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カテゴリ:読んだ本
原作:ウンベルト・エーコ(1932.1.5生まれ) 1980年「薔薇の名前」執筆
訳:河島 英昭 1990年1月 日本版初版 1986年に製作されたフランス・イタリア・西ドイツ合作の映画の原作です。 ショーン・コネリー主演、作中の語り手であるアドソ役にはクリスチャン・スレーター。 と言っても、クリスチャン・スレーターの方は私は顔が浮かびませんが。(^^; 昔、この映画を見たんですが、内容がさっぱり解らなかったので、原作に挑んでみました。 ・・・・・・。 いやー、本を読みながら眠くなったのって久しぶり。(^^; 解りやすい話ではないです。 読んで理解できないというほどでもないけど。 語られているテーマが宗教(キリスト教)が中心なので、そこに興味がないと退屈です。 さらに、その時代の文化・美術について長々語る場所もありますが、それも興味がないと退屈です。 両方ともどうでもよかった私にはかなり面倒な本でした。 一応、殺人事件が起きているので、その犯人と動機を知りたかったので、とばし読みで 頑張りました。 でも、まあおかげで、今なら映画を見たら理解できる自信があります。(笑) 1327年、教皇ヨハネス22世時代の北イタリア。 山上にそびえ立つカトリック修道院を舞台に、怪事件が起きる。 それを、フランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムと、ベネディクト会の若き修練士 (見習修道士)メルクのアドソが解き明かしていく、という話。 映画では探偵役であるウィリアムをショーン・コネリーが演じていました。 怪事件は、簡単に言ってしまえば連続殺人事件。 ストーリーは、年老いて死期が近付いた老修道士アドソが、若き日にウィリアムと共に経験した 事件の7日間を振り返る形で語られていきます。 まずは、この時代の背景ですが、キリスト教は幾つもの会派に分かれ、皇帝派と教皇派の対立が 激しくなっている頃。 会派によっては異端と断じられ、火刑に処されたり、魔女狩りなども行われている時代。 ウィリアムがその修道院に行った目的は、皇帝派・教皇派それぞれの使節団がその修道院で 会談を持つことになったため、その使節団の一人としてです。 ウィリアムとアドソが修道院に着く直前に、修道院では一人の修道僧が自殺する。 しかしその死因に不審を抱いた院長が、明敏の誉れ高いウィリアムに事件の解明を依頼する ところから話が始まります。 修道院には立派な文書館(図書館)があるのですが、そこは迷宮のように入り組み、 文書館長と呼ばれる選ばれた特定の人間しか入れない。 しかし、事件を解くカギは文書館にある・・・・・という感じ。 いろいろと複雑な要素が多く、詳しく書きにくいので、以下はWikipediaからの抜粋です。 物語自体は殺人事件の真相を解明するというシンプルなものだが、その背景に、喜劇について論じた詩論とされるが伝来しておらず、本当に存在したのか論争があるアリストテレスの『詩学』の第二部や、当時の神学論争(普遍論争等)や、フランシスコ会における清貧論争とそこから発生した異端論議、神聖ローマ皇帝とアヴィニョンに移った教皇の争い、当時のヨーロッパを覆っていた終末意識などが複雑にからみあっている。また、実在した有名な異端審問官ベルナール・ギー(ドミニコ会士)や同じく実在したフランシスコ会士カサーレのウベルティーノの登場などによって、複雑な知と言説の模様を造っている。聖書やキリスト教神学からのさまざまな形での引用が多いことも本書の理解を難しくしているが、逆にいえばそれらについての知識が増えれば増えるほどさらに面白く読むことができるということもある。 また本書はキリスト教の歴史と笑いの関係について問題提起した書でもあり、この本を受けてキリスト教と笑いに関する多くの書籍が出版された。 うーん、たぶんあまり解らないですね。(^^; 後の自分のために、詳細を以下に。 だって書いておかないと絶対忘れて、わからなくなるから。(笑) 犯人名までバッチリ書きますから、知りたくない人はご注意を。 いつもは伏せておくんですが、引用部分をカラー文字にした都合で今日は伏せられません。 スペースを開けておくので、下へ送ってください。 殺人事件の動機となるのは1冊の本。 喜劇について論じた詩論とされるアリストテレスの『詩学』の第二部ですが、この本は伝来して おらず、本当に存在したのか論争があるそうです。 話中では実在しているこの本を見ようとする者達が、次々と殺されていく。 犯人は、その本を人に見せるべきではないと考えるホルヘ。 動機は、キリスト教への深い信仰から。 キリスト教の唱える制約により、修道士達は結婚をしてはいけない、女性は汚れた存在であるから 交わってはいけない、日常において笑うべきではない等々の生活を送っています。 しかし、本は喜劇について論じている。 科学は常に宗教と対立しながら、進化してきましたよね。 ホルヘは、そうしてまた宗教が科学に侵されて堕落していくことを嫌って、本のページに毒を塗り、 本を見ようとした者達が次々と死んでいくように仕掛けたわけです。 その謎を解き明かしたウィリアムですが、最後に文書館の中でホルヘと争いになり、灯りとして 持っていたランプの火が本に燃え移ってしまう。 件の本を含め、文書館を中心に火災が発生、最後には修道院全体が燃え落ちてしまう、という結末。 殺人事件の謎と動機しては、実にシンプルであっけないくらいわかりやすい。 ですが、とばし読みしつつも頑張った私の心に残ったのは、老アドソの信仰の方かなあ。 舞台となった修道院は、まるで俗世の象徴のような場所でした。 修道院内にも、キリスト教の教えに対して意見の食い違いがあり、僧院長や文書館長といった 役職を巡る権力争いもある。 また、女性がいない僧院で男色に走る僧、女衒の役割を果たして村娘を僧院内に手引きして 他の僧にあてがう僧がいたりもする。 それまで、純粋に自分の会派の教えを信じてきたアドソは、ここで異端についての話を聞き 何が正しくて、何が悪なのか、迷いを生じさせます。 その上、手引きされて僧院内に入り込んでいた村娘と偶然出会って、交わってしまい、 恋に落ちてしまう。 しかし、娘は異端の罪で火刑に。 本来禁じられた女性との交わりを、しかしアドソはキリスト教の教えに怯えつつも、 <善キモノ>として心に留める。 そして本の最後に、手記を綴る年老いたアドソの述懐。 いまや、私は沈黙するしかない。 <オオ、ドレホド心嬉シク、心楽しく、カツ妙なるモノカ、一人黙シテ座リ、神ト語リ合ウノハ!> ほどなくして、わが始まりの時と私は混ざり合うだろう。 そしていまではもう私は信じていない、それがわが修道会の歴代の僧院長が説いてきた栄光の神であるとも、あるいはあのころ小さき兄弟会士たちが信じていたような栄光の神であるとも、いや、おそらくはそれが慈愛の神であるとさえも。 <神トハタダ無ナノダ。今モ、コノ場所モ、ソレヲ動カサナイノダカラ・・・> 私はすぐに、その広大無辺な、完全に平坦で果てしない、無の領域へ、入り込んでいくであろう。 そこでは、真に敬虔な心が安らかに消滅していくのだ。 私は神聖な闇の中に、まったくの沈黙のうちに、捉えがたい一体感のうちに、深く深く沈んでいくであろう。 そしてそのように沈み込んでいく中で、あらゆる同じものも、あらゆる異なるものも失われていくであろう。 そしてあの奈落のなかで、私の精神は己を失っていき、平等も不平等も、何もかも、わからなくなっていくであろう。 そしてあらゆる差異は忘れ去られ、単純な基底に、何の異同も見分けられない荒涼とした沈黙のうちに、誰もがおのれの居場所さえ見出せない深い奥底に、私は達するであろう。 形あるものはもとより、揺らめく映像さえない、無人の神聖な沈黙のうちに、私は落ち込むであろう。 アドソは本来の「信仰」と呼ばれるべきものにたどり着いたんじゃないだろうか、と思います。 宗教は、肥大化し、富と権力を得て政治と結びついたら、それはもう既に信仰ではない、 と私は思っています。 老アドソは、形こそ<一人黙シテ座リ、神ト語リ合ウ>という彼の知る教義のものを使って いますが、その神がかつて自分が教えられた神ではないことを知っている。 しかし、信じる心はそこにある。 これこそが「信仰」なんじゃないのかなあ。 こういうのを見ると、日本という「神」に対しておおらかな国に生まれたことを感謝するなあ。 『鰯の頭も信心から』って言葉、好き。 信じるものこそが、自分にとっての神であり、救いであり、信仰であると素直に思える宗教観の 中で育つことができて、よかったっす。(^^) そして、老アドソの手記は最後に次の言葉で締めくくられます。 <過ギニシ薔薇はタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ> 薔薇が指すものは何でしょうね。 わたしにはそれが、老アドソにとってのキリスト教そのものと見えました。 ちなみに、本の解説にあったんですが、映画では、火刑となってしまった村娘と別れるアドソが 「私は少女の名前も知らない。薔薇の名前」と言うところが、ちらっとあったんだそうです。 その解説者の解釈では 「あれは女の子だけれども、アドソが出会ったキリストというのが『薔薇の名前』だったんじゃ ないか。キリストはどういう形で現れてくるかわからないという、キリスト教の基本的な テーゼがあるから。自分にとって誰がキリストであるかは、予期しない時に予期しない形で 現れるかもしれない。アドソにとってのキリストは、あの女の子の形で現れていたんじゃないか」 ということらしい。 となると、特定の宗教を持たない私の感想も、あながち的はずれじゃないのかもね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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