好きを仕事にする
会社休んで3日目(2月9日時点)。いやー、明日から3連休なので、普通の人だったら「6連休?」という感じで、非常に感じ悪いのだけれど、休んじゃいない。有給とって自宅で1日中仕事ばかりしている。昨日も15時間労働だった(病院でスマホを持っては仕事してアホみたいだ)。食事もこの3日、豆乳とチョコレート2粒、アイスクリーム2個しか食べていないので、ずいぶん痩せた。この間(かん)、病院で検査したり車に乗せられたりしたのだが、自己判断では元気である。というか、仕事が楽しいなと改めて思うのである。時間を忘れるくらい没頭する、自分の時間をそこに思いっきり費やせる。そんなことが仕事にできれば、それはまさに「天職」だと思う。私は今の仕事がそうであって、ここ10年ちょっとくらいは特にそれが「行き過ぎる」くらい集中してやっていた。振り返ってみるとそこそこの結果は出せたし、失ったものもあるけれど、後悔はしていない。今も、やりたかった案件をやっていて、そこそこ大変なのだけれど、ちっとも辛くない。それなりにタイトなスケジュールを急に言われても、同じ話をループして説明することになっても、それでも楽しい。普通、こういう状況だったら「面倒だ」と愚痴をいう人もいるかもしれないが、それは仕事を「質草」、つまりご飯のための労働としか考えていないからだと思う。私の場合は相手のいろいろな都合とか理由もあるだろうし、倒れてもいいからいい商品を作るために一所懸命やろう、という気持ちの方が先立っている。それは、仕事をしている相手の「顔」が見えているからだと思うし、相手のことを信頼しているからだ。先方も私の職階にこだわらず、一仕事人として、人間として認めてくれているからだと感じる。それは、自分がどうしてもこの仕事をしたいんです、という熱意とか、嘘偽りなく仕事をしてきたことを認めてくれたからだと思う。私がどういう肩書だから、ではなくて「何を言って何をやるか」ということを見て、協力してくださったんだなと、相手の言葉の端々からそれが伝わってくる。信頼という言葉がどういうものかというのを、仕事を通して感じることができる。幸せだな、と思う。お金を積んでも決してできないような会いたい人に会って、自分の提案をぶつけて、そして最後は自社の利益になるのだ。こんなにわがままな仕事もない。好きを仕事にすると、お金以上の、精神的な何かを得ることができる。私はそう思う。お互いに連絡の取れるツールで密に連絡を取り、一番早くて効率的な結論をどうしたら得られるかを提案しあう。そこに決裁云々という社内ルールのいくつかは不要だと判断されればスキップされていく。こういうことが大きい会社でできてしまうことに圧倒されるし、ただただ感謝して頭の下がる思いでいっぱいなのである。決裁や報告云々というルールは事故を減らすためのリスクヘッジだけれど、多くは建前事である。何かあった時に自分の責任じゃないですよ、というための機能の方が大きい。それを時と場合によって臨機応変にやることが、会社や管理職の力量である。まずは結果を出すことがすべてであって、手順を踏むことで時間を無駄にしたり、クライアントの「ノリ」とか作業への集中を妨げてはならない。能力の低い管理職は、本当に建前や自分の体裁さえ繕えば良いってことしかしない。規則をふりかざして部下を締め上げてまとめようとする。本人自体も規則の奴隷なのだ。考え方が「お公家さん」なのである。ちゃんとやっているつもりでそうしているのなら本当に残念だが、マネジメントがわかっていないのだ。そして泥をかぶろうとしない、部下を守らない。逆をやればもっと利益も上がるだろうに。仕事も人間関係も「信頼」が一番大事である。肩書はすごいけど信頼できない人に対してはそこそこの対応でやりすごし、「察しのいい人」との時間を密にしていけば、どんな仕事でも天職になっていくだろうし、プライスレスな「歓び」も獲得できるようになるのではないか。好きな仕事だったら尚のことそれを「やり抜く」可能性がぐっと高まる。働き方改革は「時短」からではなく「信頼できる人と会う時間を増やす」ことから始まる。そうすれば面倒な雑用は減り、ストレスも減り、利益も増えるはずだ。