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相変わらず、なかなかパソコンの前に座る時間のない毎日。 ブログの方も、ときまた思いついたときに、思いついたことを書く、、、そんな状態がつづきそう。 ★ 「物語」あるいは「物語ること」に興味がある。 人が毎日の体験をどのように受け止め、そして自分自身の人生をどのように構築していくかというのは、けっきょくのところそこに何らかの意味や志向性、連続性、関係性などを見出していくことに他ならない。 要するに人は誰しもものごとを受け止める際に、何らかの「物語」に当てはめようとしているってこと。 生きがいをもって生きるとか、生きることに意味や価値を見出すってことは、毎日の生活や自分の人生が、何らかの意義ある魅力的な物語として機能しているということだろう。 逆に、自分の人生に困難を感じる、何かがうまくいっていないと感じる、あるいはつまらないってことは、物語が機能していなかったり、意味ある物語を見出せなかったり、あるいは望まざる物語に巻き込まれているってことじゃないかな。 ★ ということで、大塚英志さん『ストーリーメーカー』を読んだ。 で、ちょっとしたメモ。 本の要約でも、本に対する直接の感想やコメントでもないけれど。。。 物語とは、物の見方や感受性を文化的に伝承していくということ。 だから、子どもが大人になる「成年式」の構造をとるのに不思議はない。 物語のひとつの形に、「貴種流離譚」と「母の死」がある。 これもまた、精神分析学流のエディプス・コンプレックスとの関係において解釈をすることも可能。 すなわち、子どもが成長するということは、母子一体化の状態から、大人の一員として生きるためのルールを学んで自立をするということ。 つまり、大人の一員として生きるためのルールを学ぶということは、自分が高貴な血筋を引くものであることを思い出し、その血統に連なることを引き受けることであり、それにともなって母子一体化の蜜月から離れざるを得ない、ということに対応している。 ちなみに大塚さんによれば、日本の小説においては、男性登場人物の成熟を留保させる印象があるという。 まぁ心理学的評論の世界では、『甘えの構造』だとか『ピーターパン・シンドローム』など、すでに何度も言及されて来たことではあるけれど。 物語が基本的に「成長」や「自己実現」をめざすような構造をもっているにもかかわらず、そこに嵌め込まれるのが「成熟拒否」という中身だというところに、日本文学の特徴があるという。 ちなみに、少なくともハリウッド映画にはそのような乖離は見当たらない。 評論家の柄谷行人さんなどは、このありさまを日本文化には構造しかないなどと表現されているようだ。 なぜか。 まぁ、端的にいえば、日本男児は未熟なマザコンってことになるだろう。 でも、ぼくも日本男児だから自分自身を見つめて感じるのは、けっきょくのところぼくたちに要求されてきた構造というのは、旧来の西洋流の価値観がベースになっているってこと。 たとえば、光と闇、正しいことと間違ったことという二元性。 あるいは、人は個人として自立、独立して、自己責任をまっとうする必要があるという個人中心主義、人間中心主義。 等々、まぁ他にもあるけれど、そういうのって、一応現代的な価値観としていまだに大手を振っているけれど、かならずしも当たり前のことではないし、けっこう不適切な場面も少なくない。 大人の一員として生きるためのルールとかっていうけれど、そのルールじたいが必ずしも適切なものではないんじゃないか。 日本の小説家たちはそのことを感じつつ、それを表現するための方法を手探りしてきたんだと思う。 ぼく自身は、面白おかしく生きてるよん^^【応援をお願いします! → 人気blogランキング】 │<< 前日へ │翌日へ >> │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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