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ヴィパッサナー瞑想合宿を終えて、自分がどのくらいのところまで到達し、そしてこれからどのように道を歩んでいったらよいか、ヒントを求めて何人かのチャネラーさんのセッションを受けた。
こういうことって、やっぱり実際にその境地を知っている人の目から見た評価が必要。 たとえば禅の道においては、たとえその人がどんな境地を得たとしても、師匠の印可を得ない限り、自分は悟りを開いたと自称することは許されない。 自分ではいくらそのつもりでも、自分が知ることのできるのは結局は自分の枠の中のことでしかないから、独りよがりのもので終わってしまう懼れがあるから。 人によっては、「松田さんって、もうとっくに覚醒をしているんじゃないですか?」なんておっしゃってくださる方もいるんだけど、正直言ってヴィパッサナー瞑想合宿で相当な進境があった現時点ですら、自分でもまだまだだと思っている。 聖典や先達たちの示している境地は、頭では理解できてもまだ体得するには至っていなかったり、垣間見ることはできてもまだ定着には至っていない──そのように自覚している。 ★ という訳で、今のぼくには特定の導師(グル)がいる訳ではないので、何人かの信頼のおけるチャネラーさんのメッセージからヒントを求めている次第。 結論から言うと、うーーん、ちと複雑なところ。。。 どうやら今回の人生において、ぼくの魂は覚醒を得ることを一番の目標にはしていないみたい。 一番の目標は、みんなをサポートすること。 ところがぼくの魂は、ありきたりの方法を望まない。 何とかして、一発でみんなが瞬間的に救済される、、、そんな方法を求めるという癖がある。 アトランティスの時代から何世にも渡ってそれを繰り返してきた。 ──たしかに、それは憶えがある。 ところが、それはしばしば自然の摂理=法(ダルマ)に反することとなる。 当然、摩擦を生む。 それが自分自身の覚醒の妨げにもなる。 だから、はっきり言って覚醒を望むならみんなをサポートしたいという気持ちを手放して、自分自身の修行に専念する必要がある、とさえ言われた。 (これはあくまでも、ぼく自身の魂の傾向性ゆえの話であり、みなさんもそうだということではないからね) でもそう云われて、みんなをサポートすることよりも、自分自身の覚醒を優先しようという気にはならない。 それならそれで、覚醒は遅れてもかまわない。 サナトクマラはの先生は69回の転生でアセンションをしたと言われる。 サナトクマラのハイアーセルフに当るヴァイワムスは37回。 ところが、サナトクマラやヴァイワムスの先生でもあったアドニスは、アセンションをするのに2600回以上の転生をしたのだそうだ。 だから、アドニスはとても豊かな経験値を持っている。 早ければ早いほどいいという訳ではないんだ。 たとえば、誰かが5歳で覚醒したとしたらどう思う? ふつうの子どもが過ごすような幼少期も、青春も、社会人としての経験もないまま、覚者として人間をやっていく──それはそれでありだと思うけれど、少なくともそれを理想にする気にはならないんじゃないかな。 それと同じ。 ★ ちなみに、みんなをサポートするには、必ずしも覚醒をしている必要はない。 というか、覚醒をしなければ人のサポートができないというのは誤解だ。 誰でも、その人の立っているポジションから必ず他人に対してサポートをする何かがあるはずだ。 当然のことながら覚醒をしているからこそできるサポートもあるけれど、むしろ覚醒をしていないからこそできるサポートというのもある。 何て言うのかな、泥にまみれて、みんなといっしょにバカやりながら前に進んでいく、、、みたいな。 ★ いまの学びとして、自然の摂理=法(ダルマ)を顧みない方法に走ることは控えたいと思うけれど、正直言ってぼく自身はまだアレコレやってみたいと思っている。 ほんとうは自然にまかせれば、すべてはうまくいく。 別にぼくが手助けをしてもしなくても、誰しもが人は自分で道を進むことができる。 でも、もしぼくに何かできることがあればやってあげたいなと思うし、どうせやるならよろこびの伴うやり方がいいなとか、美しい方がいいなとか、ある種の新鮮な感動が欲しいとか……、やっぱり今の時点でそういう思いはゼロにはできない。 そして今のぼくは、まだ自然の摂理にさざ波を立てずにその思いを形にできる境地には至っていない。 結果的に今の延長線上で道を歩むかぎり、当面自然の摂理=法(ダルマ)に従う境地=覚醒に至ることはないだろう。 ま、これは前からそう思っていたんだけど、ぼくは覚醒に向かって道を歩みたいとは思っているけれど、それを目標にして生きるつもりはない。 そこは空(くう)であり、目標にするような「何か」ではない。 それを目標にしちゃうと、そこに一種の誤認や執着が生まれてしまう。 自然の摂理=法(ダルマ)に従って生きているうちに、結果として辿りつく境地、それが覚醒なんじゃないかな、、、と覚醒はしていないながらも思っている次第。 ★ ただ、これはぼく自身のチャネリングだけれど、ぼくにはどことなく自然の摂理=法(ダルマ)にあえてさざ波を立てて見たいという傾向がある。 もしかしたらルシファーの種かもしれない。 どうやら根が深そうだな。。。 ルシファーとしてのぼくは、多分最後の瞬間まで源に還らないことを選ぶことになるかも……。ま、それは弥勒菩薩も同じだから。【応援をお願いします! → 人気blogランキング】 [個人セッション]カテゴリの最新記事
ちょっと迷いましたが(このことを書くのにはとても抵抗があります。言葉で説明できないので)、「覚醒」という言葉の定義がよくわからなかったので、書くことにしました。
「覚醒」とは・・不意に時間が止まり、万物が輝き、周囲と一体になり、真理の情報が来る、あの体験のことでしょうか。 人生で一度ある人もいれば、ない人もいる体験。 知人は18歳で体験し、私は数年前に体験しました。 後に、それが「見性体験」と呼ばれるものだと知りました。 修行も瞑想もしていませんでした。 その後もごくふつうに生きています。 あれが「覚醒」なのだとしたら、「自然の摂理=法(ダルマ)に従って生きているうちに、結果として辿りつく境地」という感じではなく、「ただ起こる」もので・・・。 おっしゃるように、目標にするような「何か」ではないし、重要なことでもない、と思います。(2011/06/28 02:09:03 PM)
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