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カテゴリ:政治あるいは自由論
(1)からだいぶ時間が経ってしまった。前回からのこの稿の大胆な予測を先に語っておけば、もし人がコミュニティというものをその自然(nature)として必要とし、そのコミュニティが人権を必要とするのであれば、われわれは人権をまた違った角度から認めることができるのではないかということである。そして、その鍵はヴァルネラビリティであるというのもすでに語ったところだ。
■人間、最も弱きもの この小見出しにおける「弱さ」はヴァルネラビリティのことではない。物理的弱さのことである。 人間(あるいは単に、ヒト)は、あらゆる動物の中で最も弱いものとして誕生するというのはよく指摘されることだ。放って置かれたらただ死を待つのみのこの弱き存在は、自身の生存可能性を、圧倒的なまでに他者の「絶対的善意」に任せている。つまり、人間(ヒト)は、その生存の始めから、<他者>に絶対的に依存しているといえる。 もし、このオッパイに毒が塗ってあったらと疑ったら、生きてはいけまい。 われわれの「言葉」は、そうした<依存>の関係性の中で鍛えられたのではないだろうか。保護者を求める、あるいは栄養を求めるための、初めての発話行為(始めは不快な音を発しただけだったかもしれない)は、相手にその意を汲み取ってもらうことを通じて、言葉としての形を整えていったのではないだろうか。 口をつぐむ事で発音が可能な最も簡単な音、ママが母親を表し、マンマが栄養を表すのは、まさに、その意図するところを相手に汲み取ってもらったからであろう。 われわれは、このように自ら意図するところを他者の「絶対的善意」でもって汲み取ってもらうことを必要としていたはずだ。そしてそこには「絶対的に肯定される」という意味での安心の場所、幸福の場所があったはずだ。 少なくとも、われわれには、根源的なところにおいて「他者依存性」を保持しているということはひとつの仮説として述べてよいのではないかと思える。 ■他者依存性と傷つき だが、もちろん、われわれが根源的に「他者依存」的だからといって、われわれが本当は友愛的な繋がりを保持できるのだと無邪気に主張したいわけではない。 俺が伝えたいのは、それとは逆で、われわれはこの安心の場所、幸福の場所を離れるときが来る(あるいは、来た)という事実なのである。「絶対安住の地」に住み続けることができないことは容易に理解できることだ。「他者」という「変数」の集まりの世界において、自身の世界が調和を持つというのは、確率論的に大変なことである。「絶対安住の地」に住み続けることは、原理的に不可能でなのある。 人間(ヒト)は、さきの根源的他者依存性を有しているがゆえに、安住の地を離れてもなお、他者の絶対的善意への憧憬を持っているはずだが、実はそのことが、第二の問題を生じさせる。 <他者>へ依存しようとしているのに、受け入れられなければ(neglectされれば)われわれは大変に傷つく。そして、傷つくことを恐れることは、同時に、<他者>を傷つける可能性をも保持しているのである。 ■防衛機制とディレンマ 「絶対安住の地」を離れるにあたって、人間(ヒト)は、<他者>に受け入れられないという多くの失望(disappointment)を経験する。 そこで受けた「痛みの記憶」がやがて防衛機制として働き、<他者>に求めないことを覚えていく。 だが、もしわれわれの幸福の源が、上に予想したように、<他者>にあるのであれば、これは解決不能のディレンマに陥っていることがわかるだろう。 つまり、幸福は<他者>にあるのに、まさにその<他者>を恐れて、近づけないのである。 ■弱さと攻撃 傷つき傷つけることへの恐れ(vulnerability)は、以上の観点からすれば、いわば宿命である。 傷つくことへの恐れは、<他者>からの働きかけに対して防衛機制として「無視」することを教える。そして、言うまでも無く、この「無視(neglect)」は他者にとっての「失望」である。あるいは、本当に「失望」続けてきた者は、ときに、この<他者>からの働きかけや訴えに対して、「憎悪」でもって返す。それは、自らのやり場の無い「失望」から来る「鬱憤」を、自らよりも弱い<他者>に攻撃として吐き出し、相対的に精神経済を安定させようとする策なのである。 こうした破れかぶれ戦略が、ネットの世界で転がっているのは不思議なことではない。リアルで認められない者たち(「失望」し「鬱憤」を溜めた者たち)が、ネットに精神経済の安定を求めるのである。 「自殺志願者」のサイトや、社会的にすでに非難されている者のサイトへの書き込みが、こうした憎悪表現に満ちているのは不思議ではない。さらに、つぶさに見れば、そこには必ず「お前は弱いんだ」というメッセージが見られる。弱い<他者>を「作り出す」ことによって、相対的に自分の弱さを覆い隠したい表れなのである。 また、社会の「情念的連帯」に反抗するかのようなブログに対し、憎悪の表現をぶつけるのも同様だ。疎外されてきた彼らこそが、その「分裂」状況を許せないのである。<他者>を攻撃する彼らこそ、実は<他者>との連帯に憧憬をもちつつ、その方法がわからない最も弱きものなのである。 ■<他者>への恐れ ところで、他者依存的であるということは、他者に受け入れられるか否かが精神に大変な負担をかける出来事であるということだ。 われわれを何よりもヴァルネラブルにするのは、<他者>が端的に「わからない」からに他ならない。わからないから「恐れ」や「不安」を持つというのは、ステレオタイプで理解してもしょうがない。単純に、自分が受け入れてもらえるかわからない対象、それが「他者」なのである。 上にみたネット上の匿名の彼らが、守られた場所から憎悪表現をぶつけるのは、自らの理解できないものを極度に恐れているからに他ならない。自らが理解できない者が「意見」を「論旨明快」述べたとき、そして、その論が主流を形成しそうになるとき、今度は逆に自らが否定されることになる。自分が受け入れられなくなる。その恐怖心が攻撃的な行動の引き金となる。 ■「vulnerable」である者の二つの選択肢 われわれは<他者>を恐れるのであるが、そうしたとき、<他者>との関係性に対してわれわれの採りうる選択肢は少なくとも二つあるように思える。 一つは、それを避け「引き篭もる」こと。もう一つは、その「弱さ(vulnerability)」を乗り越えることである。 まず断っておけば、俺はどちらが正しいとか、どちらかを選ばなければならないなどと言うつもりはない。恐らく、われわれは場合に応じて、この選択肢を複合的に使い分けているはずだ。 しかし、われわれが<他者>との関係に幸福を見出す存在だという先の仮説が正しいのであれば、どこかで<他者>への恐れを「乗り越える」契機を保持していなくてはなるまい。 ■根源的な問い これは、<他者>と「わかり合えるか」という問いに等しいものだと思われる。もしわれわれが根源的に<他者>とわかり合えないのであれば、そもそも<他者>への恐れを「乗り越える」必要はあるまい。 だが、もしわれわれが<他者>と「わかり合える」ことを信じ、それらとも「共に生きる」ことを求めるのであれば、そうした「勇気」を持つことに意味が見出せるのではなかろうか。 少なくとも、たった一人でも「わかり合いたい」相手がいるのであれば、この仮説は力を持つのではなかろうか。 ■「引き篭もる」という選択 俺が引き篭もるという選択をバカにしているなんて思わないで欲しい。実は、これが本当に可能な選択肢であるならば、それはそれで素晴らしいことだとさえ、俺は考えている。 しかし、上に今見たのとは逆に、実際のところ、引き篭もり続けられるやつはいない。つい、ネットを開いてしまう。自分が受け入れられないまでも、他者に匿名でかかわり、働きかけるという擬制を経験しようとしてしまう。 引き篭もっている人間こそ、本当のところ、あの「絶対安住の地」への憧憬を持っているわけだ。認めて欲しいわけだ。 しかし、彼らが実際に採っているのは、破れかぶれ戦略でしかない。 そうした二つの意味で、われわれは<他者>への恐れを「乗り越える」戦略を採らなければならないのではなかろうか。 ■成員資格の相互承認。 これくらいの紙幅でもって、一気に結論まで至ろうとすれば、いささかユートピア的に感じられてもしかたがないかもしれないが、われわれが本当のところ「受け入れられたい」という根源的欲求を持っているのであれば、ヴァルネラビリティに自覚的でありながら、他者との関わりに「勇気」を持つことしか方法はあるまい。 結論を急げば、われわれは、「傷つく=求める」の間を動いているわけで、その間において、少しでも「勇気」を持つことを可能にする条件を模索するのが最も合理的ではなかろうか。 自らが受け入れられ、それが恒常的原理となるためには、共同体が「法の支配」的でなければならないだろう。 R・ドゥウォーキンが憲法実践に見出したものが「平等な尊敬と配慮を求める権利」であったことは示唆的である。 「平等な尊敬と配慮」とはその意味において「受け入れられる」ということであると同時に、その原理においては、それを「場当たり的なもの」にしないための共同体的宣言なのである。 もし、人間(ヒト)が受け入れられることを求める運動を、その生において繰り返し、さらには、そうした人間(ヒト)の集まりである社会が、そうした運動を続けてきているのであれば、ドゥウォーキンの解釈は、確率論的合理性にしっかりと支えられているということが言えよう。 ■コミュニケーションの作法=権利 われわれは自身の利益を出し抜くために権利主張をするのではない。権利とは、上に見たように、まさに他者との友愛的連帯を求め続けるがゆえに主張されるのである。そうしたことは、実際の立憲主義の流れを見れば読み取れるはずである。 こうした観点から、憲法12条を読めば、この条文に味があることがわかるはずだ。 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 これは「権利はときに全体の利益のために制限される」なんてドアホウな読み方をする条文ではなく、友愛的連帯を求めた規定だと解せないだろうか。 かの「権利のための闘争」において、イェーリングは、「闘争」の理由を共同体的正義に資するものとしても求めているのである。 つまりは、われわれの権利とは、ヴァルネラビリティを保持した弱い人間(ヒト)が、その憧憬に対して勇気を持って迫るための「作法の宣言」なのである。 われわれはヴァルネラビリティを保持し、弱さを保持するからこそ、そこに作法を見出し、お互いを「尊厳ある者」同士として扱うことを求めてきたのだろう。その作法を形成し続ける原理こそ、この権利に見出せるものなのではないかと思う。 (1)のはじめに書いたようにrenqing氏が、「人権は単なるお題目ではなく、人間の ‘vulnerability(傷つきやすさ) ’について、深く静かに考えることに尽きる、ということを如実に示してい」ると述べるとき、ここまで迂回してきたような事柄が含まれていたのではないかと、俺は勝手に解釈するわけだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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