫌悪しているものが目の前にある、あるいは渇望しているものが手に入らない──それが原因だと。 前2回で書いたことに即して言うなら、嫌悪と渇望がダンマ(法)にさざ波を立てる。 「あるがまま」を歪める。 だからあらたに嫌悪と渇望をすることをやめ、なおかつこれまでに嫌悪と渇望によって蓄積した歪みを解消すれば悟りに至る。 ★ たしかにそうだなと思いつつ、でもそれを実行するのは簡単ではない。 すべての生き物は、嫌悪と渇望があるからこそ生き延びてきた。 自分の生存に都合のよいものを求め、都合の悪いものを避ける──それができるものだけが生き残る。 生物学や心理学の実験では、しばしばオペラント条件付けが使われる。 要するに、アメとムチ。 いろいろな動物や、文化や民族を越えた人々が、いずれも報酬が得られることを繰り返し、罰を与えられることを避けようとする。 嫌悪と渇望は、人間のみならずすべて生物にとって根源ともいうべき機能だ。 たとえば誰だって、何か物が飛んできたとき思わず身をかわし、身体によくないものを摂取したときにはすぐさま吐き出すだろう。 これらは、すべて人生の初期に、あるいは生物進化の過程において、不快な体験をした記憶が元になって、ふたたびそのような経験をすることのないよう、潜在意識のどこかに、あるいはDNAに嫌悪の記憶が刻まれているからだ。 嫌悪と渇望を手放すということは、これらの機能をも手放すということなのか? ★ 現時点では、ぼくもまだ最終的なところまで腹に落ちてはいない。 ただ、じっさいの体験について書いておく。 ヴィパッサナーも後半になると、瞑想中決意をもって動かないことが求められる。 たとえ、どんなに脚が痛くても、頬の上に蚊が止まっていたとしても。 昨年参加したときには、毎回最後の10分くらいは脚が痛くて大変だった。 正直言って、まったく動かずに瞑想ができるようになったのは終了間近9日目のことだった。 別に、痛くならならなかった訳ではない。 相変わらず痛いんだけど、何とかがんばってその痛みを嫌悪と結びつけずにいたという感じ。 それが、今年ははじめから痛くならなかった。 もちろんかゆみだとか他の障害もなく、動かずにいるということがまったく苦ではなかった。 とくに、この1年の間に半跏坐で坐る練習をしたとか、そういうことはない。 この1年間はまったく別の瞑想をしていて、その瞑想は動くことに制限はないので、外的な条件においては、昨年と今年で変わったところはないように思う。 でも、おなじ姿勢でおなじ時間坐っても、今回は痛みや苦痛がまったくない。 あるいは昨年の合宿では、けっこう感情の伴う雑念が出て自分でも辟易としたものだったけれど、今年はもっと穏やかに、時折忘れていた過去の記憶の断片が浮上してくる……といった程度のことだった。 ★ 多分、こういうことかもしれない。 あらたに嫌悪と渇望をすることをやめると、過去に嫌悪と渇望をすることによって生みだした不協和音の記憶が浮上する。 身体の痛みもそうだろうし、さまざまな感情の伴う思い出もそう。 自分の内なる不協和音の記憶にエネルギーが残っているからそいつが動き出し、そして一種の引き寄せのようなもので、不協和音の記憶に見合った身体現象や精神状態が惹起される。 自分の身体や感情は、その痛みや、恥や怒りや怖れなどを憶えている。 その記憶に、嫌悪や渇望が結びついている。 専門用語を使うならば、認知ラベルとか条件付けといったことになるだろう。 そして、浮上した記憶──痛みや、恥や怒りや怖れなどにふたたび嫌悪や渇望を起こすと、それがエネルギーとなってあらためて記憶として定着していく。 ヴィパッサナーはここで踏みとどまる。 浮上した記憶に対して嫌悪や渇望といった餌を与えさえしなければ、ふたたびそれが力をもつことはなく、ただの情報、ただの事実のインデックスになる。 ただの情報、ただの事実のインデックスであれば、検索をしないかぎり、それらが自分から立ち現われることはない。 自分から立ち現われるとしたら、まだどこかに想いのエネルギーが残存しているからだ。 よく、死ぬ瞬間、これまでの人生が走馬灯のように目の前を駆け巡るとかっていう話を聴くけれど、それは以上の経緯によるものではないか。 おそらく昨年の合宿の前半では、自分の裡にある嫌悪、そして過去の嫌悪が生み出した不協和音と戦っていたのだろう。 それが最後になって、とりあえず浮上した記憶に、ふたたび嫌悪や渇望のラベルを貼ることを思い止まるところまでは行った。 そしてこの1年の間、ヴィパッサナーという形で修行をした訳ではないけれど、それなりに自分の内なる掃除も進んだ。 だから今回の合宿では、そもそも嫌悪や渇望を思い起こさせる出来事や想念じたいがあまり浮かばなかった。 もちろん自分でもまだゴールだとは思っていない。 合宿が終わってシャバに戻ってくると、やっぱり今までの癖でちょくちょく嫌悪や渇望が動く。 その都度、自分をニュートラルにもどすんだけど、自分の中に過去につくった不協和音の記憶がまだゼロにはなっていないから、相変わらず揺らぐことも少なくない。 人生、死ぬまで修行だとは思っているけれど、いやいやみずからの業の深さには笑っちゃうしかないな^^ でも、それもまたよし。早く掃除を済ませることが目的ではないと思っている。狭くて小さい家をほとんど使わずに、掃除を早く済ませるよりも、広くて大きな家をたくさん使って、その上掃除まで楽しんじゃうことを選びたい。【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】
前回は「ダンマ(法)」について書いた。 「ダンマ(法)」によって生きるということについて、もう少し書き継いでおく。 下(シモ)の話だけどご容赦を。 ★ ぼくはふだんの生活では、毎日腸内洗浄をしている。 これに馴れちゃうと自力で排便しにくくなるんだけど、もちろん合宿では腸内洗浄はできない。 それに加えて、今回の合宿ではあんまりものを食べなかった。 たいして身体を動かす訳ではなく終日瞑想三昧だからカロリーを取る必要がなく、心身も澄んでくるので、たとえ菜食であっても食べ物を身体に入れるだけで心身が重たくなっちゃう。 という訳で、お通じがスムースでなくなる。 そこで一瞬考えた。 ぼくは意識の力で、割と色んなことができる。 たとえば排便であっても、自分の潜在意識と身体にオーダーを入れればお通じが来る。 だから、それで排便をすればいいや、と。 ところが今回の合宿では、指定された瞑想以外には、意識やエネルギーを使ったワークをやることは禁止されている。 ヴィパッサナー合宿の目的のひとつは、日常生活から離れてなるべく新しいサンカーラをつくらないでいること。 新しいサンカーラをつくらないでいると、これまでに蓄積した昔のサンカーラが浮上してくる。 それをレットゴーすることによって浄化がなされ、悟りへと至る。 サンカーラっていうのは、サンスクリット語ではサンスカーラ。 「有為」とか「行い」、さらにはそれらによる「残存物」とかっていうような意味なんだけど、日本人の感受性からいうと「穢れ」に近い。 人間が何かの思慮によって行動したとき、あるいは習慣や思い込みによって行動したとき、自然の営みとのあいだにギャップが生じる。 それがサンカーラ。 意識やエネルギーを使ったワークをやるのも、それにあたる。 だから、宇宙=自然の営みにまかせる。 ほんとうに排便が必要なら、あれこれ作為をめぐらさなくても自然とそのようになる。 それが「ダンマ(法)」。 という訳で、びろうな話で恐縮だけれど、ふだんのぼくのやり方とは違う過ごし方をした次第。 結果的には、毎日という訳ではないけれど、不快にならない程度にお通じはあった^^ ★ ただし、これはあくまでも合宿中の話。 たしかに、ぼくも何度も考えてきたテーマではあるんだけど、やっぱり今のところは日常生活においては意志、意図は必要だと考える。 「ああしよう」「こうしよう」と望む──活き活きと生きていくというのは、そういうことだと思う。 排便のように直接に生理的なことであれば、あれこれ考えなくても宇宙=自然の営みはストレートだろう。 でも、どこかに行きたいとか、何かの仕事をしたいとか、何かを手に入れたいとか……、そういうようなことはストレートには宇宙=自然の営みとは言いがたい。 だから自分が何を望んでいるのかきちんと焦点を合わせて、それを宇宙=自然にオーダーした方が話が早い。 「人の健全な願いは叶えられる」ということじたいは、宇宙=自然の営み、すなわちダンマ(法)。 そのようにして日常生活を、ひいては自分の人生を充実させながら、毎日の瞑想や、年に数回の合宿でサンカーラを浄化して行く──当面はそんなスタイルでやっていきたい。 このへんは、以前書いた往生と還生、修行と救済、智慧と慈悲……といったテーマとかぶってくる。【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】
今日は予定していた用事が延期となり時間ができたのでフリーデイ。 ビートたけし『絵描き小僧』展を観てきた。 いやぁ、すごい。 このエネルギー、イマジネーション、ユーモア、狂気。 要は、「つまらない」人生に対する徹底的な挑戦。 これぞアートだと思った。 そこでふと思うところがあり、若い友人にメールを打つ。 ところが、この友人、先日メルアド変更したとの連絡があったんだけど、こちらでアドレス変えてなかったのでメールがエラー。 あれあれと思っていたら、ちょうど向こうからメールが届く。 とくにしょっちゅうメールのやり取りをしているコではないんだけど、いやぁ、うまいことできている。 この友人、もともと絵とか描いていたんだけど、このたびカタギの会社に勤めることが決まった由。 絵の方もブランクがあったんだけど、また再開しようかなどと考えているらしい。 そんな彼女に送ったメッセージ。 ──絵を描いても描かなくても、営業してても何やってても、人生をアートするのを忘れるなよ! すると、返事が来た。 「人生をアートするって、どういうことよ?」 ぼくの返信。 ──何がアートかって言うのは、人によって違うと思う。 でも、自分という人間じたいが、そして自分の人生が、その人にとって「アートとは~」と思えるようなものであるか、どうかということ。 もっとも重要な作品は額縁の中にあるものではなく、自分自身がアートなのだということ。 芸術作品を創る人のことを芸術家というのではなく、芸術家の創るものを芸術作品というんだ! んで、さらに彼女からのツッコミ。 「そういう松田さんにとってのアートって何?」 ──アートっていうのかな、ぼくにとっての美は、新しくて調和が取れてること。 どんなに調和が取れていても、いつかどこかでみたことがあるようなものではテンションがたりない。 逆に、どんなに新しくても、調和が取れていなければただのひとりよがり。 ぼくもまたアートが出発点だったし、いまはもう絵筆を握ることはないけれど、アートをやめたとは思ってないから。【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】
このブログにもかんたんな報告をしたけれど、ゴールデンウィーク中、ヴィパッサナーの合宿に参加してきた。 せっかくなので、覚書をシェアしたい。 ただし、以下に書くのはあくまでもぼくの理解。 もともとのヴィパッサナーの教えを、ぼく流れにアレンジして消化している部分もある。 それと同時に、今のぼくには完全に理解しきれていない部分もない訳ではない。 一応、その点については、あらかじめお断りをしておきたい。 ちなみに、昨年参加したときの記事は下記にアップしているので、もしよかったら合わせてご参考に。 2011/06/20 ヴィパッサナー瞑想合宿 2011/06/22 ヴィパッサナー瞑想合宿:考察 2011/06/24 ヴィパッサナー瞑想合宿:体験 ★ ヴィパッサナーにおいては、「ダンマ」を重視する。 ダンマっていうのはパーリ語だけど、サンスクリット語ではダルマ、漢訳では法。 「ヴィパッサナーにおいて」っていう以前に、もちろんお釈迦さまの悟りじたいが「法」の自覚であり、仏教そのものが「法」の伝達だから、当然の話なんだけど。 つまるところ、ヴィパッサナーとはダンマ(法)を行ずることであり、その目的はダンマ(法)を修めること。 ぼくがこれまで使って来た「空(くう)」という言葉と、とりあえず同じような意味で理解してもらってよい。 「空(くう)」の質がダンマ(法)ってことになるのかな。 じゃあ、「空(くう)」とは何か、「ダンマ(法)」とは何か。 ──それを体得するために修行をする訳だけれど、そう言っちゃうと話が前に進まないので、ひとまずは「自然の摂理」という言葉に置き換えて理解してもらうといいかも。 すべてのものは「それ」の一部であり、「それ」から生まれ、「それ」へ還っていく。 「それ」と別でいることはできないし、「それ」なしでは生きてはいけないし、「それ」に支えられている。 すべてのものは「それ」のなかで生じたり消えたりしており、じっさいには「それ」から独立をした継続的な存在などない。 「それ」こそが唯一の実在であるけれど、誰も「それ」を直接見たり触ったりすることはできない。 キリスト教では「神の意志」、ギリシアでは「ロゴス」、ある魔術師は「テレマ」と呼んだけれど、いずれもが指し示しているのが「それ」のこと。 法則とか法律というのは、直接的に「法」を理解することができない人たちのために、世俗的に置き換えたものだ。 † たとえばヴィパッサナーの合宿は正味10日間、前日の夜から入って、終了翌日の朝に退出するので、足掛けで12日間、携帯もスマートフォンも預けて修行に入る。 その間、仕事や家族のことについて何も対応できないけれど大丈夫だろうかとか、世間の動きとかまったくフォローできずにいて合宿終了後にスムースにやっていけるだろうかとか、色々なことが心配にある。 そんなとき、「ダンマ」を信じることができるかどうか。 自分の修行が宇宙の営みに即したものであるならば、宇宙はそれを行うことを後押ししてくれるし、けっしてそれによって不都合なことは生じない。 「ダンマ」とはそういうものだ。 ヴィパッサナーを日本に伝えたゴエンカ師のさらにその師匠=ウバキン先生は、かつてミャンマーの大蔵省の職員だったそうな。 そして、あるとき是非ヴィパッサナーの修行をしたいと思ったけれど、「予算編成の時期だから、休みは取らない方がいいよ」とみんなに言われていたのを振り切り、クビになるのを覚悟で合宿に参加。 大きな成果を修めて職場に戻ると、机の上に一通の封書が。 やはり解雇通知かと思い封を開けたら、何と昇進の辞令だった。 当時のミャンマーは社会の上層部を、旧宗主国のイギリスやあるいは有力な隣国であるインドの人たちによって占められていたんだけど、行政改革によってミャンマー人を任命する処置が取られ、それが適用されたとのこと。 そう、「それ」は大きな全体。 ヴィパッサナーの修行も、個人の仕事も、国家の動向も、けっして別々バラバラの原理で不調和に展開している訳ではない。 そのことを理解し、そして自分のものとすること。 それが修行だ。 【松田仁 トーク&ワーク】 ぼくが今回の合宿で得たことを中心にシェアをしたいと思います。 ご関心のある方は、よかったらいらしてください。 ■東京 5月15日(火)13:00-15:30 八雲住区センター第4会議室(都立大学) 5月27日(日)13:00-17:00 東山社会教育館 第6研修室(池尻大橋) ■愛知 <トーク&ワーク> 5月20日(日)13:00-17:00 長久手文化の家 和室 くわしくはコチラをご覧ください。 上記のお話会である程度まとまったことをお伝えしたいと思っているけれど、その下準備みたいな形でこちらでも連載を進めたい。【こちらをクリックしてくれるとうれしいです! → 人気blogランキング】 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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