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カテゴリ:旅のいろいろ
子供のころから「ヤマト」という響きは、何か 特別なものに感じられた。それは「ヒロシマ」や 「ナガサキ」「特攻隊」や「ひめゆり」と同様に 戦後20年近くもたって生まれた私には、既に メディアから流れる術しかなかったのだが 子どもの頃に「はだしのゲン」のブームがあって それを受けたのか修学旅行は「ヒロシマ」が多く 私の場合も、中学と高校で広島に行って、実際に 被曝された方からお話を伺った 娘や息子の頃になると、高校は「オキナワ」となり 娘は、日本兵とガマ(洞窟)に避難したという地元の 方の話をきく。その時の司令官は礼儀の正しい方で あったという 戦後数十年を過ぎ、戦争の現実を知る人も少なくなり 戦争の風化が懸念されている 歴史は勝者によって作られ、滅んだものは庶民により 哀れと美化もされ・・・・。戦争ともなれば広範囲で 立場も違い様々な側面を持つ。Aにとっての真実も 後世では否定され、自分はそんなつもりなど全く 無かったと、あの世で憤る事もあるのかもしれない 同じ国であっても色んな思想があるし、立場もあるの だろう。韓国旅行中に韓国人ガイドが、「日の丸を焼く ような人は一部の人で、ああゆう事をしないと彼らも お金が貰えないので」と、申し訳無さそうに言った その時々の為政者の体制により、また国益にかかわる からと、過去の歴史となったものも、とにかく利用を しなければと持ち出したりもするが、それは第三者から 見た時に果たして100%真実であったのだろうか 日本兵は本当に悪魔なのだろうか? そのような愚かな 人間もいたのは確かだろうし、親や子を殺されたご遺族 などは、国の体制が変わっても今でも日本兵どころか 日本をも憎み続けているのだろう 「私は貝になりたい」「明日への遺言」といったように 為政者による国益や己の体制を守る、理不尽な戦争に 駆り出され、自分の意志など関係も無く翻弄をされる 名もなき兵士たちの苦悩 光市母子殺人事件において被害者のご遺族は、元少年の 死刑を受け「勝者などいない」と感想を述べた。勝ちも 負けも無い。それは戦争にだってあてはまるような気も 理不尽な理由で、いや理由すら無く戦場に駆りたてられて 命を落とし、家族を奪われ、家を焼かれて・・・・それは 勝った国だけの話だけの話ではなく、負けた国だって なんら変わりはしない 手術ご直後ながら、3月11日の東日本大震災の慰霊祭に 出席を希望されている天皇陛下は、皇后様と数年前には 太平洋戦争の激戦地となったサイパン島に、慰霊の旅に 出かけられている。そのご出発にあたってのお言葉が 「海外の地において、改めて、先の大戦によって命を失った すべての人々を追悼(ついとう)し、遺族の歩んできた 苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたいと思います。 私ども皆が、今日の我が国がこのような多くの人々の 犠牲の上に築かれていることを、常に心して歩んで いきたいものと思います」 東日本大震災が起きた晴れた日、私は娘と広島県呉市の 「大和ミュージアム」にいた。このブログにおいでになる 方は、まさか「宇宙戦艦ヤマト」のだと勘違いをされない とは思うが「呉市海事歴史科学館」ともいう 帰還は不可能。相手に突っ込んで命をかけて攻撃をする 特攻で使われた零式艦上戦闘機や、平均年齢21歳 百名もの青年の命が失われた人間魚雷「回天」といった 展示もあった その最たるものが、当時の日本の最高技術を結集し建造 された、日本海軍が建造した史上最大の戦艦大和である 旧国名であった大和(やまと)国の名を冠するだけあり 当時の軍部の期待は並はずれたものだったのだろう 正式な呼称は「軍艦大和」 昭和初期に、大型戦艦の建造が軍部で計画をされて設計を された「A140-F6」は、広島県呉市の呉海軍工廠で 戦艦長門や空母赤城も建造した「乾ドック」を大和建造の 為に拡張し、秘密裏に建造された 昭和15年8月に進水し、昭和17年2月には連合艦隊 旗艦となって、5月のミッドウェー作戦では、山本五十六 連合艦隊司令長官が座乗し出航したが、直接米軍と砲火を 交える事はなかった ガダルカナル島の戦い、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と いった歴戦を経て・・・・ 「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい これが本作戦の眼目であります」 昭和20年3月、戦況は悪化し東京、大阪、名古屋もが空襲で 焼け野原にされ、4月1日にはアメリカ軍は沖縄に上陸を果たし 4月5日、連合艦隊より「大和」に、沖縄海上特攻の命令が 下された。「天1号作戦」である その作戦は、沖縄までの片道分の燃料を積んで特攻し、自ら 浅瀬に乗り上げ動かぬ砲台となって、敵の陸上部隊を砲撃を するという 4月6日に待機中の徳山沖から出航した後に、乗組員は甲板に 集められ、この作戦は生還を期さない特攻であると知らされた 「みんなの顔色が変わりました。真っ青でしたよ。それが、 まもなく真っ赤に変わった。よしやるんだ。帰らないんだと、 体に伝わったと思いますよ」 「特攻で死んでいくことを、名誉の戦死と言いましたよね。 それを美学だとさえ、当時は思っていたんです。でないと、 17歳で特攻にはいけないと思いますよ」 (不沈戦艦大和の最期~大艦巨砲主義の悲劇~より出典) 大和出撃を察知したアメリカ軍は、新鋭空母12隻(艦載機 800機程)を迎撃させ、敵機からの集中砲火を浴びて大和は 横転、大爆発を起こした 昭和20年4月7日14時22分。大和沈没によって命を 落とした乗組員の数は、三千人を超えるという 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが 最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な 潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて 目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、 目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。 日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」 元乗組員著書「戦艦大和の最期」より出典 大和ミュージアムには、そんな大和の10分の1スケールの 模型が置かれている。大和建造の技術は今も生き続け、造船に とどまらず、自動車や家電品の生産など幅広い分野で応用され 戦後日本の復興を支えてきた 「坂の上の雲」でも取り上げられた、明治時代にロシアの バルチック艦隊を破って、日本海海戦の英雄として知られた 東郷平八郎も、呉鎮守府参謀長をされており、懐中時計が 展示されていた 平成23年3月11日に広島県呉市で撮影 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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