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日記はこれから書かれるところです。

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2005.10.26
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二つの自由概念ともう一つ(俺のための理論的整理)

ある種の人々は、二つの自由概念と書いた時点で、これから何が語られるかわかることと思う。だが、そうしたある場所における「常識」は、現代民主主義における重要な鍵である情報流通にのっているとは言い難いのが実情ではなかろうか。

てなわけで、俺は、多少の誤謬可能性を恐れずに、果敢にこれを書き記そうと考える。言うまでもないことだが、ァイザイア・バーリンの「二つの自由概念」に関してである。
そして、その二つのあとにもうひとつを付け加える予定だ。これが前者二つとどのような関係にあるのかも考えられれば考えようか。


■自由への二つのアプローチ

バーリンによると、「自由」は常に「権威」との対比において概念されてきた。そして、そこには二つのアプローチがあった。

ここは俺流に纏めさせてもらうが、二つのアプローチは、両方とも問いの形をとっている。

ひとつは、「個人が権威に干渉されない範囲はどれくらいのものか」という問いであり、いまひとつは、「どのような場合、権威は正当に個人を干渉できるのか」という問いである。

前者を問うた代表はJ・S・ミルであり、後者を問うた代表はJ・J・ルソーである(ちなみに、俺はこの両者は本当に天才だと考えている)。


■二つの自由概念

前者の問いへ対するミルの答えは「危害原理」と呼ばれるもので、多かれ少なかれリベラルズの大前提なのではないかと思う。これは、「他者への具体的な危害を及ぼさない限りにおいて、自由は最大限認められるべきだ」というものだ。
つまり、自由概念への一つの回答は「他者に危害を及ぼさない限りにおいて、権威は個人の自由を奪えない」ということになろう。

それに対し、後者へのルソーの答えは「自己統治」と呼ばれるもので、国民主権原理の大前提となっている。これは、「自らが自らの主人である限りにおいて、強制は正当化される」というものだ。
つまり、自由概念へのもう一つの回答は「権威が自分自身による(正しい)命令である限りにおいて、<自由意志>において従うことができる」ということになろう。


■バーリンの評価

バーリンは、この二つの自由を、それぞれ「消極的自由」と「積極的自由」と呼ぶ。
「消極的自由」は「(国家)からの自由」として表現され、「積極的自由」は「(国家)への自由」として表現される。

バーリンは(両方が大切だと後になって述べるのではあるが)、明らかに消極的自由が大切だと言い切っているように読める。

その理由は、「積極的自由が新たな権威に取って代わることを求める」のに対して、「消極的自由は権威を掘り崩そうとする」からである。
(これは明らかに東西冷戦期において、西側の肩を持っていたからだという風に読む研究者もいる。)


■自由の構成

ここからは、この二つの自由相互の関係のことを考えたいのだが、これに関しては、俺は二つの考え方を紹介したい。

ひとつは、バーリンの概念分類は「(われわれの考える)自由は簡単には折り合えない二つの原理で構成されている」ということを示しているという読み方。

もうひとつは、「消極的自由と積極的自由はコインの表裏であって、分かちがたく結合している」という読み方である。

全く違うことを述べているような二つの読み方だが、俺は、実は両方真理だと考えている(一応、現代民主主義においては、という留保をつけておこうか)。

現代民主主義においては、「消極的自由は積極的自由に支えられており、積極的自由は消極的自由の保障のもとに成り立つ」ように思える。
そして、だからこそ、それらの保障の源泉は、それぞれ外部に求められなければならない(自由は弱い)。

すなわち、(ミルが求めるような)個人の自由の保障は、絶対的な徳(価値・正しさ)として、それが認められていなければならず、(ルソーが提出する)自己統治は、自由の保障がなければ、ただの「多数の専制」あるいは「全体主義」に陥ってしまう(後者の読み方)のだが、これらは別々のアプローチにおいて保障するべきだと思える(前者の読み方)わけだ。

両方大切なのだが、それをただ唱えても始まらず、両方をそれぞれにおいて保障する必要がある。
そして、私見では、これを可能にしているのは、結局「憲法」なんじゃないかと思える。「憲法」を「自由の構成=constitution」という風に、語義通りに捉えるべきだと思うわけだ。

前回「続々・回り道雑談」で法曹界の問題矮小化に関して述べたが、あれはあきらかに、片方のアプローチしかしていないように俺には思えたわけだ。


■もうひとつの自由?――全体主義へのカウンターとして

さてある種俺のための基本的自由概念のおさらいが終わったのだが、いまひとつ無視できない自由概念が無いわけじゃない。
10年前くらいから、ヨーロッパで大流行したハンナ・アーレントのものがそれだ。

当時フランスに留学していた友人にアーレントの流行について訊ねたのだが、曰く、ヨーロッパでは全体主義の問題への知識層の意識が高く、再びこの問題が起こらないようにと本気で考えているようだ、という旨回答を得たことがある。つまりは、全体主義をしっかりと見据えながら鍛えられたアーレントの論に全体主義理解と解決の鍵があると考えられているわけだ。

ともかく、彼女の自由概念は独特だ。

アーレントの新しさというか独自性は、自由を公的概念として捉えたことである。
アーレントにおいては、自由は「公的現れ(appearance)の空間」においてのみ保障される。そして、その「公的現れの空間」はアーレントの意味における「政治」の空間でもある。

アーレントによれば、近代に入り、私的領域が重要視されるようになったことが、自由を奪った原因である。全体主義も、自由の後退に由来するものといえる。


■公的自由の条件、あるいは誤解される「公」

さて、公的自由なんてことを言うと、頭の悪いという意味での「保守」が喜びそうだが、残念ながらそういうわけにはいかない。

アーレントの公的空間の重要な要件は、「plurality(複数性)」である。
これは、さまざまな言説が競合することを必要とし、誰に対しても開かれているということを根源的条件とする。
つまり、偏狭な排他的ナショナリズムとは、絶対に結びつかないものなのである。

そこには「他者の現れ」が絶対要件であり、それによって計算できない「自由」が現れるのである。アーレントにとっての自由は「予測不可能性」を保持している。

「公」が無い状況の危険は、自分勝手が増えるといったこととは違う。むしろ逆に、「他者の現れ」の無い状況では、切り分けられた個人は簡単にステレオタイプに絡みとられてしまうという危険なのである。

つまり、「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)として見られる「権威への逃避」は、アーレントによれば、開かれた他者がいなくなったからこそ、全体主義化したと解釈されるわけだ。(フロムの「自由」をアーレントは絶対に自由とは呼ぶまい。)


■この国への処方箋になるか?

俺はこの国は、間違いなく全体主義化していると思っているが、それは上に見た三つの自由のどれとも関係しているように思える。

俺はここまで、それぞれの<身体>言語を、公的言説とすることと何度も述べてきたが、無論、それは「消極的自由」と「積極的自由」のことだ。

そして、アーレントの自由概念に助けを借りれば、まさに、他者との関わりにおいてそれが可能だともいえるのかもしれない。

アーレントにおいて、自由は、ただの自己利益的言説を超えて、全体主義化する政治へのカウンター言説として機能しうるように思う。そして、もしかすると、現代における、「積極的/消極的自由」の結合の鍵かもしれない。
だから、愛国心があればこそ、堂々と自由を主張するべきなのだろう。

もしかすると、こうしたブログの活動というのは、ひとつの開かれた活動足りうるかもしれないな。

参考:『談』(Web版)


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Last updated  2005.10.29 15:23:49
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