第十一話『手探』「・・・。」麻衣が俺のウィンドブレーカーの裾を、しっかりとつかんでくる。 俺はハンドライトのスイッチをオフにすると、振り向いて麻衣を見た。 麻衣は血の気もないような顔色だ。 茶褐色の液体で薄汚れた壁。 一枚として無事なものがないステンドグラス。 退廃した虚無感と、異様な空気。 何から何まで非常識だった。 ふと、以前アメリカのB級映画で見たことのある、邪悪な新興宗教団の血なまぐさい儀式を思い出す。 そして。俺達が今みているこの光景は、それらの映画のセットとしては申し分ないほど、邪悪な意志と背徳の力に満ちていた。 入り口のすぐ左手の壁際を見ると、古めかしい大きなオルガンが置いてある。 長い間誰も使わなかったのだろう、それは静かに埃にまみれたまま、悠久の年月に身を委ねながら朽ちようとしていた。 俺は魅入られたようにオルガンに近づくと、フタを開けてみた。 外側とは異なり、鍵盤はまだ新しそうに見える。 ペダルを軽く踏みながら鍵盤の一つを押してみたが、音は鳴らなかった。 「鳴るわけないじゃん・・・。」 恐怖を紛らわせるためか、背後の麻衣がわざと呆れた口調で言う。 俺は軽くうなずくとオルガンから離れた。 それから、何気なしに、オルガンの脇の壁際の通路に視線を滑らせた。 反射的に左右を見回して周囲の状況を理解した俺は、無意識のうちに後ずさりをしていた。 「どうしたの?何かあったの?」 「来るな!」 俺の厳しい叫びに、オルガンのある壁際に、近寄ろうとした麻衣が身を竦める。 まるで厳しく叱られた子供のように。 オルガンのある通路から離れた俺は、肩で深呼吸をしながら、今見たものを脳裏から追い払おうとした。 骨。白い骨。茶褐色の骨。黒ずんだ骨。 小さな骨。大きな骨。太い骨。細い骨。 まるで掃き寄せられた枯葉の山のように、壁際の通路を埋め尽くしていた、骨。 しかも、骨の山はそれだけではなかった。 今まではベンチの死角になっていて見えなかった壁際には、いたるところに、人骨と思われる骨が山を成していた。 つまり、この小教会全体が、一種の骨壷のようなものなのだ。 黙り込んでいた俺は、俺に怒鳴られた麻衣が、まだ背後で硬直していることに気づいた。 「ごめん。怒鳴って。」 「・・・。」 「でも、麻衣ちゃんは見ない方がいいよ。見たら、二度と忘れられなくなる。」 麻衣が心配そうに俺のそばへ寄ってきた。 「何だったの?教えて?」 「骨の山だ。」 「骨・・・。」 噛みしめるようにその単語を口にした麻衣は、気丈にも俺の前を横切って壁際の通路に行った。 そして、青白い顔で戻ってきた。 「・・・。」 「大丈夫?」 「うん・・・。」 「この教会は、普通じゃない。浩太がここに居るとなるとやっかいだな。」 麻衣の気持ちも同じだろう。代弁する形になったが、俺の方が気持ちは大きいような気がする。 「それで・・・これからどうしようか?」 震える声で麻衣が言いかけた時、目の前のオルガンが突然鳴り出して、俺と麻衣は体を軽く硬直させた。 オルガンはひとりでに鳴っている。 すると、堂内の全てのランプがチカッと瞬いた。 まるで、よく子供がやる悪戯のように、スイッチを一瞬だけオフにしたような瞬き方。 まただ。 横にいた麻衣が震えながら、俺の腕にしがみついてくる。 今度は連続で三回。 一瞬だけ視界の全てが暗闇になったと思ったら、また明かりがつき、また一瞬だけ消える。 俺は、ある本の一節を思い出した。 軍隊の拷問について書かれていた本だ。 捕虜を縛りつけ、視線の正面から、一秒に一度の割合で明滅する眩しいライトを断続的、永続的に当て続ける。 これを何十時間も繰り返すことで、瞼を閉じても忍び込んでくる光の暴力によって捕虜の精神はやがて破綻し、意思や理性の力は崩壊してしまうそうだ。 自白を拒否する強い意志さえ蝕んでしまい、この拷問を受けた捕虜やスパイ達は、拷問を受ける前と比べて簡単に口を割るという。 もう一つ、同じ本に書いてあった別の内容を思い出した。 前述の拷問方法とは逆に、一瞬だけの闇を強制的、断続的、永続的に与え続けると、どうなるのか。 本にはこんなふうに書いてあった。 『これらの光学的攻撃によって、被験者の視覚神経は少なからず異常を来し、闇の中にありもしない虚像を知覚する。被験者は実験後も恒常的に闇を恐れ、やがては覚醒剤中毒による幻覚に怯えるのと同様、精神を冒されて自滅的最後を遂げる傾向にある』 俺がそう思った瞬間、ランプが激しく明滅を繰り返し始めた。 まるで狂ってしまったかのように。 例の古びたオルガンの演奏も、以前よりテンポが上がり始めている。 俺の腕にしがみついている麻衣の震えが、俺にも伝染してきた。 何かが起きる。 何か、とてつもなく悪いことが・・・。 あの本に書いてあったように、一瞬だけ暗闇の中に様々な幻覚が見えた。 堂内の空間に、まるで黒雲のように浮かんだ 膨大な数の昆虫の群れ。 空中を凄まじいスピードで左右に飛び交う、白いもやもやとしたガスのようなもの。 血塗られた壁に浮かび上がる、人の形をした黒い影。 物陰から凄惨な笑みを浮かべて、こっそりこちらを窺っている得体の知れない存在。 下半身が煙のように霞んだ、異様に背の高い誰かの姿。 床をいっぱいに埋め尽くした、白いナマコのような生き物。 「嫌!」 恐怖も限界のように、麻衣が絶叫を上げた。 俺も同じ気持ちだった。 俺達はほとんど同時に走りだすと 入口の扉に駆け寄った。 大きな音がして目の前の扉がひとりでに閉じ、俺と麻衣は激しくそれにぶつかった。 「嫌・・・嫌!」 尻餅をついた麻衣が鳴き声をあげる。 これを聞いた俺はすぐに起き上がると、夢中で扉に自分の肩をぶち当てた。 だが、まるで誰かの意思によって閉ざされたかのように、扉は軋みのひとつも上げない。 やがてランプの明滅速度は、電気回路の常識を超え始めた。 無人のオルガン演奏も、すでに人間が演奏できる速度の限界を超えて、もはや曲と呼べるものではなくなっていた。 俺はひたすら扉にタックルを繰り返し、麻衣は座り込んですすり泣いている。 開けなければいけない。相当強い衝動に駆られて、俺は扉に体当たりを続けた。 ここに入る時にはあれほど軽く開いたのに、今ではまるで石になってしまったかのように、びくともしない扉になってしまった。 突然だった。 全てのランプが闇に沈んだ。 オルガンの演奏も、まるで演奏者が、途中で癇癪を起こしたかのようにぴたりと止まった。 一瞬にして俺と麻衣の周囲の空間を、重苦しい闇と忌むべき沈黙が支配した。 「嫌・・・。」 背後で麻衣の鳴き声がする。 扉から離れ、手探りで彼女を求める。 そして俺は、暗闇の中で抱きしめた。 弟の彼女だと言うことは、もうこの場面に必要なかった。 麻衣の為でもあり、自分もそうして居ないとおかしくなりそうな程の恐怖がそこに存在していた。 「どうなっちゃうの・・・?」 「わからない・・・。」 闇の中で言葉を交わし、しっかりと抱き合いながら、俺はあの悪夢のことを思い出した。 永続的に落下していく夢。夢の中で俺は目を閉じているので、見えるものは何もなく、真っ暗だ。 そして、今のこの暗闇と、得体の知れない恐怖。 シンクロしている。 シンクロしているということは、いつも見ることの無い夢の続きが現実にやってくるということだろうか。 落下している最中に目を開く。地面を捉え、叩きつけられる。 痛みなら耐えられるかもしれない。 だが、この恐怖を永続的に与えられ続けたら、耐えられる自信は無かった。 だが、横に居る麻衣の為にも、自分が頑張っていなければならない。俺がどうにかなってしまったら、麻衣はきっと支えを無くしてしまう。弟の彼女を壊したくは、無かった。 鐘の音に導かれるようにしてこの教会にやってきて、いくつもの恐怖を味わった。 車のボンネットの中に見えた目。 ラジオや携帯電話から聞こえてきた読経。 鐘もないのに鐘の音を鳴らす鐘楼。 鉄格子の向こうの深い闇。 勝手に鳴り出すオルガン。 血塗られた教会。 「出て来い!化け物!」 麻衣をしっかりと抱きながら、こんな手の込んだ真似をして、俺達を怖がらせて楽しんでいる者に、いつしか俺は激しい怒りを覚えていた。 恐怖を通り越して、そこにあったのは怒りだった。 この世に存在してはならないのにもかかわらず、生者と死者の境を侵してこの地にとどまり続け、今も闇の中で息づいている何者かへの。 「畜生!」 二度目の俺の怒声に呼応して、暗闇の中に凄まじい連続音が続いた。 かつては堂内の壁の上に嵌め込まれていた、粉々に割られていたステンドグラス。 その残っていたわずかな破片が、鋭い音を立てて粉々に砕け散っている。 「っ・・・!」 俺達の目の前。 堂内の中央の何もない虚空の闇の中に、青白い顔が浮かび上がった。 口から血を吐き、頬を引きつらせた苦悶の表情。 やがてあらぬ方向を向いていた怨霊は、闇の中から俺達を見下ろすと、寂しそうに笑った。 闇の中に浮かんだ、怨霊の顔。 それは笑っていた。寂しそうに笑っていた。 だらんと舌を出し、顔中の穴から血を流しながら、それは寂しそうに笑っていた。 笑っていた・・・笑っていた・・・でも、なぜ・・・? それが、俺と麻衣の最後の意識だった。 -to be continued- ジャンル別一覧
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